その24(遥)
部屋を飛び出すと右も左も真っ白な廊下だ。どっちに進めばいいのか解らず振り返ると、クリソプレーズが先導してくれた。表情は硬くて会わせたくない雰囲気が漂っていたが、わたしが望むなら仕方がないといったところかもしれない。そんな態度が怖くて胸が騒いだ。
「ここだ。」
無言で歩いて辿りついた扉の前で立ち止まる。クリソプレーズが示した部屋は扉が開いていて、中にはいくつかの寝台が並んでいた。この時になってようやくわたしは自分がいるのが病院なのだと理解する。
恐る恐る中に入ると窓際の寝台にアイオライトが座っていた。他の寝台には寝具もなく、アイオライトはたった一人で寝台の上で身を起こし、足に置いた本に視線をとして左手で頁をめくっている。気配には気付いているだろうに顔を上げず、ただ本に視線を落としていた。
「アイオライトさん。」
ぴくりとアイオライトの方が動いて、ゆっくりと顔を上げる。わたしを捕らえた青緑の瞳は澄んでいて、安心したわたしは体から力が抜けるとその場にへたり込んだ。
「ハルカ様?!」
アイオライトが寝台から飛び出す前にクリソプレーズが支えて空いた寝台に座らせてくれた。
「ごめんなさい、わたしてっきり―――」
最悪のことまで予想していたのだ。もしかしたらあのまま命を落としてしまったのではとか、意識が戻っていないのではないかとか色々、最悪なことばかり。だけどアイオライトはちゃんと生きていて、思ったよりも元気そうで安心して体の力が抜けてしまった。
「ご心配をおかけしてしまったようで申し訳ございません。お守りするどころか嫌なものを見せ辛い経験をさせてしまったうえに、ハルカ様を傷つけてしまったと思うと合わせる顔がなく。」
「そんなこと言わないで、アイオライトさんはわたしを助けてくれたのよ。なのに、どうしてそんなに気を使う必要があるの?」
「申し訳ありません。」
戸惑うように揺れたアイオライトの瞳が伏せられた。あくまでも敬うように作られてしまったのか、それとも何気に避けようとしているのか。わたしは自分の立場が立場なだけに、アイオライトの本当の気持ちが見抜けなくなって急に不安になる。
伏せられたアイオライトの視線を辿ると閉じられた本があった。本の上には節くれ立った男性らしい手が乗せられて、わたしはもう一つの気になって止まない右腕を捜す。アイオライトの腕は掛布の下に隠されていたけど、前合わせの白い看護依のような袖のしたには確かに人の腕があるのが解ってほっとした。
「腕、繋げてもらえたんだね?」
「ハイアンシス王子のお陰です。ハルカ様にもお礼を。」
「わたしのせいでこんな目にあったのにどうしてわたしなの?」
「王子が誰かの為に動くなどこれまでなかったことです。お立場故にハルカ様の命令に従うことはあっても、慮り心を尽くすような方ではなかった。」
「わたしが怖いのよ、王子様には随分と酷いことを言ったから。」
「きっとそうではありませんよ。ハルカ様に認められたいのでしょう。貴女を自分に惹きつけたいのです。」
確かにそれはあるかもしれない。王子様は力が強すぎて誰の言葉も受け付けなかった。そこに現れたのが絶対に無視できないわたしという存在だったのだ。わたしはこの世界で唯一王子様を叩きのめすことが出来る存在となって、彼を苦しめて。だけど王子様の生い立ちを知ると、恵まれていたようで本当は与えられずに貧しかったのだと察することができる。力があるばかりに高飛車に出た王子様を恐れ、叱ってくれる人がいなくなってしまったのだ。友達も王子様の性格の悪さに嫌気が差して上辺だけだったに違いない。一人を寂しいとも気付かずにいた中で、唯一敵わない相手が現れて、初めて叱られる存在に出会ったのだ。だからかまって貰いたくて、自分だけに惹きつけたくなる気持ちは理解できる。親の愛情を欲しがる子供にはよくあることだ。王子様の矯正のためにもわたしはその手を拒絶してはいけないのだろう。
それにわたしにだって王子様は必要なのだ。こんな世界に何の前触れも承諾もなく連れて来られて恨んでいたけど、色々あり過ぎてわたしの中では消化してしまっているような気がする。許したとは言えないけど、不幸になれと憎んでもいなかった。次に会ったらちゃんとお礼を言おうとアイオライトの腕に視線を落とす。
「見せてもらってもいい?」
「それは……」
戸惑うような返事に違和感を覚え、隣に立つクリソプレーズを見上げると眉間に皺を寄せて黙っていた。わたしは嫌な予感がしてもう一度アイオライトに訊ねる。
「見せてはくれないの?」
「綺麗な物ではありませんので。」
「大怪我をしたんだもの、綺麗とか汚いとかそんなことじゃないわ。」
お願い、見せてともう一度だけ口にすると、アイオライトはゆっくりと左手で掛布を剥いで隠れていた腕を曝してくれた。
長い袖の先から覗く指先が灰色に染まっていた。黒っぽい緑に変色していたあの時と比べるとずいぶん綺麗になったと思う。どのくらいで元通りになるのか、それとも色は戻らないのか。切断して手術でくっついた人の手足を見たことがないのでよく解らないけど、ちゃんと繋がっているなら良かったとほっとしてその指先に触れた。
触れた指先は驚くほど冷たくて氷の様だった。「え?」と思って瞳を瞬かせた後に血の気が引く。確かめたくて握手をするように手を滑り込ませた。
「握れますか?」
わたしの問いかけに視線を伏せていたアイオライトが顔を上げる。優しく目を細め、口元を弛めて、本当に穏やかに微笑んで。あまりの美しさに見惚れそうになった。
「私の幸せが何であったか、お伝えしたのを覚えていますか?」
あの地下牢で抱き締め合って、今があるから幸福だと言ってくれたアイオライト。小さな傷であっても十年に渡ってかすり傷一つ残すことを許されなかった体。魔法による治療の効果が薄れて、世界で一番の魔法使いで奇跡を起こせる王子様が治療をしても駄目だったということなのか。あの時既にアイオライトはそれが解っていたのだ。
「本来なら叶えられない願いを叶えて頂いた。私はオブシディアン一の果報者です。」
わたしからすると古風な表現。だけどアイオライトの言葉はこの世界に生きている人だなと感じる。
嫌なことがあったり何かの被害を受けたりしたときに、自分が納得するために何かで折り合いをつけるのが人だ。重大な事故にあった時には命だけでも助かって良かったとか、残されているものの中から折り合いのつく事柄を選択するしかない。
アイオライトに残っていたのは希望を叶えたという事実だけなのだろう。魔法がある世界で沢山の奇跡を生み出せるかもしれないけど、わたしの生まれ育った世界以上にこの世界では人の命はあっけなく奪われる。アイオライトも騎士として奪う立場と奪われる立場にあって、だからこそ辛い出来事を嘆くようにはできていないのだ。彼らにはわたしにはない覚悟がある。そうでなければこんな風に美しく微笑みを浮かべられる訳がない。
「この涙は私のためのものでしょうか。」
いつの間にか流れた涙がアイオライトの袖に落ちて染みをつくる。心配そうに眉を寄せたアイオライトが左腕を伸ばして頬に伝う涙を拭ってくれた。
「もし私の為なら泣かないで下さい、腕ひとつ失っても構わないのです。ただこれからどうやってハルカ様に貢献すれば良いだろうかと、悩みながらも前を向いて考えております。」
優しく微笑みを浮かべたアイオライトを前にごめんなさいなんて自分を楽にするような、相手を憐れむにも似た言葉を口にすることはできなかった。
アイオライトの言葉はきっと本心なのだ。わたしを守ることができたのなら腕なんてどうでもよく、綺麗な物だけを目にして幸せになってもらいたいというのが最優先。手足のないクリソプレーズを恐ろしいものと表現してわたしに見せたくなかったといった彼は、今の自分の姿も見せたくなかったに違いない。だけどその姿を曝しても嘆いている訳ではなく、これからの未来に向かってどうすればいいのか前向きに考えている。いともあっさりと辛い出来事を乗り越えてしまって、すぐに先を見据えられるのは強さなのか。それとも自分というものに対する感情がまるでないのか。十年も逆らわずに王女様にお仕えして、そして今はわたしの為に出来る最善を考えるばかり。彼はいったいいつ自分の為だけに動くことができるようになってくれるのだろう。
「わたしは、あなたに想われるような物を何一つ持っていません。」
時期外れの召喚をされた扱いにくい存在で、オブシディアンの存亡を担っている。だけど目の前の物をそのまま受け入れてしまうアイオライトにとって、わたしの価値なんてそれだけだ。ただ目の前にある、守れ、誑かせと命じられた存在。異界の人間でこの世界の人からすると珍しいかもしれないけど、誰かの力を借りないとここでは生きていくことも出来ない、特出した何かを持っている訳でもないのだ。だから誰に何を言われても、本人に懇願されてもずっとずっと否定してしまう。
アイオライトの微笑みが困ったようになり少しだけ首を傾げ、窓から滑り込んだ風が青みを帯びた銀色の髪を揺らした。
「私にとってハルカ様はとても貴い方です。命じられるのではなく、自ら側にお仕えし守りたいと願い望むのは貴女だけ。ハルカ様にとってはお辛い出来事でしたでしょう。ですが私は、ハルカ様がこの世界に召喚されたことに深い喜びを感じています。ハルカ様がいなければ私は誰かを見ることすらしないまま、流されるままにつまらぬ生涯を終えたでしょうから。」
警戒心が強く、優しくされても裏があると捻くれていた。そんなわたしに出会えてよかったとアイオライトは告白してくれる。意味なくこの世界に連れ去られたわたしに、この世界にも必要だったのだと認めてくれるのだ。
「感情をむき出しに泣き叫ぶ、その姿をとても素直に感じて見惚れてしまったのです。欲を満たすのではなく、素直で前向きな様は初めて目にする存在でした。」
もとの世界に帰せと泣きわめいて、優しい人たちに暴言を吐いたのも一度や二度ではないはずだ。泣き疲れて冷たく硬い床で身も心も崩れた先で目覚めると、そこはいつも温かく清潔な寝台の上だった。
「一人で立とうと懸命な姿に誰もが手を差し伸べたのに、ハルカ様は決して誰の手も取らずにいた。誰のものにもならずほっとしながらも、私の手すらとって下さらないことに焦がれるような思いを抱きました。どれほど願っても手を取っては下さいませんでしたが、それは貴女の強さです。とても美しい、ハルカ様だけが私に見せて下さった強さなのです。」
好意を無下にして、手の付けられなかったみすぼらしい女を、なだめても心を開かない、時に嘘で対応していたわたしを見捨てるどころか好意的に受け止めてくれる。騙されるものかと何度もはたき落とした手を、アイオライトは最後の最後まで差し伸べ続けてくれたのだ。けれどその右手はもう動くことはない。
「アイオライトさん、わたし―――」
「悪いが時間だ。」
何かを言いかけたわたしの言葉を遮るようにクリソプレーズが声を挟んで腕を引く。冷たさに慣れてきた灰色の手からわたしの指が未練がましく引っかかったけど、さらに腕を引かれあっという間に離れてしまった。
「殿下、ありがとうございました。自らの意思ではお会いする覚悟を持てなかったかもしれません。」
「ハイアンシスは完璧だと言ってる。どこまでを完璧と言うのか解らないが、お前もあきらめず努力をしてくれ。」
アイオライトは座ったままであるけれど礼儀正しく頭を下げる。これまでと違って邪険にする態度は微塵もない、王弟を前にした相応しいものだ。わたしは何も言葉を発することができないまま、クリソプレーズに腕を引かれて部屋を出された。それから少し歩いた所で立ち止まったクリソプレーズはわたしから腕を離して向き直る。
「流されるな。」
「流されてなんか……」
流されてなんてない。だけど一つ溜息をついたクリソプレーズは「流されていただろう」と断言した。
「自分で何を言おうとしたのか解っているのか?」
「何って……」
わたしは最後になにを言おうとしたのか。わたしの為に自らを犠牲にしても何一つ失ったと感じてないアイオライトに、いつもわたしの為に心を尽くしてくれた彼の冷たい右手に手を重ねて。あの時わたしはいったい何を言おうとしたのか。
「今の状況でアイオライトに応えるのは同情だ。」
憐れむような黄緑色の瞳が真っ直ぐにわたしを見下ろして、同情でアイオライトの想いに応えるなと忠告する。
「同情なんて、そんなのっ。」
わたしはアイオライトの想いに応えようとしたのか。わたしは何を言おうとしていたのか。違うと言えなくて、小さく首を振ると肩に重くクリソプレーズの左腕が乗せられた。
「例えそうでなくともこの状況で口にすれば同情になる。お前の言葉は絶対だ、陛下ですら拒絶できないのにアイオライトに資格があると思うのか?」
言葉にしてしまえば取り返しがつかないのだとクリソプレーズは強く真剣な瞳でわたしを見据える。
「お前が本当にアイオライトを想っているなら止めない、今すぐに戻って告白しても構わない。だが後で違うと気付いたらどうなる。お前は自分の心に嘘をつき続けることになるのだぞ。責任を取りたいのも解るが、そんなので本当に奴が喜ぶとでも思っているのか。」
だけど今のわたしに出来るのは彼の想いに応えることだけだ。別に恋人になるとか夫婦になるとかじゃない。ただ……多分、彼の望むように側にいることを許すだけと考えて、だけど今のアイオライトは護衛の立場に戻れるような力があるのかといえばないだろう。ならアイオライトの居場所をどうするのか。アイオライトの姿がショックで何も考えずにとんでもないことを口走ろうとしていたのだと気付かされた。だけど、だからってわたしがアイオライトにできることなんて他に思いつかないのだ。
「自分のせいで奴が腕を失ったなどと思うな。私とて誰のせいだとも思っていないし、騎士としてのアイオライトも同じだ。今回の件なしでアイオライトに応えるならそれでいいが、違うなら止めておけ。気付いた時にお前が辛くなるだけだ。」
今の状況でこれまで苦手にしていたアイオライトを急に側に置くのは誰の目にも同情や償いとして映るだろう。だけど償っていけないなんてことはないはずだ。やり方が間違っているとしても、他にどうしたらいいのかなんて今のわたしには考えることができない。
「勘違いするなよ、オブシディアンの為に言っているんじゃない、お前のためにだ。お前が崩壊を願うならこの世界が滅んでも仕方がないと思っている、私たちはそれだけの仕打ちをお前にしてしまったのだからな。だが今のお前は召喚された当初よりも絶望している。この様な状況でアイオライトに応えてもお前自身が不幸になるだけだぞ。」
わたしがしようとしていたことはアイオライトを、そして自分自身を傷つけることになるのだとクリソプレーズは肩に置いた手に力を籠めた。
「不幸なんて……絶望なんてしてないわ。」
わたしにとってのこの世の終わりは見知らぬ世界に連れ去られたことだ。それ以上の不幸なんて、呪わしい出来事なんて起こる筈がない。
「嘘をつくな。それとも自分で気づいていないのか?」
「わたしのことなのにどうしてクリソプレーズさんに解るのよ?!」
「解るさ、空が落ちてきているからな。」
「そら?」
世界を恨めば天は落ち、オブシディアンは崩壊してしまう―――召喚されたわたしがこの世界に絶望し呪えば、この世界を崩壊させることができると教えてくれたのは目の前にいるクリソプレーズだった。
「お前が絶望すればオブシディアンは天が落ち、闇に染まる。」
これが証拠だとクリソプレーズは外に視線を向ける。彼の視線の先にはいつもより低く感じる白い空が広がり、美しい鳥の声が何処からともなく聞こえてきていた。




