表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
121/239

天下の一大事

 「一大事にござる!」


 開口一番、亦介が叫んだ。

 

 「どうしました?!」


 松陰は驚き、慌てて聞いた。


 「女子衆が拙者と口をきいてくれんのでござる!」


 何を言うかと思えばと、松陰はがっくり肩を落とす。


 「全部わかってた事でしょうに……」

 「何を言うでござる! 遊郭に行ったのは拙者だけではござらん! なのに、拙者の扱いだけが悪いでござる! しかも、屋敷の者達の、拙者を見る目も冷たいでござるよ!」


 女性達の対応はともかくも、下屋敷に居住する藩士達の感情は当然であろうか。

 江戸屋敷に詰めている藩士は、単身赴任者であった。

 その多くが妻子を郷里に残し、江戸にて勤務をしている。

 俸禄は十分ではなく、妻子の生活費も工面せねばならず、当然江戸では慎ましやかな生活を送らざるを得ない。

 物見遊山で吉原を見物し、見世に並ぶ遊女を物欲しげに眺め、冷やかす事はあっても、豪遊する事など殆どの者には叶わぬ夢であった。

 それなのに、である。


 亦介が吉原で遊んできた?!

 水戸公に招かれて?!

 酒を飲むだけならまだしも、遊女を抱いただと?!

 あやつは妻子が萩におるではないか!!

 しかも、あの、金閣楼?!

 許せぬ!!


 であった。

 吉原で遊んできたのは亦介だけではないが、藩士の多くが松陰には感謝をしていたし、認めてもいたので嫉妬の矛先からは免れていた。

 なんせ松陰は、えひめアイやポテチ、戦棋といったモノの考案者である。

 えひめアイによって厠の臭いは大いに軽減されていた。

 その噂は既に江戸中に広まり、他藩の者どころか、出会う町人達にまで感謝される事も多い。

 長州藩士というだけで扱いが良くなるのであるから、その功労者である松陰には、感謝はすれども非難する気持ちにはなれなかった。


 斉昭の事についても、肉が好きな噂は聞いていたので、その礼をされたのも納得出来る。

 それに、先の供応は藩士達にとっても前代未聞な事だった。

 水戸の烈公や薩摩の世子斉彬、阿部正弘や堀田正睦といった老中達まで下屋敷に招き、歓待するなど、恐れ多くてその話を聞いた時には足が震えたくらいだ。

 それを、緊張する事もなく、かつ見事に成功させるなど、松陰の豪胆さには驚愕を通り越して呆れてしまうくらい。

 そんな松陰が、吉原で、斉昭の催す宴会に招かれたと聞いても、そうでありますか、と言うので終わりである。  

 

 しかし、話が亦介となるとそうではない。

 そもそも、身分は自分達と似たモノである。

 藩の実力者村田清風の甥とはいえ、やった事は、松陰に付いて異国に行った事くらいであろう。

 その思い切りの良さは認めるにしても、吉原金閣楼の遊女と聞けば、内心穏やかではいられない。

 斉昭に褒められた当の本人が酒だけで帰ってきているのに、金魚の糞の如く付いて行った亦介が、金閣楼の遊女とねんごろになるなどと。

 先の歓待にしても、お前は大して働いていないだろうと皆が思ったのだ。


 「拙者と海舟殿の苦労も知らずに、気楽なモノでござる! 肉を運ぶのが、どれだけ大変だったか!」


 謂れのない陰口に、亦介は声を大にして反論したかった。

 しかし、この後も彼の受難は続く。

 男の嫉妬は中々に陰険で、しつこい。




 「一大事でござんすな……」


 吉乃が溜息をついた。

 目の前には玄米のご飯がある。 

 先ほどから口に運んでいるのだが、箸が進まない。


 「白米無しは、こないに苦しいものなんすなぁ……」


 先を思うと、甚だ憂鬱になる吉乃であった。




 「これは一大事かもしれないですね……」


 松陰が口にした。

 先ほどからベタベタと、やけに親しげに元琰げんえんが体を触ってきている。

 昨日は一日かけてスズらの機嫌を直すのに苦労したのだが、今日はまた吉原に来ていた。

 彩音の体調の変化を長英と確認する為だ。 

 元琰は元堅の代わりに昨日から参加していたので、松陰とは今日が初対面である。


 「ほんと、こんな若い子が脚気の診断方法を知ってるなんて! アナタ、凄いわねぇ!」 

 

 元堅の息子にして次期医学館総裁になるであろう元琰。

 その実態は、若干オネェが入った青年であった。 

 松陰は前世の記憶を思い出し、質問した。


 「元琰さんて、相撲が好きなんでしたっけ?」

 「えぇ?! どうして知ってるの?! やぁだぁ、嬉しいぃ!!」


 テレビで見たオネェタレント同様、やけにハイテンションな元琰。

 そんな彼に好かれた様で、松陰は若干の不安を覚えていた。




 「一大事ですぞ!」


 彩音の診察を終え、冷やかしで吉乃の部屋を訪れていた一行の下に、元堅が慌てた様子で駆け込んできた。

 花魁ともなれば、専用の部屋がある。


 「父上?!」


 元琰は、普段目にする事が無い、元堅のあたふたした様子に驚いた。

 医者が慌てると患者が不安になると、耳にタコが出来る程に聞かされて育ったからだ。


 「一体どうされたのですか?」


 松陰の問いに元堅は口を開きかけたが、真剣な顔で見守っている長英や吉乃に気づき、ハッとしたのか、慌てて口を閉じた。

 そして、渋り顔で言う。


 「いや、ここで言うのははばかられるのだが……」


 そんな元堅に一同は迫る。


 「私は言えぬ秘密を山ほど抱えておりますが?」

 「わっちは花魁でおす。主さんらの秘密なぞ、閻魔様にも明かしはせぬ。」

 「父上は私を信じられないと言うのですか?」

 「長年の牢暮らしで、口は固いつもりです。」


 皆の言葉と顔つきに、元堅は暫く考え込み、覚悟を決めたのか言葉を発した。

 

 「では、これは、ここだけの秘密でお願い致す。各々方の耳を拝借願おう。」


 松陰らは元堅を中心に車座に集まった。

 元堅が小声で囁く。

 

 「家慶いえよし様の跡継ぎでいらっしゃる、家定いえさだ様が脚気なのです!」

 「えぇぇぇ!?」

 「声が大きい!!」


 現将軍家慶の四男にして、世継である家定。

 彼は幼少の頃より病弱であったらしい。

 元堅は昨日の江戸城にて、手当たり次第に出会う者の膝小僧を叩いて回っていた。

 脚気の診断とは言わずに、である。

 

 「家定様の膝は、まるで反応しませんでした……」


 元堅の顔は酷く暗い。


 「では、元堅先生がいえさ」

 「軽々しく名を出さない!」

 「失礼。では、元堅先生がその方を治療すれば良いのでは?」


 松陰が尋ねた。

 奥医師は、将軍家の健康を診るのが仕事であるので、元堅が家定を治療すれば良いだけだろう。


 「それが、我々はそのお方に信頼されていないので、出来るのは診る事くらいなのです……」


 鎮痛な面持ちであった。




 家慶の子供14男13女のうち、無事に成人したのは家定だけらしい。

 その家定も幼い頃から病弱で、天然痘の痕が目の周りに残り、人前に出るのを極端に嫌がったという。

 一説によれば家定には脳性麻痺があり、思ったとおりに体が動かない事からイライラを抱え、それが周囲には癇癪を持った人物に見えたらしい。

 当時に脳性麻痺などという知識は無い。

 周囲の不理解の中、生まれつきの障がいを抱え、次期将軍という重責を担いだ家定の心中は、どの様なモノだったのだろうか…… 




 「我々の力が足りないばかりに、家定様のご兄弟姉妹を救えなかったのです……。家定様は、それを我々が毒殺、暗殺したと思われてしまったようで、診療を拒否されてしまうのです……」

 「なるほど……」

 

 暗殺を恐れ、家定は食べ物を自分で料理する事があったらしい。

 芋をふかし、菓子を作り、自分が食べるだけではなく、部下にも振舞ったそうである。

 越前藩主松平春嶽などは、「イモ公方くぼう」などと渾名したそうだ。


 「松陰殿、あのお方を救っては下さらぬか?」

 「どうして私めが?」

 「我々では無理だからです! それに、脚気の原因と治療法をご存知である松陰殿ならば、あのお方をお救い出来るのではないかと思うのです!」

「でも、彩音さんはまだ良くなってませんよ? なのに私の言葉を信じるのですか?」

 「それは日にちの問題でしょう?」


 元堅は、彩音の容態が快復しつつあるのに気づいていた。

 であるので、松陰が正しいと確信したのだ。

 

 「お気づきでしたか。しかし、私では“奥”に入れないでしょう?」

 「それは……」


 将軍が住まう、男の浪漫である“大奥”。

 大奥に入れる男は、将軍家を除けば、奥医師といったごく限られた者だけであった。

 一介の長州藩士である松陰が、容易に入れる場所ではない。


 悩んだ元堅は、どうしたものかと頭を巡らせた。

 ふと、吉乃が目に留まる。

 そこで閃いた。


 「そうだ! 松陰殿が女装して、女中として入れば良いではないか!」

 「は?」

 「白粉を塗りたくれば、男とはばれない筈! であれば、奥に入るのも問題ないでしょう! 我々も協力しますゆえ、大丈夫!」

 「意味がわかりません……」


 元堅は、さも名案だという風に口にした。

 松陰は困惑を顔に浮かべる。


 「というか、元堅先生の弟子で良いのではありませんか?」

 「私自体が良く思われていないのですから、私の弟子では無理ですな!」

 「そんな自信満々に言われても……」

 

 きっぱり言い切る元堅に、松陰は呆れてしまう。 


 「松陰殿が元堅様に、脚気の治療法をお教えすればいいのでは?」


 長英が提案した。


 「それは是非お願いしたいが、あのお方は我々の治療を拒否されるから無理でしょうな……」

 「脚気は食べ物の問題なのですけどね。」

 「そうなのですか?! いや、しかし、我々が何かをお勧めした所で、不審がられるのがオチ。なんせ毒を恐れて、ご自分で料理されるお方ですから……」

 「な、なるほど……。では、そのお方が信頼している人はいないのですか? その人に協力してもらえば良いのでは?」


 松陰の質問に元堅は黙りこんだ。

 思い当たる人物がいるようだったが、躊躇している風に見える。 

 そして意を決した様に、喋りだした。


 「あのお方は、唯一乳母には心を開かれているのですが、その者が問題なのです。ただ一人信頼されている事を鼻にかけ、何かと好き勝手な事をするのです。これ以上、かの者をつけ上がらせる事は出来ぬのです! ここで我々が貸しを作ってしまえば、以後どんな無理難題を要求されるやも知れませぬ!」


 事態は思った以上に深刻な様だ。

 悩む元堅を憐れみ、何か力になれるかと考えた松陰であったが、流石に女装は無理があると感じた。 


 「私が女装し、奥に入れた所で、すぐにバレてしまいますよ。礼儀、立ち振る舞いなんて知りませんし。もし露見すれば、関わった者全て切腹、では済みませんよね?」

 「け、けれども、事は天下の一大事ですぞ?!」

 「それはそうですが……」


 確かに、次期将軍が脚気ともなれば事は重大だろう。

 史実の通りであれば問題は無い筈だが、と松陰は考える。

 家定は病気がちではあったが、日本が開国するまでは健在だったからだ。

 しかし、懸念はあった。

 既に歴史は変わってきている。

 世界の流れに大きな違いは無いだろうが、個人の生き死にはどうなるのか想像も付かない。

 史実では長生きする筈の者が、事故や病気で亡くなる事もあり得るだろう。

 

 従って、家定の運命も分からないとしか言えない。

 とはいえ、大きなリスクを背負って無謀な賭けに出る程、相手が次期将軍であれ義理はない。

 元堅の立場や心情は十分理解出来るが、露見した場合の事を考えれば、おいそれとは頷けないのだ。


 そんな松陰の内心を読んだのかもしれない。

 元堅は懸命に策を考えた。

  

 「そうだ! ここに打ってつけの人がいるではないか! 吉乃殿、松陰殿の奥への潜入にご協力下さらぬか? 化粧の方法、立ち振る舞いや礼儀作法を教えて欲しい!」


 必死になって吉乃に頭を下げる。

 そんな元堅に心を動かされたのか、吉乃はニコリと笑い、言った。


 「天下の一大事でありんすな。わっちでよければ、喜んで力になりいんす。」

 「ありがたい!」


 元堅の顔はパッと喜びに輝いた。

 しかし松陰は、吉乃に不審なモノを感じた。

 何やら曰くありげな微笑を浮かべ、こちらを見てきている。


 「あの、吉乃さんは、もしかしなくても面白がってますか?」

 「はて、何の事やら?」

 「そんな笑顔で言われると、説得力が無いですよ……」


 白いご飯の仇を取れそうなので、とても嬉しい吉乃であった。

 そんな松陰を見る元琰の顔は、どこか妬ましげである。


 「羨ましい……」

 「元琰?」

 「い、いえ、何でもありません!」


 元琰は慌てて否定する。

 そして、逃げられぬモノを感じた松陰は、静かに覚悟を決めた。

 これも天命なのだろうと受け入れた。


 「仕方ありませんね……。老中の阿部様に連絡を取って下さい。」

 「なぬ? 阿部様とお知り合いなのですか?!」

 「まあ、知らぬ仲ではございませんよ。」


 そして、松陰の大奥潜入作戦が始動する。

元琰先生ごめんなさい。

なぜかオネェキャラになってしまいました・・・。


家定は脳性麻痺があったそうなのですが、安易に描写して良いモノなのか今でも悩みます。

障がいを揶揄、馬鹿にする意図は一切ございませんので、ご理解頂きたいと思います。

その様な印象を持たれた時は、すぐさまご指摘下さいますようお願い致します。

すぐに修正、訂正します。


実は子供の時分、そういう障がいを持った方を馬鹿にしてしまった経験があります。

誠に恥ずかしい行いをしたものです。

それを思うと、脳の機能に障がいを持って生まれてきた人が、当時はどの様な扱いを受けたのかと考えてしまいます。

らい病の患者さんがつい最近まで隔離されていた現実を考えると、言葉に出来ない悲しい状況だった、のでしょうか。

座敷牢に閉じ込める事もあったのかもしれませんね・・・


しかし、大奥に潜入するなんて現実には有り得ないでしょう。

元堅の弟子という事にすれば一番確実なのでしょうが、物語的な面白さを優先させていただきました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
病気や障碍のある方への態度は、本当に難しいですよね
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ