再びの伝馬町牢屋敷
耀蔵が家慶の言葉に感激していた頃、女中の松から身を解いた松陰は伝馬町の牢屋敷にいた。
耀蔵に正体を見破られる事への用心の為と、囚人達への説明が目的である。
因みにサラシは外している。
火傷はとっくに治っていたのだが、今更白粉を塗るのも面倒なので、サラシを取らなかっただけである。
「皆様お変わりありませんか?」
かつて自身が入っていた揚屋の前で、松陰が尋ねた。
重ねた畳の上に座る牢名主は寅吉のままで、突然の訪問に驚いた様だ。
「松陰先生じゃねぇか!」
寅吉は重ねた畳から飛び降り、居並ぶ囚人を掻き分け松陰の前まで進み出る。
マジマジと見つめ、本人である事を確かめた。
「何だって松陰先生がこんな所に?」
「今日は皆様にお伝えしたい事があって参りました。」
真剣な顔の松陰に、あれからの事などを聞きたかった寅吉も言葉を引っ込めた。
「何だか、ただ事じゃねぇようだな……」
松陰はそんな寅吉だけでなく、皆にも聞こえる様に声を張り上げ、一気に喋る。
「いずれ幕府は、再び印旛沼の開削、開拓に着手します。その際、この牢屋敷の囚人を人夫として使う予定です。罪に応じて従事する日にちが変わる、罰の様なモノです。重い罪の者、牢での行状が良くない者などは除かれますが、この揚屋の方々は選ばれるでしょう。」
何を言い出すのだといった顔で皆が松陰を見つめた。
「印旛沼の工事は難事業です。過酷な労働が待っていると思いますが、決められた日数を無事にやり終えた暁には、この牢暮らしから解放される手筈となっています。皆さん、大人しく罪を認めて、労務に当たって下さい! その方が、結果としては早くここから出られます! 江戸からの追放もなくなります! どうか真面目に一生懸命に頑張って、是非ともお勤めを完遂して下さい!」
当時の牢屋敷は未決囚が入っていた。
罪が確定しても刑が執行されていない状態の者、罪を認めずに取り調べの最中の者などである。
当時の罰は死刑か追放刑などであるので、それに該当する者はあの手この手(主に役人への賄賂)で刑の執行を遅らせていた。
罪が確定していない者にとっても状況は似ている。
推定無罪や証拠主義という考えの無かった当時では、お上に疑われたら大変な事になってしまう。
複数の証言者がいれば問題はなかろうが、近所から嫌われていたり、他の場所にいたという確かな証言がなかったり、普段から疑われる行いをしている者は詰んでしまう。
一旦捕まってしまったら、老中の許可が必要な拷問はみだりに乱用されないにしても、殴る蹴るの暴行は当たり前で、自白を強要されるのだ。
罪を認めてしまえば、後は刑の執行を待つだけである。
その刑は重いので、執行を遅らせる賄賂を用意出来ない者は、頑として罪を認めない事となる。
やっていない事の証明は難しいし、証拠不十分だからといって釈放はされないので、自白の強要に耐える者らにとっては、牢暮らしは長い事になる。
また、これは実質的な禁固刑でもあった。
牢暮らしは罰に近い環境なので、それが嫌なら犯罪を犯すなという、市中の者への警告にはなろう。
疑われる事をしている者が悪いと考えれば、牢に長く留める事にも意味を見出せるであろう。
松陰にとっては、この様な状況は心苦しい限りであった。
近所の者から嫌われていたり、役人に疑われたばっかりに、何もやっていない者が牢へと入れられ、暴力で自白を強要されるのである。
牢内で聞く身の上話は、怒りと悲しみに包まれるモノばかり。
無罪を証明する道を模索するのではなく、この様な取引じみた方法しか提示出来ない自分への不甲斐なさもある。
しかし、全てをやれる訳も無い。
十年後の開国に向け、やるべき事が多すぎる今、そこにまでは手を出せないのだ。
家慶、家定が開国策を受け入れた事で、カレーに対する慕情は募る一方である。
心は、一刻も早くインドへ向かえと訴えている。
その為にも、蒸気船の建造は急務だ。
乗組員の練成も欠かせない。
それらを前に、目の前の囚人らの置かれた環境は、見て見ぬ振りをするしかない。
精々が、印旛沼の開拓に従事させ、牢暮らしからの解放という道を模索するくらいであった。
話し終えた松陰に、奇妙な沈黙が待っていた。
不思議に思って寅吉を見ると、ポカンと口を開け、松陰を見ている。
「えっと、寅吉さん?」
松陰に問われ、寅吉は我に返った。
「え? あ、あぁ。藪から棒に何なんだよ?」
「え? 私の言った事が分かりませんでしたか?」
「そうじゃねぇよ! いや、そうじゃねぇんだよ!」
「えっと、どっちなんですか?」
「だぁぁぁもう!」
寅吉が頭を抱えた。
上手く言葉が探せない。
「言ってる事はよぉぉく分かった! けどよ、何でアンタがそんな事を知ってやがんだ? それに、何で俺達にそれを教えに来る? アンタは、この間までここにいた人じゃねぇか!」
寅吉の言葉に周りの者らも頷いた。
無罪で放免されたのは良いとしても、今度はまるで幕府の意思を代弁する様な松陰の物言いに、居並ぶ者らは大いなる戸惑いを感じていた。
これではまるで、幕府のお役人ではないかと思った。
ついこの間まで、同じ牢の臭い飯を食べていた仲間とは思えない。
そんな彼らの心中を慮り、松陰が説明した。
「上様が大変聡明な方で、かつ度量も深くいらっしゃいまして、私の献策を快く受け入れて下さったのです。」
「上様って誰だよ?」
「え? 家慶様に決まっているでしょう?」
何を馬鹿な事を聞いているのですか、という風に松陰が言った。
寅吉は絶句する。
何か言おうと思ったが、口から出てくるのは空気ばかり。
将軍様と会見したなどと、一体誰が信じるというのか。
しかし寅吉は、それ以上考えるのを止めた。
思い起こせばこの松陰、牢の中でも前代未聞、奇想天外な話ばかりをしていたのだから、今更世間の常識で計っても無駄であろう。
この松陰が言うのならそうなのだろうし、もしもそうでなかったとしても、法螺吹きに騙されただけだ。
なけなしの金を無心されたのなら考えるが、そうではない。
それに、牢の暮らしに退屈しきっていた今、再び聞く事が出来た松陰の話は、大層刺激的であった。
ああだこうだ考えるのが馬鹿らしく思えた。
「分かったよ! もう、それでいいぜ! 俺達が、あの印旛沼を開拓するんだよな? 無事にやり遂げたら、お上からのお情けがあるってこったな?」
「まあ、概ねそうでございますね。」
印旛沼の開拓は長年幕府が挑み続け、その度に挫折してきた事業である事は、寅吉らもよく知っていた。
囚人である自分達に出来るとは思えないが、労働に従事する事で牢暮らしから解放されると考えれば、それは十分魅力的である。
ようやく納得出来たのか、房の中から歓声が上がった。
やんややんやの声の中、弾んだ調子で寅吉が尋ねた。
「この話を持ってきてくれたんだし、松陰先生が監督するんだろ?」
「いえ、鳥居耀蔵様でございますよ。」
「へぇ、鳥居耀蔵ねぇ……」
浮かれ顔で聞く寅吉の質問に、松陰はごくごくサラッと、何でもないという感じで答えた。
どこかで聞いた名前の様な気がしたが、すぐには思い出せず、寅吉はその名を反芻する。
そして、はたと気づく。
「鳥居耀蔵?!」
ギョッとして叫んだ。
どうしてその名を忘れていたのか。
元はといえば自業自得でここにいるのだが、それを抜きにしても恨みは尽きない者こそ、その鳥居耀蔵である。
寅吉の叫び声に騒ぎも収まる。
「なんで妖怪なんぞと!」
寅吉の怒号に周りの者もざわつき、罵声が飛び交う。
妖怪とあだ名された耀蔵は、様々な者から恨みを買っていたのだ。
しかし、そんな彼らの訴えを聞き流し、松陰が大声で言う。
「嫌ならここで暴れれば良いでしょう! 素行不良で労務には就かなくて済みますから!」
それには騒いでいた者らも黙った。
いくら耀蔵に憎しみがあろうが、やはり外には未練がある。
「憎い鳥居様の下で労務に就くのがお嫌なら、いつまでもここにいれば良いでしょう! この、狭く、暗く、ジメジメとして、臭い牢の中、消えぬ憎しみを抱え、何ヶ月、何年でも居続ければ良いのです!」
牢を知らぬ者から言われれば、反発しか感じないであろうこの言葉も、相手は同じ牢で過ごした松陰である。
言いたい事はあったが、口をつくまでには至らない。
黙る彼らに対し、松陰が宣言した。
「断言します! この国は、あと十年で様変わりするでしょう! いや、私が変えてみせます! 蝦夷の開発を進め、豊かな北方の産物が市場に並ぶ様になるでしょう! 台湾とも交易を進め、砂糖がもっと手軽に買える様にします! あのインドからは、私の悲願である香辛料を何が何でも仕入れ、必ずやこの国にカレーを広めます! これは私の夢でございます! いえ、これが私の使命です!!」
蝦夷(北海道)では、鮭、帆立、蟹は言うに及ばず、いずれは牛を放牧して、チーズやバターを生産したい。
ジャガイモ、ニンジン、タマネギといったカレーに欠かせない野菜も外せないだろう。
台湾の砂糖は言うに及ばず、フィリピンでのゴム栽培も外せない。
そして、インド。
松陰の計画の全ては、ここに行き着くのである。
「十年後にはこの国を開きます! そして先陣を切り、私がまずアメリカに渡ります! それに向けて蒸気船の建造を進め、開国の暁には諸国との間に航路を開きます! そうなれば、諸外国の産物、文物も続々とこの国に入ってくる様になるでしょう! 皆さんが見た事も聞いた事も無い様な、そんな珍しい品々にお目にかかれる様になるでしょう!」
それは食べ物であったり、先進的な発明品であったりする。
鎖国していては手に入れがたいそれらは、新し物好きの日本人に、瞬く間も無く広まるだろう。
「しかし西洋列強は貪欲です。私の願う王道楽土は、彼らは容認しないでしょう! その場合、力でもって衝突するしかないでしょう! 天下泰平の今からは想像もつかない、日の本対西洋列強との戦が起こります! 海の上では船に積んだ大砲を豪快に撃ち合い、陸では数千、数万の兵が血で血を洗う戦いを繰り広げるでしょう!」
まさにこの時、植民地争奪戦を繰り広げているのが西洋列強である。
松陰の考える構想には、東南アジアの独立は欠かせない。
そうなれば、列強との戦争は避けられない道だ。
「印旛沼は始まりに過ぎません! この狭い牢屋敷で、いつとも知れない出所を待つよりも、辛い労働ではあるでしょうが、無事に勤め上げて刑を軽くして下さい! こんな所にいては味わえない刺激に溢れた世界を、どうか一緒に駆け抜けようではありませんか!!」
時代は激動の時を迎えつつある。
退屈さ、出来心、一時の快楽でそれに参加する機会を無駄にするのは、余りに勿体無いだろう。
このまま十何年も牢にいる訳はないが、明確な目標でもなければ同じ事を繰り返すだけかもしれない。
いかに小さな罪状であっても、それが何度も続けばお目こぼしも無くなるのだから。
「鳥居様に対する恨みの心は消しがたいでしょう! それを忘れろとは言いません! しかし、それに囚われ過ぎるのもどうかと思います。もしも憎しみが大きくなって困ってしまったら、こう考えてはどうでしょうか? もうすぐ、鳥居様が断固として認めない、この日の本の開国が待っていると。鳥居様の大嫌いな西洋人が、多数我が国にやって来る様になると。自分達も異国に行ける様になると。腹の中で笑って、今に見ていろと思えば良いのです!」
それには、寅吉だけでなく多くの者が笑った。
確かに、そうなったら耀蔵が悔しがりそうである。
寧ろ、その顔を見て笑ってやりたいとまで思う。
「しかぁし!」
と、それまでの楽しげな様相とは打って変わり、厳しい口調で言う。
「手癖の悪い人は御免蒙ります。喧嘩ッ早い乱暴者も結構です。意味も無く反抗する方も遠慮します。そんな人達も印旛沼の労務には選ばれるでしょうが、私の求める人ではありません。もし、私の計画に参加したいと思われましたら、この機会を利用し、厳しく己を律し、同じ過ちを二度と起こさない人物になって下さい! ただ、その見返りは十分にあると言わせて頂きます!!」
それは、その場にいる者には耳の痛い話であった。
多くの者が自嘲して笑い、視線を下げる。
やはり、対価を払わずして何かを得る事は出来ないのであろう。
この場合、面白そうな話に乗るには、真っ当な堅気になる必要があるという事だ。
それは、これまでに何度となく決意し、家族にも吹聴し、その度に挫折してきた事でもある。
思うのは簡単であるけれども、実行は難しい。
どんなに辛抱強く頑張ってきても、ほんの一瞬の気の緩みで、それまでの努力が脆くも崩れ去る。
一時の興奮で叶う程、心を自制するのは容易ではない。
誰よりもそれを分かっている者らであるから、松陰の言わんとする所は理解出来ても、はいそうですかと軽々しく同意する事は出来なかった。
「思う所は人それぞれでしょう。私も強制する訳ではありません。それでも、何か感じるモノがございましたら、どうぞ、ご一考下さいませ。」
そして松陰は牢屋敷を去っていった。
残された者らは口を開くでもなく、それぞれが何かを考えている様であった。
「俺はぎょうざって奴を食ってみてぇなぁ……」
寅吉がポツリと呟いた。
松陰が散々話してくれた、美味しい食べ物の話題が思い出される。
途端に腹がグゥゥとなり、慌てて空咳をして誤魔化す。
それは他の者にとっても似た様なモノだ。
身分制度で社会ががっちりと固められていた時代、有り余るエネルギーを抱えた者らは、勢い道を踏み外しぎみであった。
基本的には長男の世襲で家や家業が続いていくので、それ以外の男子は食い詰める者も多かった。
天下泰平の世にあっては、持て余し気味の熱情は、博打や喧嘩といった方向に向かいがちである。
松陰が躊躇う事無く口にした、夢や使命などという言葉を、気恥ずかしく感じる様になったのはいつの頃からだったか。
そんな彼らに示された、荒唐無稽にも思える松陰の話。
世間的には一笑に付されるだけであろうその内容も、退屈さにうんざりとしていた者らの心には、何故か迫るモノがあった。
何やら、心が躍ってくる気がした。
以降、灯りの消えた牢内で目を爛々と輝かせ、眠りにつけない者が続出する。
この後、伝馬町牢屋敷の囚人達は、鳥居耀蔵指揮の下、脱走や武装蜂起寸前、流行り病の蔓延や流血沙汰といった紆余曲折を経ながら、過去、幕府が主導しながらも達成出来なかった印旛沼の開削開拓工事を、無事に成し遂げる偉業を達成する。
そして更に後、その者らが主体となった日本初の工兵部隊が編成され、内外で活躍をしていく事となる。
当時の罪と刑罰に関しては、あやふやなまま話を展開しております。
おかしい点が多いでしょうが、どうぞご容赦下さいませ。
悪臭対策にえひめアイをお土産にしようかと思いましたが、恒常的な物は財源の確保が必要になるかと思い、止めました。




