73 ある晴れた日の王宮 前
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サルヴァンテとは、嫌な街だ。
橋や建物などの壊れた箇所がまだ直っていないのは仕方ない。だが日差しが強すぎて、少し歩けば肌が灼ける。
潮風も気になるし、どこに行くにしても舟に乗らないといけないのも煩わしい。
元々の街の装飾は華美で罰当たりなものも多いし、人はやたらに馴れ馴れしいし、何より魔術師が大聖堂の前を悠々と歩いている光景なんて世も末――。
「お使者様、顔色がお悪いわ。もしかしてワインより麦酒がお好み?」
必死によそ事を考えて正気を保とうとしていた使者を、容赦のない現実が引き戻す。
何度見ても、状況は変わりない。
謁見の間、空席となっている玉座。その手前に、椅子を置いて悠々と腰掛ける、美しい金髪の王女。その周囲を生け垣のように囲む若い貴族たち。
使者は頭痛をこらえ、どうにか返事を絞り出した。
「……おかまいなく、王女殿下。して、あの、国王陛下は」
「見ての通り不在ですわ。あらご安心なさいまし、同じ国にいるのですから、もう会っているようなものでしてよ。まあ、じきにこの部屋にも来るでしょう」
機嫌よく提示される言葉に、使者はまた、めまいを耐える。
「それまで、皆様を退屈させてはいけないからあたくしがもてなすようにと、兄が」
「それは、その、私どもには過ぎた気遣いですな」
本当に、心の底からいらない気遣いだ。
使者は乾ききった喉で咳ばらいをし、もう一度、話の主導権を握ろうと試みた。本題を切り出せば、この女も退散するかもしれない。
「ではあの、お尋ねいたしますが王女殿下」
「ねえ、ヴィッテンケルン公国騎士団はグィナの警護を長いこと担っているそうですけれど、お使者様は猊下にお会いしたことはおあり? あたくしはありませんのよ、兄はあるのに」
知らんがな。いや知っているが。お前の離婚が大陸でも有名だから。
幾度となく出鼻をへし折られて、聖地の隣国から来た使者はまたへなへなと口をつぐんだ。
何せ、王を待つ自分たちの前にぞろぞろとやって来てから、彼女らは始終ずっとこんな調子なのだ。
「あたくしの離婚の許しを得るためですって。そんなことで、地上で最も尊いお方に会えるのね。あら、ならば皆で順繰りに離婚したら、皆ご拝謁がかなうのでは? ねぇどう思うお前たち?」
ひらめきに瞳を輝かせた王女から、とんでもない提案が飛び出すと。
「きっとそのとおりですわ、王女様!」
「さすがオルテンシア様、目のつけどころが冴えておられる!」
王女の両脇背後を埋めていた若い貴族たちがどっと笑い声をあげ。
「は? 何がおかしいの。お使者様の前よ」
醒めた一言を合図に、一瞬で無表情となって静まり返る。
ついていけない。
異様な光景に、使者は何度目かもわからない寒気に襲われていた。
従者たちも桟橋に打ち上げられた魚のように虚ろな目で、時の経過を待っている。
使者と従者の砂漠のような心に残った一握りの感情は同じだ。
はやく王か、王太子が来ないかな。
いや、もういっそ――。
「あれは本当に、どこまで本気でどこからわざとなんだろうな」
謁見の間に飾られた、大きな絵画。
そこから壁を挟んだ反対側の隠し部屋で、ヴィットリオは小さな穴から使者たちの様子を眺めながら、背後に立つ男に問いかけた。
男は目尻の垂れた青い目を少し宙にさ迷わせてから、小声で答える。
「お声を聞く限りですが、今日はかなり機嫌が良さそうなので、ほぼ全部天然なのでは。オルテンシア様はもともと教皇の熱心な信奉者であられますし」
「本気か。全部わざとであってほしかったのに」
ため息交じりにささやき、王太子が天井を仰いだ。
――サルヴァンテを襲った呪獣と大嵐の夜から、かれこれ一ヶ月が経とうとしている。
一番乗りの使節団が港に降り立ったのも、もう二週間以上前のこと。
彼らは、この機にサルヴァンテの魔術師たちとそれを重用するロディリア王家をことごとく糾弾するつもりだった。それまでにも幾度もあった、既存の体制の大幅な、かつ自分たちに都合のいい改革への圧力をかけるために。
不幸なことに疲弊したロディリアの中枢部は、今回のことに時間も人手も多くは避けなかった。王太子ですら、怪我で人前に出られないありさまだった。
ほとんど準備ができないまま会合が始まる時間が近づき、もはや上級魔術師に暗示をかけさせるしかないという意見まで出たそのとき。
暇を持て余した女が、人知れず動き出した。
嵐の間、とくにやることもなく、王女は元気そのものだった。彼女は、使者たちが父王の登場を待つ部屋へ断りもなしに入っていき。
そして、わずか十分。
王と貴族たちが王女の軽挙に気が付いて飛んできたときには、すでに後の祭り。
――舌戦において百戦錬磨の外交官たちは、王女オルテンシアの純粋無垢にして残酷な話術に、なすすべもなく神経を衰弱させていた。使者に付きそう異国の魔術師も含めてだ。
『あらみんなが来ちゃった。ではお使者様がたご機嫌よう。ぜひに明日も明後日も、このオルテンシアに大陸のお話をきかせてくださいましね』
翌日、使者たちは、一週間の滞在の予定を切り上げ、急病人を連れ帰るように故国へと帰っていった。
――回想を終え、ロレンツィオ・カヴァリエリはしみじみと呟いた。
「悪魔もいてくれて良かったと思う日が来るものですね」と。
「まことに、……貴様今妹のことなんて?」
しれっと家臣に促され、王太子は再び謁見の間に続く小穴に視線を戻す。
そして、大陸からの使者の、“帰りたい気持ち”が最高潮に達するのを待った。
だが、場面はちょうど、使者が何度目になるかもわからない挑戦へ踏み出したところだった。
「と、と、と、ときに王女殿下っ、この前の大嵐でサルヴァンテも随分な被害を受けた模様で」
「目は確か? 窓開ければわかることなんて、聞く価値あるかしら?」
相変わらずのオルテンシアに、しかし使者もここに来て意地を見せた。
「ありますともっ、大陸ではおおいに! 猊下も大層、気にされておられます!! ……兆候の無かった風と雲は、魔術師により引き起こされた呪禍ではないか、と」
息も絶え絶えの切り込みに、ヴィットリオの同情するような、楽しむような顔が一変する。
しかしオルテンシアの返事は退屈そうで、不貞腐れていた。興味ゼロだった。
「あらそうなの? あたくしが知らないことをグィナにいながらご存じだなんて、猊下は目と耳が大層よろしいのね、獣みたい」
使者はめげなかった。
「……噂では、宮廷付き魔術師の中に、生贄をくべて魔術を行ったものがいたそうな」
「まぁ」
オルテンシアが声を高くし、取り巻きたちも王女に倣った。
――ヴィットリオは険しい顔で「ここまでだな」と言って、上着の前を合わせて隠し部屋の出口へ足を向けた。
それを、ロレンツィオが「まだです」と止めた。
「だめだ。嘘でも愚妹が誰かの名前を出したら、そいつの立場が危うくなる」
渋面のヴィットリオに、しかしロレンツィオは首を振った。
「殿下、それはおそらく、杞憂かと」
王太子が不可解そうに眉を寄せるのと、同時刻。
「――お言葉ですが、お使者様。生贄術というのは、生贄にされた者がいて、そこから力を得る術なのだということはご存じ?」
兄の焦りなど知る由もない妹もまた、不思議そうに眉を寄せていた。
「も、もちろん」
上擦ってはいたが、使者の返答にはそれまでより力があった。
王女は遠慮なく問いを重ねる。
「じゃ、その件では、誰が生贄にされたの?」
「……噂では、下町育ちの女が一人と、教皇猊下の姪御であられるクリステン様までが」
パァン、と高い音が謁見の間に響き渡った。
オルテンシアが、椅子の手すりを扇で打ち据えた音だった。
「お使者様」
凍りついた場に、オルテンシアの苛立ちを隠さない、低い声が響く。
「その二人の死は大聖堂と大司教の警護に当たっていた男の犯行だと、もう判明していますの。あなたたち教会側の人間がこれと決めた“教会付き”のことよ」
一切の笑みを消したオルテンシアは、怒りと軽蔑の視線で使者を射抜いた。
「あたくし、あなたが国を代表して任命されるほど賢い方だと思って、会えるのを楽しみに来ましたの。なのに、下らないでたらめで失望させないで」
「な、なんという口の利き方を」使者側の従者が果敢に口を出すが。
「勘違いはおよし、ここはお父様の国よ。お父様の大事なお客様だと思うから、あたくし自らもてなしてるのに、道化のような作り話を聞かせるならそれらしく扱うわ」
作り物めいた美しい顔が、冷たい怒りに歪む。
扇がパチパチと椅子の手すりを打つ様子は、さながら調教師の鞭のようだった。
いつもなら、『いい加減にしろ』と呆れてストップに入る兄も、『お言葉が過ぎますよ王女様』と青筋を立ててフォローに入る昔馴染みも、隠し部屋から出る気配はない。
見かけ以上の四面楚歌の状態で、しかし使者もただでは沈まない。
「お、お気を悪くさせてしまいましたかな。いや、嵐の終盤に大鯨が出たという情報もあったので、てっきりぺルラ伯爵家が関係しているのかと……」
使者は、外交官として当然に、ロディリア貴族の勢力図を把握していた。
そして、現王妃の実家の一族と、この伯爵家が大昔から冷え切った関係なのを知っていたし、母親の実家と懇意な王女とぺルラ伯爵家の若き宮廷付き魔術師が、ごく最近にもひとりの男を取り合ったのも承知していた。
「聞くところによると、ペルラ家の魔術師は、謹慎中にも関わらず至るところで問題を起こしたあげく、嵐に際して自死としか思えない状況から、奇妙にも生還したそうですね……?」
餌をちらつかせたつもりだった。『政敵兼恋敵を追い落とすなら今だぞ』と。
目の前にいるのが、まるで常識の通じない女だということも忘れて。
仏頂面から一転して、オルテンシアは華麗に笑った。
「ねぇ芸人さん。オルテンシア、腹話術なるものが見てみたいわ」




