甘い罠 後編
夕日が映るオレンジ色の運河を、火のないカンテラをつるしたゴンドラが進んでいく。
ぽつぽつと灯りはじめた街の明かりを見上げながら、レアンドロは昼間王宮で娘に言われたことを考えていた。
『ねぇパパ。そろそろあの人にも、ママの屋敷へ入る許可、出してあげたらいかが?』
できるか。カヴァリエリ家の人間だぞ、と返せば、『あら。わたくしもよ、『伯爵さま』』と白々しいすまし顔で返された。
(結婚が決まった時はあんなに嫌がっておったくせに、もうほだされおって)
娘は周囲の誰もが手を焼くほど気が強いくせに、思いのほか周りに流されやすい性質だったらしい。その危うい性質が、親公認の婚約者“みたいなもの”だったリカルドによるところが大きいとは知らないレアンドロは、大きくため息をついた。
でも、それでよかったのかもしれない。生家に戻りたいと希いながら、耐え忍ぶような結婚生活を送るよりは。
もしくは、周囲への適応の早さは、母親譲りの特性なのかもしれない。
――占術師であっても所詮は庶民。このぺルラ家の采配を振るおうなどとは考えるな。おまえの仕事は子どもを産むことだけだ。
二十年ほど前、存命だった父の主導で下町から見出された花嫁に、若き日のレアンドロはそう言い放ったのだが。
『具体的には二人くらい?』
反発を予想していたのに、けろっと笑顔で返されて、言われた方も思わず『……そ、そうだな』と答えていた。
『了解! しかし娘二人かぁ〜反抗期が来ても心を強く持ってね、伯爵様!』
花嫁はそう言って、結婚祝いとして贈られ、寝室に並べられていた小さな酒瓶をためらいなく開封した。
――こんな女を家に入れて大丈夫だろうか。レアンドロはそう思った。
当時はまだ、“ぺルラはとうとうカヴァリエリにまで見放された”と面白おかしく噂する者が後を絶たず、そのカヴァリエリ家と結託したバディーノ家から王太子妃が選ばれて間もない頃だった。
父もいつも鬼気迫るような目つきをしていて、なぜカヴァリエリの騎士たちを遠ざけたのかと聞こうものなら夢に見そうな形相で睨まれたものだった。
レアンドロ自身、ストレスでいつも吐き気がしていた。周囲を自分の味方で固めていても、悪意のある噂は耳に入って来るし、老いた父親はいつも不機嫌だった。父は息子である自分が宮廷付きに任命されたことを喜びながら、疑っているような、疎んじているような、そんな空気を醸し出していた。――父の感情の意味に気づいたのは、その死後、フェリータの異変に気がついた時だったのだが。
まさか父親が世間に能力を欺いていたとは知らなかった当時、のんきな顔で自分と食卓を囲む花嫁に、『おまえは気楽でいいな』とレアンドロは当て擦った。
それは唯一、結婚生活で彼女に向けて放った嫌味だった。花嫁は子を産めといわれたとき同様に『まぁね』とあっけらかんとしていた。
慣れないグラスを不思議そうに傾けワインを飲む姿に、レアンドロはまた問いかけた。
おまえ、この家にいて辛くないのか。
血統を重んじるぺルラの親族から辛く当たられているのを知った上での問いだった。
花嫁は『別に』と答えた。女が肉を食べるのに使っているフォークが魚料理用のそれなのが気にかかったが、日々に疲れ切っていたレアンドロは黙っていた。
『娘たちがかわいいって知ってるから、平気』
レアンドロはぼんやりと、その花嫁が選ばれた理由を思い出した。
占術師。予知者。
そうか。
この女が産む娘は、かわいいのか。
『どんな娘だ』
聞くと、花嫁は少し目を丸くしてレアンドロを見て、それから楽しそうに夢の内容を語って聞かせた。食後に出てきたコーヒーに砂糖を混ぜながら、レアンドロは黙ってそれを聞いていた。
――当時、父を師にしていたレアンドロは、父親と同様、わかりやすくカロリーの高いものをこまめに食べる癖がついていた。父親のそれは魔術を使って命を削った分の補填だったのだろうが、ちょうどレアンドロも食べたそばから吐くような性質だったので、その癖はガリガリの若者を宮廷付きとしての激務に耐えさせるのに役立っていた。
けれど吐きながらは食べられないから、食べるのは体調のマシな時間にまとめて、だ。
その結果、花嫁から、まだ影も形もない『娘たち』の話を聞く時間、レアンドロは何かしら食べ続けていた。
『伯爵様に似た、とっても可愛い子たちよ』
『気が強くて、わがままで、贅沢が好きで、愛情深くて』
『父親のことが大好きな子』
そう言われたときは、糖衣で包まれたクルミを摘まみながら失笑した。
適当なことを言ってるな。そう思ったからだ。
顔は可愛いなんてことも、予知者でなくてもわかる。レアンドロ自身幼い頃から『儚くて、人形のように美しい』とさんざん言われてきたからだ。
いずれ吐くだろう糖と脂肪の塊をボリボリ噛み砕きながら、レアンドロは自分の花嫁の予知能力を政治に利用することは早々にあきらめた方がよさそうだと思った。存外役に立たない。子どもの髪や目の色の話を聞きながら、どこまで本当に夢に見たんだかと内心呆れかえっていた。
そうして月日が過ぎていった。
レアンドロは、家にいるときはあまり大声を出さなくなったことに、『初めて会った時より、物静かになったよね』と、花嫁におかしそうに指摘されて気がついた。そのときですら、口の奥でチョコレートを溶かしていたのでああとかなんとか、ろくな返事もできなかった。
一方で、花嫁は口が達者だった。喋りで日銭を得ていたからだろう。そのくだけた話し方は、周囲が言うほどにはレアンドロは不快に思わなかった。あまり予知夢を見ないことも、大して気にしなかった。だから離婚と後妻の話をされる意味がわからなかった。教会に手を回しておく? なにを? 生まれてくる予定の娘の洗礼の予約か?
忙しくて煩わしくて、花嫁が倒れて一命をとりとめたと知るや、レアンドロは花嫁の住処を移し、魔術で隠した。まず大前提として、大恥だからだ。ペルラ家当主の妻がみすみす殺されかけるなど、あってはならない大醜聞だ。
それに近いうち、件のかわいい娘が二人、生まれるはずなのだ。それを見もしないで、一体なんのために徹夜で仕事しているのか。別居の理由を聞きたがる周囲にそう言って、レアンドロは人々の怪訝そうな視線を浴びた。
――一年後、しわくちゃで生まれてきた赤子は、花嫁の予知した娘とは似ても似つかない姿だったが、レアンドロにはそんなことはどうでもよかった。それより、花嫁が赤子というものがいかに小さくてやわらかで危なっかしいかを予知してくれなかったことの方が問題で、心の準備ができていなかったレアンドロは仕事中なんども『娘が家で泣いてるかもしれない』と呟いては勝手に家に帰ろうとして国王に止められた。
相変わらず花嫁は別邸に置いたままで、レアンドロは本邸と別邸を当然のように行き来した。抱き上げた赤子は、いつも甘い香りを漂わせていた。
不思議なものだと思いながら、また月日が過ぎていった。
『パパのおなかにも、赤ちゃんいる?』
産まれたばかりの妹と別邸で会ったあと、本邸に帰るゴンドラで小さなフェリータに腹をなでられたとき、レアンドロは、自分がもう食べたものを吐いていないことに気がついた。
(娘二人。なるほど、ジーナの予知は半分は的中していたな)
到着した屋敷の応接間に案内されたレアンドロは、出された紅茶に対ししっかり粗探しとダメ出しをした後で、いつも通り砂糖を五杯入れた。
――娘の目の色が母親譲りの赤だというのも、半分だけ的中していた。フランチェスカは自分似の青だった。
髪の色も、無難に親と同じ色になると言っておけばよかったのに。
なぜ、黒髪の赤ん坊を夢に見た、なんて適当なことを言ったのだろうか。自分は薄桃色だし、ジーナ自身も茶色のくせに。
(……しかし、なぜわしがこんなところで足止めをくらっておるのか)
壁に備え付けの家具のように直立している使用人たちを尻目に、紅茶を一息で飲み干したレアンドロはよっこらせと立ち上がった。
「当主の部屋に案内せい」
客人の要求に、精一杯のすまし顔を保っていたカヴァリエリ家の女中頭が素早く「どうかもう少々お待ちを」と進み出た。
「ならん、わしは忙しいのだ! こんな狭苦しい家、一秒でも長くおれん! とっとと用を済ませて帰らせてもらう!!」
「ご、ご主人様はただいま屋敷を空けております。お帰りまで、どうかこの部屋でお待ちを」
「たわごとを申すな! 今日は休みで一日家におるというのは知っているわ、この家の奥方はわしになんでも話すのでな!」
だいたいわしを待たせるような身分かあいつが、と、レアンドロは自分が先触れを出さずに来たことも棚に上げてずかずかと屋敷の廊下を進んだ。慌てふためいて後を追ってくる使用人たちを無視して階段を上ったところで、見慣れた顔を見つけて眉を上げる。
「グィードか、久しいな。あの若造はどこだ」
「ご無沙汰しております、伯爵。お変わりないようで。……しかしながら、それはわが主人の夫君の私的な事情ゆえ、私から申し上げるわけには」
「ほれ、チップ」
「寝室でございます」
金貨であっさり引き下がり方角まで示した騎士に「グィード殿!!」と背後の使用人たちから悲鳴が上がる。無口で従順で、日々仕える主人の夫から謂れ無い嫉妬を受けていい加減ストレスが溜まっていた護衛騎士が恭しく指し示した扉に、レアンドロはためらいなく大股で近づいた。
まったく。ぺルラ伯爵たる自分が、用があってわざわざ足を運んだというのに、こいつらは何の権利があってそれを邪魔しようとするのか。
せっかく、妻の屋敷への立ち入りを許可してやろうと、あのいけすかない男に直々に言いに来てやったのに。
――そういえば。
(……ジーナが昔言っていた娘の容姿、『黒い髪と赤い目の女の子』とやら)
その子が、パパ、と嬉しそうに言っている夢。
それは、本当に『半分だけ』当たった予知夢なのだろうか。
「ロ」
レアンドロは、扉に向かって声をかけようとして、そのまま固まった。
静寂。
さすがと言うべきは、年季の入った宮廷付き魔術師。カヴァリエリ家の使用人たちが遠巻きにして見守る中で、そうそう無意識魔術が発動することはない。
だが、黙ってレアンドロのそばに控えていたグィードが、何も言わずにそこから離れたのを見て、使用人たちもまた、心の準備をした。
「――貴っ様、カヴァリエリのクソガキがァーーーーーーーーー!! こんな時間から人の娘に何させとるかおのれェーーーーーーーーー!!!!」
怒号と同時に、怒れる客人が打ち壊さんばかりの勢いで扉を叩き始めると、中からは悲鳴と悪態と何かがどすんと床に落ちる大きな音が響き、一帯は瞬時に大混乱に陥ったのだった。
カヴァリエリ邸の寝室の扉が完全に壊れて、夫婦と舅の言い争いがなぜか夫婦の仲間割れを経て三つ巴の罵り合いに転じたころ、リカルドは離宮の一室にいた。
「じゃあ、なあに。結局、あたくしが贈ったチョコレートはみんなロレンツィオのもとにいってしまったというわけ?」
長椅子に腹ばいになって寝そべり本を読むリカルドのもとへ、部屋の主人であるオルテンシアが近づく。背もたれ越しに覗き込む王女の金髪がさらりと降りてきて自分の視界を遮るのを、リカルドは煩わしそうに横に避けながら「ロレンツィオというか、フェリータのもとに」と答えた。
「うちには姉の子がときどき遊びに来るんです。小さな子が誤って食べたらと思うと、家の中に置いておけなくて」
「それでロレンツィオのもとに? 最低ね。あたくしがおまえに食べさせたくて用意したの、分かっていたでしょうに」
「公爵家で薬効を発揮して、それで僕はどうすればよかったんですか。その気になったから来てくれと、王宮に遣いを出せばよかったんですか、娼婦を呼ぶみたいに」
「そうよ。見知らぬ女とできない潔癖症は、あたくししか頼れないじゃない」
当然のように返されて、嫌味が不発だったリカルドが不機嫌もあらわに眉を寄せる。自分の顎を撫でる王女の手を躊躇なく払うと、頭上から含み笑いの気配があった。
「呼ぶより先に解術しますけど」
「バディーノ家に伝わる解術薬のベースなしじゃ、時間がかかるわよ。たとえ、おまえでも」
「ありえない」
「試してみる?」
「乗るとお思いで? あいにく僕は、今日は気分じゃありません。欲求不満ならそれこそ元夫でも呼べばよろしい、バレバレの媚薬なんか作らせてないで」
「無礼者め。『気分』だったことなんて一度もないくせに」
オルテンシアは不満げに鼻を鳴らして、リカルドのいる長椅子から離れると、酒の瓶がいくつも置かれたワゴンに向かった。
酒瓶と栓抜き、そしてグラス二つを手に戻ってきた王女が、それを長椅子の前のテーブルに置いて、向かいの肘掛椅子に座る。足を組みながら指で指し示すと、一瞥もしていなかったリカルドが億劫そうに起き上がって酒瓶と栓抜きを手に取った。
「それで、ピンクの子豚ちゃん、チョコレート食べてどうなったの?」
「……」
「バラすわよ。媚薬入りボンボンを送ったのはおまえだってこと」
「別にいいですけど、今日あげたやつでバレただろうし。……ひとつ目を、フェリータは食べなかったそうですよ」
「なんてつまらない。つまらない豚なんて本当にただの豚だわ」
「かわりにロレンツィオが食べたそうな」
「さすがあたくしのロレンツィオ。面白さってものを分かってる」
「口移しされてね」
「二度としないでその話」
ロレンツィオがフェリータに惚れていたという話がよほど癇に障るらしい。王女の歪んだ口元とは対照的に、リカルドは小さく口の端を上げながら酒の栓を抜く。子気味よい音と同時に、あたりに芳醇な香りが漂った。
「残念です、なかなか面白い顛末が聞けたのに……どうぞ、殿下」
半分ほど満たしたグラスをオルテンシアに押しやり、自らの分も手酌で注ぐ。
「でもいい出来だったと思いますよ、あの薬。レオナルドの作でしょう? 標的に薬入りの個体を最初に選ばせる暗示の術は特によかった。……フェリータは、まだそこには気づいていないんじゃないかな」
そんなんで、これからも宮廷付きとしてやっていけるのかな。
浮かんだ思考は、あまりにも幼馴染みに対して辛辣な言葉だった。リカルドはそれを、琥珀色の酒と一緒に飲み込んだ。
昼間の、嬉しそうな笑顔と一緒に。
(僕のあげたものだからって、安心しちゃだめなんだよ)
ぺルラ伯爵家の当主なら、エルロマーニ公爵家の盟友だけど。
カヴァリエリ家の夫人なんて、公爵家にとってはただの他人なんだから。
なんて思いながら、本当はまだ、彼女が自分の傲慢を許してくれるかどうかを試したいだけなのかもしれない。その証拠に、自分はこの企みを実行するとき、ロレンツィオはきっとまんざらでもないだろうと保険をかけるような考えを――……
リカルドは目を見開いた。口元をおさえた拍子に、手から滑り落ちたグラスが絨毯の上で繊細な音を立てて割れて、中身をじんわりと広げていく。
「な」
「薬入りの菓子はね、二つ言いつけたんだけど、あいつ何を思ったのか三つ寄越したのよ。あたくし、言いつけ外のことをされるの嫌なんだけど、でも今回は褒めてやろうと思うの」
オルテンシアは酒で満たされたままのグラスを掲げて、うっとりと見つめている。
その目が愉快そうに細められて、動揺を隠せないリカルドの方に向いた。
「あからさまにそうとわかる二つを先に見せておいて、油断したところで本命を仕込むといい、って助言までもらっちゃった。ねぇ、傲慢で性悪なかわいい坊や。今日こそ『気分』になったかしら?」
コト、と、ささやかな音を立てて、王女はグラスをテーブルに置いた。
そして長椅子の前まで来ると、生地の良い、けれどひどく簡素で脱ぎ着しやすい部屋着の前を寛げる。座面に膝を乗せ、背もたれに腕をつき、動けなくなった婚約者の汗みずくの顔をうっそり笑って覗き込む。
「伝言よリカルド。甘く見てたら、そのうち痛い目見るんですって」
まあ今日は、別に痛くはしないけど。
レアンドロ「フェ、カヴァリエリ伯爵夫人。貴殿が見た目を持て囃されるのも今のうちですぞ。なんか知らんが子どもが生まれる前後で、美しいとも人形のようだとも言われなくなるものですからな。わしがそうだったように」
フェリータ「……(なぜ、自分が昔美少年だったかのような物言いをなさるのかしら)ご忠告痛み入りますわ、パ、伯爵」




