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大英帝国

 使節団の一行は瑞穂丸には乗り込まず、アメリカ政府が手配してくれた蒸気船アトランティック・オーシャン号に乗り、ヨーロッパへと向かった。

 大西洋を渡る蒸気船は大きく、使節団を全て収容しても尚余裕がある。

 ヨーロッパに向かうアメリカ人客も多数乗せ、船は海上を進んだ。

 一方の瑞穂丸であるが、茂義らが買い込んだ道具や工作機械が思った以上に場所を取り、隙間があれば書籍を押し込んでいるので、船員以外の空きが殆ど無かった。

 茂義だけを乗せ、一足先に日本を目指す。


 結局、アメリカに留まった者は以下の通りとなった。

 駐米大使が決まるまでの繋ぎとして岩瀬忠震と大久保忠寛。

 剣術指南役として千葉栄次郎、桃井春蔵、榊原鍵吉。

 学問の徒として佐久間象山、西周、福沢諭吉、橋本佐内。

 経済を学ぶ為に渋沢栄一と成一郎、五代友厚、松方正義である。

 

 そしてオレゴンに向かう者として坂本乙女と龍馬、岡田以蔵、岩崎弥太郎、長岡謙吉、近藤長次郎らの土佐組と、近藤勇が残る事となった。

 中岡慎太郎がサンフランシスコに赴き、ヨセフと協力する。 

 ハワイには勝海舟、榎本武揚、井上馨、清河八郎、陸奥宗光、清水の次郎長と森の石松がいる。

 近く起こる筈の南北戦争に際し、ハワイからの白人勢力の追い落としを計るのだ。

 また、龍馬には海援隊を設立してもらい、日本とハワイ、サンフランシスコを結ぶ貿易業に就いてもらう算段である。

 カリフォルニアへの日本人移民計画もあり、彼らの役割は重い。


 そんな中、大西洋を進む船内では、今後の予定についての活発な意見交換が行われた。

 麟州ら技術陣は、出来るだけ早い帰国を求めた。

 すぐに帰国し、購入した機械類を組み立て、動かしてみたいのだ。

 新しい技術の習得こそ急務であると訴える。

 そんな中で儀右衛門だけは、スイスの時計職人への訪問を願う。

 からくり職人として、時計作りで有名な同国は、是非とも見学したかった。 


 対して正睦は、せめてイギリスだけでも見て回るべきだと諭す。

 産業革命の興った同国であるので、得る物は多いだろうと主張した。

 それに、日本丸がいなければ足が無い。

 西洋のアジアへ向かう船を使う方法も考え、足を確保してから帰国を考える事で解決を見た。


 使節団は当初の予定通り、出来るだけ多くの国家を巡る方向で一致した。

 開国を宣言すると共に、国際社会への進出をアピールするのが目的であるので、訪れる国は多ければ多い程好ましい。

 イギリスを皮切りにしてフランスに渡り、そこからヨーロッパ各国を回って最終的にはロシアまで行きたい所だ。

 船に乗り合わせたアメリカ人の意見も参考にし、南ヨーロッパからオスマン帝国を通り中東に抜け、紅海から船に乗るルートも検討する。

 予定を立ててもその通りに進む方が稀だと聞き、余裕を持たせた計画とした。


 そして帰国の途上、インドに立ち寄る事が決定する。

 松陰の想いを汲んだ正睦が気を利かせてくれた形だ。

 その効果はてき面で、寝込んでいた松陰の容態は瞬く間に安定に向かい、イギリスに着く頃には自由に歩き回れるまでに快復していた。

 本音を言えば、茂義の便でインドに直行したい所であった。

 しかし、千島列島と樺太を得る為、ロシア皇帝に会わねばならない。

 逸る気持ちをグッと我慢し、聖地インドを心に思い描いて、高まる心を懸命に鎮めるのだった。

 



 航海は順調に進み、船はドーバー海峡を抜けた。

 ここまで来ればロンドンはすぐそこである。

 やがて大きな川の河口に至り、船はその速度を落とした。

 進路に横たわるのはテムズ川だ。

 しかしアトランティック・オーシャン号はテムズ川には入らず、そのまま河口に錨を降ろした。

 船が大き過ぎるので川を進む事が出来ないのだ。

 ここから小型の蒸気船に乗り換え、川を遡上する。


 と、ユニオンジャックと日の丸を掲げた船が近付いてきた。

 日本使節団を迎える為、イギリス政府が用意してくれていた海軍の船らしい。

 祝砲を鳴らし、歓迎のムードが感じられた。


 荷物の多い使節団を収容し、イギリス海軍の船は進む。

 暫くは田舎町の長閑な風景が続いたが、次第次第に家々が増えていく。

 工場が立ち並び始め、煙突からは黒いモクモクとした煙を吐き出していた。

 流石に産業革命を成し遂げた大英帝国であろうか。

 世界の工場を自負していた時代だけに、煙を吐く煙突がいくつも見えた。

 そんな川沿いには人々が詰めかけ、日本の使節団に向かって盛んに日の丸を振っている。

 一行は手を振って応えた。 

 

 「ねえ、先生?」

 「何だい?」

 「この川って臭くない?」


 スズがしかめ面でこぼす。

 川の水は濁り、悪臭がした。

 どぶ川の様な臭いを発している。


 「外国では糞尿を肥料としないから、汚水としてそのまま川に流しているんだろうね……」

 「不潔ね!」


 一言で切り捨てた。

 

 「この川の水を生活に使う人もいるだろうし、衛生面で問題ありだよ……」

 「この水を? 信じられない!」


 恐ろしいとでも言いたげに肩を竦めた。

 アメリカでも水に困った事はあったがそれは無いだけで、ここまでの汚水は初めてかもしれない。 

 

 「曝気でもすれば改善すると思うけど、この時代で行政に期待するのは無理だろうし……」

 「ばっきって何?」

 「水に空気を混ぜ込む事だよ。汚れを分解する微生物は空気が必要だから、それをしてあげれば、ある程度は綺麗になると思うよ。」

 「流石先生!」

 「まあ、その空気も汚れているみたいだけどね……」

 「だよねぇ。町がすすけてるよねぇ」


 工場の煙突から立ち昇る黒煙は、煤も伴っている様だった。

 そのせいか町全体が何となく黒っぽく、薄汚れて見える。

 実際、船の甲板にじっと立ち、汗ばんだ額を白い布で拭えば、うっすらとした黒い線が残った。

 夏を迎え、川からは悪臭が立ち上り、空からは黒い煤が降って来る。

 それが世界の工場として名高い、ロンドンの街の姿であった。 

 

 「でも、世界中から美味しい物が集まってくるんでしょ?」


 スズは川から発せられる臭いに閉口しながらも、期待に胸を膨らませて尋ねた。

 日の沈まない帝国として、世界中から珍しい物を集めている筈の大英帝国。

 どんな美味しい食べ物があるのだろうかと、今からウキウキとしている。

 そんなスズに己の知っている知識を伝えた。


 「フィッシュアンドチップスとローストビーフは美味しいって聞いたよ。お菓子も美味しいって話だけど……」

 

 前世の時にネットで仕入れた情報くらいしか知らなかった。


 「何だか期待出来なさそう……」


 美味しい物に目が無い松陰である。

 そんな男が、イギリス到着を前に全く興奮していない。

 スズは察し、しょんぼりとして呟いた。 

 そんな彼女を慰める様に言う。 


 「イギリスはちょっとアレだけど、ドイツはソーセージが有名だし、イタリアのパスタとピザは期待していいよ。」

 「本当?」

 「本当だよ。熱々のソーセージは皮がパリっとしてて、噛んだら肉の脂が口の中にジュワーと溢れてきて最高さ! カルボナーラはコクのあるクリーミーなソースが堪らないし、ピザは溶けたチーズが言う事無しだよ!」

 「そうなんだねぇ。早く食べたいなぁ……」

 「そうだねぇ……」


 先程までの憂いはどこへやら、臭い川の上で美味しい物の話で盛り上がる二人であった。




 やがて右手に建設中の塔が見えてきた。

 何やら見覚えのある形をしている。


 「あれはもしやビッグベン?!」

 

 大英帝国の首都ロンドンを代表するビッグ・ベンは、1843年に着工し、1854年の段階で完成までもう少しの所まできていた。

 映像で知っている塔の姿そのままに、時計が付いていない状態であった。

 イギリスに来た事を実感する。

 

 やがて船着き場へと到着した。

 そこはアメリカで経験したのと似た様な、市民からの熱烈な歓迎が待っていた。

 盛大な拍手に迎えられ、使節団はイギリスの地に上陸を果たす。

 歓迎式典が催され、正睦や市長数人のスピーチが為され、それが終わると用意された馬車に乗り込み、一行の宿泊先であるホテルへと辿り着いた。

 後日、準備を整えた使節団は、バッキンガム宮殿にてヴィクトリア女王に謁見する。


 「何という豪華な城なのだ!」

 「世界中の宝が集まっている様だったな!」


 ホテルに戻ってから、宮殿や国を統べる女王の感想を口々に述べる。

 女王の住まいは、外観も内装も贅を尽くした作りであった。

 日本ではまずお目にかかれない、絢爛豪華な建物である。

 そんな感嘆の声が上がる一方で、冷めた意見もあった。


 「統治者があの様な、あからさまに贅を尽くした建物に住むとはな……。民に課せられた税を思うと、手放しでは羨ましがれんぞ……」


 さて、誰の言葉であったのか。




 松陰を訪ね、ホテルに人がやって来た。


 『ショーイン!』

 『エドワードさん!』

 『スーも元気そうだね!』

 『エドワード小父様もお変わりなく、何よりですわ!』


 笑顔で力強く握手を交わす。

 台湾で知り合ったイギリス人の商人、エドワードであった。

 インドでの、経口補水液を使ったコレラ対策が評価され、サーの称号を得ている。


 『片づけねばならない仕事が終わらずに時間が掛かってしまったよ! 我が故郷大英帝国へようこそ!』

 『ようやく辿り着く事が出来ました……』


 思えば、台湾で知り合ってから色々な事があった気がする。

 あの時から仕込んだ事も、ようやく成果となって現れてきていた。

 双方、様々な思いがこみ上げ、暫し言葉を失う。

 先に沈黙を破ったのはエドワードであった。


 『こんな所で話していても仕方ないな! まずは我が屋敷に招かせてくれ! 国を代表する使節団とはいえ、それくらいの融通は効くのだろう?』

 『多分大丈夫です。』


 こうして松陰、スズ、千代、帯刀、梅太郎、重之助の台湾組が、サー・エドワードの屋敷に招待された。 

 屋敷はロンドンから少し離れた郊外にあり、貿易で儲けているからか、立派な建物であった。

 馬車が玄関に乗りつけ、彼の家族が出迎える。

 エドワードが家族を紹介した。


 『家内のトレイシーと娘のジョセフィン、孫娘のスーザンだ。そして彼は娘の婿であり、わが社の後継者であるカルロス君だ。』

 『初めまして、日本のお客様方。本日はようこそおいで下さいました。』

 『初めまして、ジョセフィンです。皆様の事は、父からよく伺っています!』

 『初めまして、カルロスです。』

 『初めまして。お会いできて光栄です。』


 挨拶を交わし、松陰らは簡単に自己紹介をした。


 『まずはアフタヌーンティーといこうか。』

 『それでは用意いたしますわ。』


 エドワードに促され、一行は彼の屋敷へと入っていった。


 時間を忘れ、楽しく歓談の場を過ごす。

 台湾で初めて会った時の事、共に戦った戦闘の様子、エドワードのインドでの経験、今回の旅の事など、思い出話に花を咲かせた。

 ジョセフィンらも、異国からの訪問客の話に目を輝かせて聞き入った。

 世間的にも、日本からの客人の事は大いに噂になっている。

 そんな日本人が屋敷に来たとあっては、それだけで自慢出来る話だろう。

 社交界、地域のコミュニティーへの話題を提供する為にも、しっかりと話を聞かねばならなかった。

 

 ひと段落ついた所で松陰は、エドワードへの大切な要件を思い出す。


 『それはそうと、とうとう蚊取り線香が出来ましたよ。』

 『本当かね?!』

 『これが商品です。』

 『おぉ!』


 持って来た蚊取り線香をエドワードに見せた。

 火をつけ、使ってみる。


 『夜に火を着ければ、朝まで煙を出し続けますよ。』

 『素晴らしい!』


 エドワードにシロバナムシヨケギクの種を持ってきて貰ったのが、凡そ10年前である。

 始めの数年は種と株を増やし、栽培法を研究しつつ、徐々に栽培面積を増やしていった。

 有効成分が植物体のどこに含まれているのか、いつ収穫するのが最適か、手探りで試行錯誤を重ね、遂に商品化に成功したのだ。 


 『蚊に効くのかは、実際に蚊がいないと分かりませんね。外へでも行きますか?』

 『無論だ!』


 一行は外に場所を移し、蚊取り線香の効果を調べた。

 いつもならすぐに蚊が寄って来る筈なのに、今日は違う。

 

 『成る程、確かに効果がある様だな。正確な所は、しかるべき機関で実証してもらおう。』

 『そんな機関があるんですね。流石大英帝国です。』

 『怪しげな商品は、下手をすると詐欺になってしまうからね。』


 エドワードは大学に伝手があり、そこで研究して貰おうと思っていた。


 『しかし、これでようやく商売出来るという訳だな!』

 『お待たせしまして申し訳ありません。随分と時間が掛かってしまいましたが、約束通り、エドワードさんと独占的に契約させて頂きます。』

 『効果が証明されれば、大々的に売り出させて貰うよ!』

 『でも、船が来ないと、売るだけの商品はありませんからね?』

 

 日本丸で運ぶ手筈となっている。


 『いつ頃来るのかね?』

 『予定では間もなくですが……』

 『楽しみに待たせて貰うとするよ。』


 蚊はヨーロッパでも人々を悩ませている。

 確かな効果が実証されれば、瞬く間に人気商品となるだろう。

 元々はヨーロッパが原産のシロバナムシヨケギクであるが、それだけで商品とするのは難しかった。

 従来、乾燥させた植物体を燃やし、煙を虫除けに使う事は為されていたが、その場合だと直ぐに燃え尽きてしまう。

 線香という日本の文化と、それを作り出す伝統の技術があって初めて、使い勝手の良い蚊取り線香が生まれたのである。

 

 『さて、時間も時間であるし、食事にするとしようか。』

 『もうそんな時間だったのですね。』


 話に夢中になり、時間が経つのを忘れていた。

 辺りはすっかり暗くなっている。


 『インドで雇ったコックが優秀で、美味しい物を用意させているから期待してくれ。』

 『え?! インド?!』


 松陰はエドワードの言葉に色めき立った。

 興奮して我を忘れ、食いつく様に尋ねる。


 『インドで雇ったコックと言いましたか?』

 『あ、ああ、そうだが、何か問題でもあったかな?』

 『いえ! 何でもありません!』


 戸惑うエドワードに慌てて誤魔化し、妄想の世界へと旅立っていった。

 ロンドンの町中でインド人らしき人物を遠目に眺め、何となくソワソワとしていた矢先であったので、最早落ち着く事など出来なかった。

 インド人のコックがイギリスで作るとならば、当然カリィであろう。

 生まれてこの方、片時も忘れた事が無かったカレー、この場合はカリィであろうが、インドに行かねば食べられないと思っていたのに、ヨーロッパを回るまではお預けだと心に言い聞かせていたのに、まさかこんな所で巡り合おうとは。

 インドを搾取している大英帝国は許せんという思いは大きかったし、搾取の結晶であるカリィを味わうなど認められないと頭では理解していたが、心と体はどうにも言う事を聞きそうにない。 

 それに、友人宅で出された料理を拒否するなど礼儀に反するであろう。

 いや、礼儀に反すると断じた。

 そんな事をブツブツと呟いている松陰の耳には、エドワードの言葉は届いていない。


 『インドで偶然出会ったイギリス人のコックなんだが、物凄く優秀でな……って、聞いていない?!』


 そして、食卓に並んだフィッシュアンドチップスやローストビーフ、ウナギゼリーやスターゲイザーパイに意気消沈した松陰の姿があった。

 なお、スズらには、ウナギゼリー以外は概ね好評だったらしい。


 「うなぎはやっぱり蒲焼だよねぇ」

 「そうですわね。と言うより、見た目がちょっと……」


 松陰の心中を何となく察して、触れてあげないスズらであった。


国名は現在のモノです。

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