天下の一大事
「一大事にござる!」
開口一番、亦介が叫んだ。
「どうしました?!」
松陰は驚き、慌てて聞いた。
「女子衆が拙者と口をきいてくれんのでござる!」
何を言うかと思えばと、松陰はがっくり肩を落とす。
「全部わかってた事でしょうに……」
「何を言うでござる! 遊郭に行ったのは拙者だけではござらん! なのに、拙者の扱いだけが悪いでござる! しかも、屋敷の者達の、拙者を見る目も冷たいでござるよ!」
女性達の対応はともかくも、下屋敷に居住する藩士達の感情は当然であろうか。
江戸屋敷に詰めている藩士は、単身赴任者であった。
その多くが妻子を郷里に残し、江戸にて勤務をしている。
俸禄は十分ではなく、妻子の生活費も工面せねばならず、当然江戸では慎ましやかな生活を送らざるを得ない。
物見遊山で吉原を見物し、見世に並ぶ遊女を物欲しげに眺め、冷やかす事はあっても、豪遊する事など殆どの者には叶わぬ夢であった。
それなのに、である。
亦介が吉原で遊んできた?!
水戸公に招かれて?!
酒を飲むだけならまだしも、遊女を抱いただと?!
あやつは妻子が萩におるではないか!!
しかも、あの、金閣楼?!
許せぬ!!
であった。
吉原で遊んできたのは亦介だけではないが、藩士の多くが松陰には感謝をしていたし、認めてもいたので嫉妬の矛先からは免れていた。
なんせ松陰は、えひめアイやポテチ、戦棋といったモノの考案者である。
えひめアイによって厠の臭いは大いに軽減されていた。
その噂は既に江戸中に広まり、他藩の者どころか、出会う町人達にまで感謝される事も多い。
長州藩士というだけで扱いが良くなるのであるから、その功労者である松陰には、感謝はすれども非難する気持ちにはなれなかった。
斉昭の事についても、肉が好きな噂は聞いていたので、その礼をされたのも納得出来る。
それに、先の供応は藩士達にとっても前代未聞な事だった。
水戸の烈公や薩摩の世子斉彬、阿部正弘や堀田正睦といった老中達まで下屋敷に招き、歓待するなど、恐れ多くてその話を聞いた時には足が震えたくらいだ。
それを、緊張する事もなく、かつ見事に成功させるなど、松陰の豪胆さには驚愕を通り越して呆れてしまうくらい。
そんな松陰が、吉原で、斉昭の催す宴会に招かれたと聞いても、そうでありますか、と言うので終わりである。
しかし、話が亦介となるとそうではない。
そもそも、身分は自分達と似たモノである。
藩の実力者村田清風の甥とはいえ、やった事は、松陰に付いて異国に行った事くらいであろう。
その思い切りの良さは認めるにしても、吉原金閣楼の遊女と聞けば、内心穏やかではいられない。
斉昭に褒められた当の本人が酒だけで帰ってきているのに、金魚の糞の如く付いて行った亦介が、金閣楼の遊女と懇ろになるなどと。
先の歓待にしても、お前は大して働いていないだろうと皆が思ったのだ。
「拙者と海舟殿の苦労も知らずに、気楽なモノでござる! 肉を運ぶのが、どれだけ大変だったか!」
謂れのない陰口に、亦介は声を大にして反論したかった。
しかし、この後も彼の受難は続く。
男の嫉妬は中々に陰険で、しつこい。
「一大事でござんすな……」
吉乃が溜息をついた。
目の前には玄米のご飯がある。
先ほどから口に運んでいるのだが、箸が進まない。
「白米無しは、こないに苦しいものなんすなぁ……」
先を思うと、甚だ憂鬱になる吉乃であった。
「これは一大事かもしれないですね……」
松陰が口にした。
先ほどからベタベタと、やけに親しげに元琰が体を触ってきている。
昨日は一日かけてスズらの機嫌を直すのに苦労したのだが、今日はまた吉原に来ていた。
彩音の体調の変化を長英と確認する為だ。
元琰は元堅の代わりに昨日から参加していたので、松陰とは今日が初対面である。
「ほんと、こんな若い子が脚気の診断方法を知ってるなんて! アナタ、凄いわねぇ!」
元堅の息子にして次期医学館総裁になるであろう元琰。
その実態は、若干オネェが入った青年であった。
松陰は前世の記憶を思い出し、質問した。
「元琰さんて、相撲が好きなんでしたっけ?」
「えぇ?! どうして知ってるの?! やぁだぁ、嬉しいぃ!!」
テレビで見たオネェタレント同様、やけにハイテンションな元琰。
そんな彼に好かれた様で、松陰は若干の不安を覚えていた。
「一大事ですぞ!」
彩音の診察を終え、冷やかしで吉乃の部屋を訪れていた一行の下に、元堅が慌てた様子で駆け込んできた。
花魁ともなれば、専用の部屋がある。
「父上?!」
元琰は、普段目にする事が無い、元堅のあたふたした様子に驚いた。
医者が慌てると患者が不安になると、耳にタコが出来る程に聞かされて育ったからだ。
「一体どうされたのですか?」
松陰の問いに元堅は口を開きかけたが、真剣な顔で見守っている長英や吉乃に気づき、ハッとしたのか、慌てて口を閉じた。
そして、渋り顔で言う。
「いや、ここで言うのは憚られるのだが……」
そんな元堅に一同は迫る。
「私は言えぬ秘密を山ほど抱えておりますが?」
「わっちは花魁でおす。主さんらの秘密なぞ、閻魔様にも明かしはせぬ。」
「父上は私を信じられないと言うのですか?」
「長年の牢暮らしで、口は固いつもりです。」
皆の言葉と顔つきに、元堅は暫く考え込み、覚悟を決めたのか言葉を発した。
「では、これは、ここだけの秘密でお願い致す。各々方の耳を拝借願おう。」
松陰らは元堅を中心に車座に集まった。
元堅が小声で囁く。
「家慶様の跡継ぎでいらっしゃる、家定様が脚気なのです!」
「えぇぇぇ!?」
「声が大きい!!」
現将軍家慶の四男にして、世継である家定。
彼は幼少の頃より病弱であったらしい。
元堅は昨日の江戸城にて、手当たり次第に出会う者の膝小僧を叩いて回っていた。
脚気の診断とは言わずに、である。
「家定様の膝は、まるで反応しませんでした……」
元堅の顔は酷く暗い。
「では、元堅先生がいえさ」
「軽々しく名を出さない!」
「失礼。では、元堅先生がその方を治療すれば良いのでは?」
松陰が尋ねた。
奥医師は、将軍家の健康を診るのが仕事であるので、元堅が家定を治療すれば良いだけだろう。
「それが、我々はそのお方に信頼されていないので、出来るのは診る事くらいなのです……」
鎮痛な面持ちであった。
家慶の子供14男13女のうち、無事に成人したのは家定だけらしい。
その家定も幼い頃から病弱で、天然痘の痕が目の周りに残り、人前に出るのを極端に嫌がったという。
一説によれば家定には脳性麻痺があり、思ったとおりに体が動かない事からイライラを抱え、それが周囲には癇癪を持った人物に見えたらしい。
当時に脳性麻痺などという知識は無い。
周囲の不理解の中、生まれつきの障がいを抱え、次期将軍という重責を担いだ家定の心中は、どの様なモノだったのだろうか……
「我々の力が足りないばかりに、家定様のご兄弟姉妹を救えなかったのです……。家定様は、それを我々が毒殺、暗殺したと思われてしまったようで、診療を拒否されてしまうのです……」
「なるほど……」
暗殺を恐れ、家定は食べ物を自分で料理する事があったらしい。
芋をふかし、菓子を作り、自分が食べるだけではなく、部下にも振舞ったそうである。
越前藩主松平春嶽などは、「イモ公方」などと渾名したそうだ。
「松陰殿、あのお方を救っては下さらぬか?」
「どうして私めが?」
「我々では無理だからです! それに、脚気の原因と治療法をご存知である松陰殿ならば、あのお方をお救い出来るのではないかと思うのです!」
「でも、彩音さんはまだ良くなってませんよ? なのに私の言葉を信じるのですか?」
「それは日にちの問題でしょう?」
元堅は、彩音の容態が快復しつつあるのに気づいていた。
であるので、松陰が正しいと確信したのだ。
「お気づきでしたか。しかし、私では“奥”に入れないでしょう?」
「それは……」
将軍が住まう、男の浪漫である“大奥”。
大奥に入れる男は、将軍家を除けば、奥医師といったごく限られた者だけであった。
一介の長州藩士である松陰が、容易に入れる場所ではない。
悩んだ元堅は、どうしたものかと頭を巡らせた。
ふと、吉乃が目に留まる。
そこで閃いた。
「そうだ! 松陰殿が女装して、女中として入れば良いではないか!」
「は?」
「白粉を塗りたくれば、男とはばれない筈! であれば、奥に入るのも問題ないでしょう! 我々も協力しますゆえ、大丈夫!」
「意味がわかりません……」
元堅は、さも名案だという風に口にした。
松陰は困惑を顔に浮かべる。
「というか、元堅先生の弟子で良いのではありませんか?」
「私自体が良く思われていないのですから、私の弟子では無理ですな!」
「そんな自信満々に言われても……」
きっぱり言い切る元堅に、松陰は呆れてしまう。
「松陰殿が元堅様に、脚気の治療法をお教えすればいいのでは?」
長英が提案した。
「それは是非お願いしたいが、あのお方は我々の治療を拒否されるから無理でしょうな……」
「脚気は食べ物の問題なのですけどね。」
「そうなのですか?! いや、しかし、我々が何かをお勧めした所で、不審がられるのがオチ。なんせ毒を恐れて、ご自分で料理されるお方ですから……」
「な、なるほど……。では、そのお方が信頼している人はいないのですか? その人に協力してもらえば良いのでは?」
松陰の質問に元堅は黙りこんだ。
思い当たる人物がいるようだったが、躊躇している風に見える。
そして意を決した様に、喋りだした。
「あのお方は、唯一乳母には心を開かれているのですが、その者が問題なのです。ただ一人信頼されている事を鼻にかけ、何かと好き勝手な事をするのです。これ以上、かの者をつけ上がらせる事は出来ぬのです! ここで我々が貸しを作ってしまえば、以後どんな無理難題を要求されるやも知れませぬ!」
事態は思った以上に深刻な様だ。
悩む元堅を憐れみ、何か力になれるかと考えた松陰であったが、流石に女装は無理があると感じた。
「私が女装し、奥に入れた所で、すぐにバレてしまいますよ。礼儀、立ち振る舞いなんて知りませんし。もし露見すれば、関わった者全て切腹、では済みませんよね?」
「け、けれども、事は天下の一大事ですぞ?!」
「それはそうですが……」
確かに、次期将軍が脚気ともなれば事は重大だろう。
史実の通りであれば問題は無い筈だが、と松陰は考える。
家定は病気がちではあったが、日本が開国するまでは健在だったからだ。
しかし、懸念はあった。
既に歴史は変わってきている。
世界の流れに大きな違いは無いだろうが、個人の生き死にはどうなるのか想像も付かない。
史実では長生きする筈の者が、事故や病気で亡くなる事もあり得るだろう。
従って、家定の運命も分からないとしか言えない。
とはいえ、大きなリスクを背負って無謀な賭けに出る程、相手が次期将軍であれ義理はない。
元堅の立場や心情は十分理解出来るが、露見した場合の事を考えれば、おいそれとは頷けないのだ。
そんな松陰の内心を読んだのかもしれない。
元堅は懸命に策を考えた。
「そうだ! ここに打ってつけの人がいるではないか! 吉乃殿、松陰殿の奥への潜入にご協力下さらぬか? 化粧の方法、立ち振る舞いや礼儀作法を教えて欲しい!」
必死になって吉乃に頭を下げる。
そんな元堅に心を動かされたのか、吉乃はニコリと笑い、言った。
「天下の一大事でありんすな。わっちでよければ、喜んで力になりいんす。」
「ありがたい!」
元堅の顔はパッと喜びに輝いた。
しかし松陰は、吉乃に不審なモノを感じた。
何やら曰くありげな微笑を浮かべ、こちらを見てきている。
「あの、吉乃さんは、もしかしなくても面白がってますか?」
「はて、何の事やら?」
「そんな笑顔で言われると、説得力が無いですよ……」
白いご飯の仇を取れそうなので、とても嬉しい吉乃であった。
そんな松陰を見る元琰の顔は、どこか妬ましげである。
「羨ましい……」
「元琰?」
「い、いえ、何でもありません!」
元琰は慌てて否定する。
そして、逃げられぬモノを感じた松陰は、静かに覚悟を決めた。
これも天命なのだろうと受け入れた。
「仕方ありませんね……。老中の阿部様に連絡を取って下さい。」
「なぬ? 阿部様とお知り合いなのですか?!」
「まあ、知らぬ仲ではございませんよ。」
そして、松陰の大奥潜入作戦が始動する。
元琰先生ごめんなさい。
なぜかオネェキャラになってしまいました・・・。
家定は脳性麻痺があったそうなのですが、安易に描写して良いモノなのか今でも悩みます。
障がいを揶揄、馬鹿にする意図は一切ございませんので、ご理解頂きたいと思います。
その様な印象を持たれた時は、すぐさまご指摘下さいますようお願い致します。
すぐに修正、訂正します。
実は子供の時分、そういう障がいを持った方を馬鹿にしてしまった経験があります。
誠に恥ずかしい行いをしたものです。
それを思うと、脳の機能に障がいを持って生まれてきた人が、当時はどの様な扱いを受けたのかと考えてしまいます。
らい病の患者さんがつい最近まで隔離されていた現実を考えると、言葉に出来ない悲しい状況だった、のでしょうか。
座敷牢に閉じ込める事もあったのかもしれませんね・・・
しかし、大奥に潜入するなんて現実には有り得ないでしょう。
元堅の弟子という事にすれば一番確実なのでしょうが、物語的な面白さを優先させていただきました。




