76 婚約者“みたいなもの” 中
不意打ちで聞かれた内容に、フェリータは瞠目し、そしてあからさまに目を泳がせた。
「……そ、それは」
リカルドの目が、フェリータに座ることを促している。
従う道理はない。
けれど。
がた、と椅子と床のこすれる音がたつ。
結局、口に出されてもいない要求に従った。そしてフェリータはしぶしぶと言った体で、十二年間、誰にも言わなかったことを白状した。
「……匂いですわ」
「匂い?」
短い言葉を、リカルドは眉を寄せて繰り返した。
気は進まない。
だが言わねばならない。彼にとって、とても重要なことなのだ。ある意味、攫われたことそのものよりも、ずっと。
それが、軽率に助けたフェリータの責任なのだ。
「……あの頃のわたくしって、何かにつけてあなたのそばをうろちょろしていたでしょう。だから、その、移っていたのに、あのとき庭から帰ってきたリカルドからはそれがしなかったから」
「…………匂い」
短気なフェリータが冷静さをすぐ取り戻せるよう、条件付けに使っていたネロリの香水。
「え、まさかそれだけの理由だったの?」
いたたまれない静けさを破るリカルドの驚きは、追いうちとなってフェリータの羞恥心をえぐった。気恥ずかしさにテーブルを叩けば、グラスが揺れた。
「そ、それだけとは何ですの! 子ども心に偽物だと気が付いたときのわたくしの不安も知らないで!」
「いや絶対僕の方が追い詰められてたし……え、そうなんだ、それだけの理由……えー……」
リカルドは合点がいったような、納得していないような、微妙な声を漏らし。
そして全身から力が抜けたかのように、背もたれに背中を預け、パラソルの内側を仰いだ。
「獣の縄張り認識じゃん……」
フェリータの顔がボッと染まった。
「けっ……!」
「こっちはそれきっかけで母子関係もこじれて、僕はずっと君なしじゃ不安で仕方なかったのに」
立ち上がって抗議しかけて、フェリータは言葉に詰まった。
『君だけが、僕を見分けられたのに』
獣の縄張り。
言われてみれば、実にその通りだ。
家族の目すら欺く魔術を見抜いたのは、独占欲なんて言葉も知らない幼子の身勝手さだったのだ。
「僕もっと何か、魂の結びつきみたいな。血も魔術も凌ぐ運命の力とでもいうような、そんな特別な力があるのかと思ってたのに」
だから、フェリータと離れたらいけないんだと思ってたのに。
薄い唇から出てくる力の抜けた言葉に、フェリータは何と言ったらいいのかわからず、目を逸らした。
言わなかったことに深い意味はなかった。その話題は禁止されていたし、誰にも聞かれなかった。
それにやっぱり、ちょっと動物的で恥ずかしかった。
「も、もう、これでお話はおわりですわね! では」
「……もうちょっとここにいて」
扇を持つ手を握られて、フェリータは固まった。
リカルド、と咎めるように名を呼んだが、思いがけない真実から負った想定外のダメージに耐えるような顔に、フェリータも気まずさから口をつぐんだ。
――だが、エメラルドの目が一瞬バルコニーの戸口に向いたのは、見逃さなかった。
「グィード、いいわ。そこにいたままで」
鋭く放った一言で、室内に戻りかけていた護衛騎士がハッと我に返った顔をし、動きを止めた。
パンッ、と乾いた音をたてて、リカルドの手を平手でたたき、払う。
「リカルド。次に彼に暗示をかけたら運河に落としますわよ、力ずくで」
怒りに満ちた脅しに、男は善良そうな困り笑顔を浮かべた。
「悪意じゃない。これからする話は、二人っきりじゃないと君がきまずい思いすると思ったからだよ」
「それはわたくしが判断します。呪獣から助けてもらった恩はあっても、ママを呪った事実だってなかったことにはしません。誰が許してもね」
その言葉に、リカルドはやや目を見張って数秒の間はそのまま凍り付いていた。いつもの美しい微笑みを取り戻してからも、どこか寂しそうに「そう」と口の中で呟いた。
「信用してくれないか。今までとの温度差がえぐいね」
「あなたに言われたくない」
「僕はなんにも変わってない。ずっと」
手を膝の上で組み合わせ、そこに目を落とし、淡々と言葉を紡ぐリカルドにフェリータは眉を寄せた。
「ずっと、君がこの世で唯一大切なひとだった」
ごく自然に出てきた言葉は、かつてフェリータの胸を躍らせたもの。本来なら、この期に及んでまだそんなことを言うのかと一喝してもおかしくない。
だが、眉をひそめたのはリカルド本人だった。
「ごめん、この言い方はよくない。つまり」
「大丈夫ですわ」
ぴしゃりと遮る。今までのフェリータなら、リカルドの話の腰を折るなんて絶対にしなかった。
でも、もう今までとは違うのだ。胸の奥のざわざわとした気持ちにそう言い聞かせる。
「確かに、捨てた女へ向ける言葉としては最低ですけれど。言いたいことは、もう分かってますから」
そう続けると、遮られたきり黙り込んだリカルドが、無表情で目だけを向けてきた。
怒っているのか、恐れているのかわからない顔。
おそらく、向こうもフェリータに対して、同じように思っている。
「要はあなた、わたくしのこと大好きだけど、妻にはできない」
というか。
「女として、見られないのでしょう」
――背後で、小さな物音がしたが、意地でも振り返らなかった。
ひと月前、嵐が起きる前。
連れ去られた離島の別邸の、子ども部屋。
そこで押し倒されて、聞かされた言葉。
『ごめん、やっぱ無理だ』
その意味が分からないほど、フェリータは幼くはなかった。
つまるところ。
フェリータは、リカルドから見て恋愛対象外なのだ。
ぬるい風が、重苦しい空気のバルコニーを通り過ぎていく。
リカルドからなんの言葉もないが、罪を暴かれた囚人のような顔をしていた。
厄介なのは、それでもリカルドにとってフェリータは“この世で唯一大切な存在”であったということ。
加えてフェリータが、傍目にはリカルドに熱烈な恋をしているようにしか見えなかったこと。
フェリータはハァ、と呆れのため息を吐いた。
「あなた、このままわたくしと結婚したら、わたくしがかわいそうだって考えたんでしょう」
予想通りの婚約発表。祝福される結婚式。
自分に惚れているフェリータは喜ぶ。自分も、フェリータがそばにいるから、幼い頃からつきまとう不安に蓋ができる。
でも順調なのは、そこまで。ぺルラ伯爵家は当主夫婦から跡継ぎを得られないし、フェリータは恋愛感情を抱かれていないという事実で、心に大きな傷をつける。
それでもリカルドは大丈夫だ。両家のきずなは固く、よほどのことがなければ離縁なんてしない。究極、跡継ぎだってぺルラ家の血縁の誰かを養子にもらえばいい。
不幸になるのはフェリータだけ。
――それが大問題だった。
そしてリカルドの思考は“フェリータの幸せを願うなら、自分は他の女と婚約するしかない”に繋がった。自己中心的な彼なりの“大切な”フェリータへの思いやりの形だった。離れたくないと叫ぶ本音に『別々に結婚しても、フェリータはそばにいてくれる』とせいいっぱい言い聞かせての、決断だった。
わかっている。逐一説明などされなくても、状況が物語ってくれた。
自分自身のことのように、理解できた。
「――ご」
「もう謝らないで」
沈痛な面持ちのリカルドからこぼれかけた言葉を、フェリータは先に一蹴した。
「二度も謝らなくていいし、わたくしを憐れむ必要もない。だってお互い様ですもの」
「……お互い様?」
不思議そうに聞き返す短い言葉に、フェリータはつんと顎を上げた。
「わたくしだって、あなたのこと、“そういうふう”に好きって思ってなかったんですからね!」
きっぱりと言い切って、腕も高く組んでみせ。
――言えた。ようやく言ってやった。
自分を所有物のように扱って、“僕のことが好きなのにこのまま夫婦になって僕に愛されない現実に打ちのめされるなんてかわいそう”だなんて上から目線で憐れむ男に、現実を突き付けてやったのだ!
高揚感に浸るフェリータをよそに、その場には波の音と、街の喧騒だけが流れていく。
やがてリカルドは大きなため息を吐いて、のけぞるように背もたれによりかかった。
「じゃ、僕たち、ほんっとうに、婚約者“みたいなもの”でしかいられなかったわけだね」
脱力した声。フェリータは腕を組んで口を尖らせたまま、リカルドはパラソルの内側を見上げたまま。
そこへどこからか、カモメの声が聞こえてきて。
――突如、二人は同じタイミングで噴き出した。
「やだな、もてあそばれちゃった。伯爵家に決闘状送らなきゃ」
「……ひ、人聞きの悪いことをおっしゃらないで。悪質なのはどう考えてもそっちだもの」
「僕は君恋しさに運河に飛び込んだりしてない」
「わたくしだって誘拐してない」
くすくすと笑いながら、軽口をたたき合う。今までと同じ、優しくて穏やかで安心できる時間が流れる。
恋とは無縁、異性の緊張感とはかけ離れた、ぬるま湯の空間。
そんな二人っきりの時間が長すぎた。香水が移るほどの距離感が、十九年も続いたのだ。
今さら、どんな求婚の言葉をもらっても、それがどんなに孫へ語って聞かせるに値するロマンチックな言葉でも、この関係は覆せる気がしなかった。
リカルドが「なーんだ」と憑き物が落ちたような様子でぼやく。
「君が不憫だと思って、僕は憎まれ役に徹したのにさぁ。バカみたいだ、さっさと本音擦り合わせて、粛々と、それぞれ婚活してりゃよかったってわけ」
その言いざまに、一度は本気で傷ついたフェリータはさすがに眉を上げた。
「憎まれ役に徹する? 笑わせないで、わたくしが憎み切れないと見越しての、冷たい手のひら返しでしたわ。しかも結局わたくしの結婚ぶち壊しに来た! 指輪まで捨てて、ロレンツィオに死の鷲をけしかけたこと、ちゃんっと覚えてますからね!」
とたんに、リカルドの顔から笑いが消えた。
「だってあの人、フェリータのこと興味ないって顔してたくせに、とつぜん夫面で邪魔してくるんだもん」
「まぁ開き直って! 言っておきますけど、ロレンツィオが本当に死んでしまっていたら、わたくしがあなたのこと殺してましたわ!」
「君も勝てないくせに、口だけは本当に達者なんだから」
「だだだ誰から習ったのそんなひどい言い方! あっ、それこそロレンツィオねっ? わたくしと離れていた学院時代に、あいつから悪口の言い方を学んだのね!」
「怒ってる理由すり替わっちゃった。こんなに流されやすいんだから、伯爵も自分で娘に暗示をかければいいのに」
「ほらまたそういうこと言う! ……え?」
むきになって言い返していたフェリータは、予想外の単語にきょとんと相手の顔を見返した。
「ここからが、本当に人払いしたほうが良さそうな話なんだけど」
リカルドは中身の減ったグラスを揺らし、それを眺めて、なんてことなさそうに言った。
「今日は、レリカリオを託したり、十二年前のことを聞くために呼び出したんじゃない。君の父上に頼まれた、というか命じられたんだ。君が復帰する前に、先代伯爵から教え込まれた戦い方を暗示で忘れさせろって」
フェリータは何も言わず、リカルドを見つめた。リカルドも視線を上げ、静かにフェリータを見返してくる。
暗示で、忘れさせる。
祖父がフェリータに教え込んだ戦い方を――命を削って魔術に変える、戦い方を。
そうかと、腑に落ちるものがあった。懐中時計に関して意味深長なことを言ったのはこのせいだ。きっと彼の強力な暗示術を頼るにあたって、父がすべて話したのだろう。母の呪詛の件もこれで手を打つと、取り決めたのかもしれない。
「……そう」
ふう、と息を吐くと、フェリータはグィードにカフェの店内へ戻っているよう告げた。
従順な騎士が扉を閉めるのを見届けると、フェリータは椅子に座りなおした。そして当代の天才ともてはやされた魔術師に向き直り、居住まいをただす。
「ならお願い。手早くね」
こつ、と、男のしなやかな指の爪が、机を打った。
「嫌がらないの? 魔力が減るようなものだよ。宮廷付き魔術師を続けられるかもわからない」
リカルドの問いに、フェリータは髪をかきあげながら「そのときはまた一から志願し直しますわ」と返した。
「元から、あれは宮廷に行くための力ではなく、国を守るための力だったのですもの」
あっけらかんと答えてみせる。その胸に湧き出る恐怖から目を逸らして。
力が減る。ゼロにはならなくても、今までのようには魔術を行使できなくなる。
地位だって、剥奪されるのは辛い。仕事は生きがいであり、誇りと自信の裏打ちだった。
でもそれに、必要以上に執着してはいけない。
チェステ家は、それを見誤ったから、迷子になってしまったのだから。
フェリータは、ネロリの香る扇をぐっと握りしめた。




