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ロシアへ ★

 『次は何でしょうか?』

 『えぇぇ……』


 ナイチンゲールの求めに松陰はウンザリした顔をする。

 昨日に続き今日もやって来て、医療に関する知識を要求した。


 『何を嫌がっているのですか! 昨日ではっきりとわかりましたわ! 貴方の知識はあんなものでは無いと!』

 『買いかぶり過ぎですよ。貴女のお役に立てるのはあれくらいだと思います。』

 『それは私が判断致します! 貴方は貴方が知っている全ての事をお話しになれば良いのです!』

 『全て話せと言っても、漠然としすぎていて困るのですが……』


 彼女の訴えに参ってしまう。


 『そうですわね……。では、昨日の医食同源からお話し下さいな。』

 『うーん、医食同源ですか? では、専門家を呼んで参りますのでちょっと待っていて下さい。』

 『専門家?』


 松陰は漢方医の元琰を呼びに行った。 

 餅は餅屋に限る。

 適当な事を言っていると勘の鋭い彼女に見破られ、更なる深みにはまってしまいそうだ。 


 『この方が医食同源の専門家です。』

 「お話は伺いました。この私で宜しければご教授致します。」

 『お願い致しますわ!』


 こうして松陰が訳す元琰の講義が始まった。




 『勉強になりましたわ! 陰陽、でしたか。体を休める働きと活発にする働きのバランスが崩れると体調を崩すとは不思議な感じですわね。思えば、興奮してしまうと眠れなくなりますものね。それは同時に脈拍数の増加も伴いますし、何となく納得出来ますわ。』 


 それは以前に松陰が元琰に伝えていた、交感神経と副交感神経の働きを陰陽に譬えた話である。

 今回はそれを彼女に教えたのだ。

 他にも薬に使える植物などを伝えている。


 『その植物がヨーロッパにあるのかは、シーボルト先生がご専門ですよ。』

 『分かりましたわ!』


 彼こそうってつけの人物であろう。


 『では、次をお願い致します!』

 『えぇぇぇぇ』


 真剣な眼差しで催促する彼女に呆気に取られた。


 「先生? テムズ川を綺麗にする方法を教えてあげればいいんじゃない?」


 見かねてスズが申し出る。


 『テムズ? テムズ川の事ですの?』


 スズの口にした単語をナイチンゲールが聞き逃す筈も無い。

 仕方なく説明を始めた。


 『えぇと、テムズ川を綺麗にする方法ですよ。』

 『何ですって?!』

 『元々川の水には汚れを分解する微生物などが住んでいるのですが、大量の汚れが一気に流れ込むと、水中の酸素が足りなくなって活動出来なくなるのです。下水道の整備を進め、汚水は川に流すのではなく下水として流す必要があります。』

 『都市の人口が増え、下水道の容量が足りなくなっているのです……』

 

 ロンドンに下水道はあったが貧弱な規模であった。


 『それは兎も角、テムズ川を綺麗にするには水中に空気を送り込めば良いのです。それには製鉄所の炉に空気を送り込む仕組みを使えば事足りましょう。』

 『その様な事で川が綺麗に?!』


 非常に簡単な方法に驚いた。

 試すにしても取り掛かりやすいだろう。


 『実験はテムズ川の水を二つの桶に汲み、片方には空気を送り込み続け、片方はそのままで時間の経過を見れば良いと思います。グラスに汲めば透明度の変化を見る事が出来ます。』

 『分かりましたわ!』

 『但し!』

 『何ですの?』


 松陰の言葉に訝し気に首を傾げる。


 『桶の水は動きませんが、川には流れがあります。実験で結果が出ても、実際は思う様にいかないかもしれません。その事はご留意下さい。』

 『実験と実際が違うのは理解しておりますわ!』

 『石炭を燃やすと雨が酸性になるので、牡蠣殻を水に沈めると中和されます。製鉄炉の鉄屑も水の浄化に役立ちますので実験してみて下さい。』

 『分かりましたわ!』


 頼もし気に力強く言い切った。 

 それにホッとし、おずおずと申し出る。


 『我々も出発の時が近づいておりますので……』

 『では、出発するぎりぎりまでお願いしますわ!』

 『ははは』


 笑顔のナイチンゲールに乾いた笑いしか出ない。 




 使節団はベルギーからオランダへと移っていた。

 ヨーロッパ諸国の中では唯一、日本と長年に渡り国交を保ってきた国であるので、歓迎式典は国を挙げてのモノとなった。

 

 一方の松陰はフランクフルトのロスチャイルド、ロートシルト家に招待され、本隊とは別れて行動していた。

 ロンドンのライオネルより連絡が入っていた様で、話を聞きたいらしい。

 ナイチンゲールの追求に精魂果てた松陰は、物はついでとメルヘン街道に足を伸ばし、疲れた心を休めようと画策した。

 スズや千代といった気心の知れた者達を連れ、馬車で街道を進む。


 当主アムシェル・マイヤー・フォン・ロートシルト男爵は既に老齢の人で、ライオネルの伯父に当たる。

 柔和な笑顔を浮かべる小柄な老人であった。

 ライオネルよりユダヤ人の虐殺に関する話を聞き及び、急遽面会を希望したそうだ。

 アムシェル男爵はかねてからユダヤ人の地位向上に努めてきており、それが台無しになるかもしれないと聞き、居ても立ってもいられなかった様だ。

 

 松陰はライオネルに話した内容を繰り返す。

 それと併せ、満州国の計画も説明した。

 結果、時機を見てロスチャイルド家に連なる者を日本に派遣したいと申し出が為された。

 縁があって悪い訳ではないので、それを了承する。


 ロートシルト家を発ち、予定通りにメルヘン街道へと向かう。 

 当時からメルヘン街道と銘打っていた訳では無いが、グリム兄弟が長年を過ごしたカッセルから北上し、中世の雰囲気が色濃く残る街道沿いの風景を楽しんだ。

 ハーメルン、ブレーメンを訪れ、記憶にある童話の世界を堪能した。


 本隊と合流する為にベルリンに向かう。

 道すがら歓迎され続ける本隊の進みは遅く、見込み通り同じ頃に到着した。 


 プロイセンでは『鉄血宰相』の異名で有名になるビスマルクがいた。

 当時プロイセンの外交官を務めていた彼は、日本との条約締結に向けて交渉の場に参加していた。

 とはいえ個人的な興味がある訳では無いので、握手をするだけに留める。

 ベルリンを発ち、一行はロシアの首都サンクトペテルブルクを目指した。 


 サンクトペテルブルクではプチャーチンが出迎えてくれた。

 無事の再会を祝う。

 そして使節団はロシア皇帝ニコライ1世への謁見を果たした。

 歓迎のセレモニーがあり、引き続き条約締結の為の事前交渉と、日本ロシア間の国境に関する話し合いの場が設けられた。 

 プチャーチンに打診していた、日本が千島列島と樺太を得る代わりに、アラスカ及びロシア極東地域の共同開発を行うという計画である。

 

 プチャーチンによれば、ニコライ1世は思ったよりも前向きであるが、政府首脳陣が猛反対しているとの事。

 松陰は反対派にも納得出来る様にそのメリット、将来性を説明していく。


 『考えて頂きたいのはロシア極東地域の開発に当たり、我が国の位置するその意味です。』


 まずはそう口を開いた。


 『極東地域の開発とは、具体的にどの様に進めるのでしょうか?』


 その内容を問い、答える。


 『まず、ロシア国内の経済活動によって進める訳には参りません。ここ西部と極東の間には広大なシベリアが横たわり、行き来するだけで時間も手間もかかり過ぎるからです。つまり極東地域はロシア国内の筈なのに、他の地域から物資の供給を満足に受ける事が出来ないのです。であれば、極東地域は自立して発展していく他ありません。』


 それには列席している者も納得した。


 『しかし、自立して開発を行っていこうにも、その為に必要な物が圧倒的にありません。ではどうするのか?』


 続けていく。


 『足りない物資は近くの国から買えば良い。そしてその資金は、その地域で産出する物品を売るのが普通です。』


 その為の日本の位置だ。 


 『その際、我が国の人口は凡そ3千万を数えます。貨幣経済も進んでおりますし、民の購買意欲も高いです。市場としては有望なのではないでしょうか?』


 人口が3千万人という数字にどよめきが起きた。

 それは当時でも巨大な市場である。


 『我が国に売る物として、まずは鮭が挙げられます。我が国では新年に塩漬けの鮭を買い求める風習がありますが、蝦夷からの供給量は十分では無く、まだまだ高価な品となっています。豊かな漁場であるカムチャツカ地方は、我が国にとっても宝の山です。』


 フムと頷く者もいる。


 『加工に使う塩はどうするのでしょか? 我が国の国土は南北に長く、温かい地方では塩は安価に製造出来ます。鮭の加工にも十分な量を安く提供出来るでしょう。』


 長州藩の塩は蝦夷にも運んでいる。


 『次に、オホーツク海やベーリング海は蟹の漁場でもあります。また、昆布という海藻も採れます。どれも我が国では重要な品です。』


 ここで呆れた顔をする者も出る。


 『食べ物の話しか無いのか、でしょうか?』


 松陰の言葉に忍び笑いを漏らす者があちこちで見られた。

 そんな者らに微笑みつつ言う。


 『鮭も蟹も昆布も育てる必要はありません。乱獲するとステラーカイギュウやドードーの様に絶滅してしまうので資源管理は必要ですが、回復量を守って獲っているうちは獲るだけでお金に代わります。こんなに割の良い商売があるでしょうか?』


 尤も、船や加工施設などの設備投資は必要である。 


 『開発の初期段階はそれで充分だと思いますが……』


 カムチャッカ半島の街ペトロパブロフスク・カムチャツキーは、軍事拠点であり極東地域行政の中心地であり、ラッコなどの毛皮を獲る為の基地としても機能してはいたが、その規模は小さかった。

 ウラジオストックとして知られる街は、この時はまだ清国の領地である。 


 『では、極東地域の開発において、我が国が供給出来る物資を説明します。』


 それも非常に重要だ。


 『まず食料と暖を取る為の燃料です。我が国は長らく鎖国し、食料は自給するだけの生産量でしたが、今現在蝦夷地の開発を鋭意進めており、自給分以上の供給量を確保出来つつあります。ボルシチには欠かせないであろうジャガイモ、タマネギ、ニンジンは問題ありませんし、ビーツの栽培も広がっております。蝦夷は石炭資源も豊富です。』


 おぉという声が上がる。

 松前藩主崇広の指示の下、今も開墾作業が続いている。

 協力的なアイヌの間にも農業が広がっていた。

 説明を重ねる。


 『次に生活物資です。貴国と我が国は文化や生活習慣が違いますが、石鹸にしろ無くて困る事態となる事は無いと思います。その辺りはプチャーチン閣下に色々と伺っており、貴国向けに用意するのは造作もありません。』


 日本の職人の技術をもってすれば容易い事だ。


 『この様に、我が国を介する事によって貴国の極東地域の開発は迅速に進むモノと思われます。また、極東地域で獲れる海産物は、莫大な人口を抱えるアジアにおいても有力な商品となるでしょう。』


 それは別の言い方をすれば、日本無しには難しいという意味である。


 『開国した途端に樺太と千島列島を寄越せとは、随分と欲深い要求だと思われた事でしょう。それは我々も把握しております。しかし、それによって得られるモノを考えれば、寧ろ安上がりであったと、後世では高く評価される事をお約束致します。』


 こうして松陰のプレゼンは終わった。

 ここでは全く触れなかったが、そもそもの目的はアラスカである。

 アラスカに今も眠る砂金が狙いなのだ。


 今現在続いているクリミア戦争にロシアは負け、巨額の賠償金を支払う羽目に陥る。

 それで経済的に疲弊し、アラスカを売却する事になるのだが、その後にアラスカで発見される金などの資源は、売却で得た金額を大きく上回るモノとなってしまう。

 ここでロシアへ、極東地域とアラスカの共同開発を打診したのは、アメリカへのアラスカ売却を未然に阻止する為である。

 アメリカの国力が上がる事を防ぐのが松陰の目的だ。


 砂金や地下資源の事を考えれば日本がアラスカを買い取れば良いが、日本の国力では持て余すだけであるし、ロシアとアメリカがあの距離で対峙し続ける状況こそが狙いでもある。

 ロシアは革命によって倒れソビエト連邦が誕生するが、ロシア皇帝に極東に逃げてもらって新国家を建設してもらう。

 アラスカはロシア領のままで、ソビエトと対立するロシア、同じ白人国家ではあるが政治体制の全く異なるロシアとアメリカで、それぞれの緊張状態を保ってもらいたいと考えていた。

 緊張関係のある者達の間で漁夫の利を狙う訳では無いが、ロシア皇帝が極東にいる事で、アメリカのアジアへの進出の意志を鈍らせたいのだ。


 その様な思惑を隠したプレゼンは、一応の成功を見た。

 しかし、まずは日本が確実に開国し、交易の状況を見てから結論を出す方向で定まった。

 プチャーチンが極東開発の責任者となり、同地へと赴任する事が決定する。


 その後、各界の有力者が計画について質問してくる時間が訪れ、それが落ち着く頃に忽然と松陰の姿が消えた。

 それを追う様に、スズの姿も消えていた。

 にわかに騒ぎとなる中、正睦が「あの者らには密命を下している。騒ぐ必要は無い。」と言って黙らせるのだった。

 落ち着きを取り戻す面々を眺め、独り言の様に呟く。 


 「出会った時から熱弁を振るっておった事を今まで必死に我慢しておったし、ここらで解放してやらんと何をしでかすか分からんからな。しかし、まさかここから真っ直ぐに徒歩で向かうとは思わなかったぞ。」


 消えた者の身を案じる様な、呆れている様な、そんな顔である。 


 「一人の男の食べ物への執着心が、我が国をここまで動かしてきたとはロシアの者達も思うまい。」


 こみ上げる笑いを堪えている様にも見えた。


 


 ロシアの訪問を終え、使節団は日本への帰路に就く事となった。

 そのルートはロシアから東欧を抜けてイタリアに向かい、ギリシアを通ってオスマン帝国のイスタンブールへ行き、そこから地中海を船で進んでアフリカ大陸のアレクサンドリア、カイロを抜けて紅海へと出る長大な道である。 

 日本の使節団に是非とも来て欲しいという依頼は殺到していたが、急ぎ帰国せねばならないと必死で固辞し、ようやく減ってこの程度となった。


 ロシアを発つ日、消えた松陰とスズを千代は思う。


 「松兄様が無理をしていたのは痛々しい程でしたから、正睦様にご無理を言って正解でしたわね。」


 松陰を使節団から解放し、好きに進ませるのは、千代が正睦にかけ合って実現した事だった。

 アメリカを出た時からソワソワしていたのに、それを懸命に抑えて普段通りの振る舞いに努めていた兄の姿に、妹は今までに無い危うさを感じていた。

 当初の目的であったロシアでの要件を終え、これ以上の余計な寄り道には精神が参ってしまうと危惧したのだ。

 それは正睦から好きに進めば良いと言われ、その日のうちにホテルを出発した事からも見て取れた。

 そして千代が思うのは、兄の松陰以上にスズの事である。


 「見た事も無い女に兄上を渡すのは癪に障ります。スズには頑張ってもらって、兄上の妻の座を奪ってもらわないと!」


 千代は二人が進んだであろう街道を見つめ、呟いた。


 挿絵(By みてみん)

次話の舞台はインドです。


日本の人口を6千万と書いてしまいましたが3千万の間違いでした。

訂正いたします。

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