50 一番大切な
「あ……」
自分を戒めていた腕から力が抜ける。浮いていた足はすぐに地面についた。
血と砂に塗れたロレンツィオの体が、なんの支えもなくフェリータの方に寄りかかってくる。
抱きとめようとして、フェリータは重みに沈んだ。そのまま、瓦礫とおもちゃの散乱する床に膝をつく。
ロレンツィオの腕は、だらりとぶら下がっているだけで、動かない。
信じがたい状況に、フェリータは声の出し方を忘れたように黙りこくっていた。
「……フェリータ」
そんなフェリータに、リカルドが静かに言葉をかける。寝台から降りながら。
「大丈夫。すぐに忘れさせる。覚えていたまま僕と一緒にいるのは、罪悪感で辛いだろう」
近づいてきたリカルドは、そのままフェリータの横に膝をついた。力を失って覆いかぶさってくる男を抱えて宙を見つめるフェリータを、痛ましげに見つめる。
「後のことは、僕が綺麗にしておく。これも想定済みだよ、君の家族に心配はさせないし、カヴァリエリ家とも話をつける」
リカルドが掲げた腕に、大鷲がやってきて、しゅるんと消えた。
床に落ちた羽は、いつもより大きく、鮮やかな模様を描いている。
「だから行こ。彼は置いて」
死の魔術を扱ったその手が、フェリータの頬へと伸びてくる。顔を引っ掻かれたことも忘れたかのような、どこまでも優しい指先で。
自分より弱い者を哀れみ、慈しむ手で。
フェリータはされるがままだった。
伸びてくる手を払えばいいのか、受け入れればいいのかわからなかったからだ。
この身にのしかかってくる奇妙な重みを、どうすればいいのかわからなかったからだ。
気づけば息もできていなかった。抱きとめた体をただ支える以外、今何をすればいいのか、まるで分らなくなっていた。
――死んでしまったのか?
リカルドに殺されてしまったのか。
自分を取り返しに来て、ロレンツィオは死んでしまったのか。
頭が痛い。
ぎゅっと腕に力を込めても、振り払われもしなければ、抱き返されることもない。
頭が痛い。
肺が抉られたと言われても信じそうなほど、息が苦しい。
頭が痛い。割れそうなほどだ。あの夜、オルテンシアを助けた夜と同じくらいか、それ以上に。
息の仕方は忘れたまま、体の奥底で熱量の固まりが勝手に動きだす感覚があった。
ほとばしる感情が、手を伸ばしてくる男に向けた殺意だと、フェリータが自覚しかけたとき――。
そのリカルドの手が、フェリータの頬に触れる直前で止まり。
べきょっと奇妙な音を立てて、まるで鉄板に挟まれでもしたかのように、潰れた。
「……は?」
間の抜けた声がフェリータから出る。
リカルドは、突然何もないところで歪んだ自分の右手を、しばし呆気に取られて見つめ。
そして次には素早くフェリータの横から飛び退った。
一瞬のちに床を割って伸びてきた槍から逃れるために。
「え? は?」
混乱に拍車をかけるように、腕の中の、ロレンツィオの重みが消えた。見れば、そこには黒い靄が揺蕩うだけで、筋肉隆々の重々しい体などどこにもない。
空虚を抱いて跪くフェリータをよそに、リカルドの目が鋭く周囲を見渡したときだった。
「今度は聞かないのか」
低い声は、寝台のそば、乱れた天蓋の向こうから聞こえた。
フェリータの目が吸い寄せられる。
聞こえるわけがない声だ。けれどリカルドが同じ場所へ反応したから、幻聴ではない。
いる。
それなら。
フェリータは驚き疑うよりも、己の魔力を練るのを優先した。
嫌味な声がさらに続く。
「使い魔か、って」
(――使い魔)
その言葉ではたと、フェリータの頭にある可能性が浮かんだ。
さっき、リカルドの顔に爪を立てて、魔力を流したときの違和感は。
もしかして。
一方で、リカルドが声の出どころに向かって指を鳴らす。床に落ちていた人形が虎に変わって、寝台の向こうへ一直線に飛び掛かった。
すぐさま、フェリータがレースの天蓋を鉄格子に変えて、獣の体を受け止める。
もろにぶつかった虎の体が羽に変わった瞬間、鉄格子の隙間の向こうに見えた銃口。
そこにいた青い目と視線が交わった一瞬。
「腹を撃って!」
喉を裂かんばかりの叫び。銃声。
次の瞬間、リカルドの身体が前へと崩れた。
腹を抑えるようにしてかがんだ男の首が、フェリータに向く。緑の目には、驚愕と悲嘆がはっきり浮かんでいた。
「どうして」
かすれた息の、はざまの問い。
沈黙ののち。
フェリータは、震えそうになる唇を、ゆっくりと動かした。
「……大丈夫ですから」
苦いものをいくつも飲み込んで、やっとのことで選んだ言葉。
「わたくしたち、変わらないわ」
緑の目はこちらを見つめたまま、動かない。
――正直、今このときも、リカルドの意に反することを言うのは辛く感じる。
ただ、怖いのは逆らうことではない。
傷つけるのが、辛い。
出会ったときから今日までずっと、家族の他に、フェリータのそばにはリカルドしかいなかった。
「これからも、ずっと、一番大切なお友達でしょ」
撃たれた腹から血は出ない。
そこを抑えるようにうずくまった、リカルドの様子がみるみる変わっていく。
首や手の指の可動部に、三本の線が横に走り、球体の関節部が切り出される。肘、膝にも同じことが服の下で起きているのだろう。
ほぼ同時に、きめ細かだった肌に幾重もの渦を描く痣が浮かびあがった。と思うと、血管や骨の起伏がつるりとならされ、不自然に均一な表面となって、肉の柔らかさが消える。
端正な顔面の造形が形を変え、単純化し、鼻や口がただの三角や丸の木材に変わっていく。痣は年輪だった。
衣服が砂に変わって散る。ぱさぱさと髪が抜けて床に落ちて消え、力を失った体が床に崩れかけ――そこで、伸びたゴムが元に戻るような勢いで、全身が収縮していった。
時間にして、ものの数秒。銀髪の魔術師がいた場所には、子どもが抱えるような球体関節人形が一つ、転がっているのみとなった。
「……お前のほうかよ、使い魔は」
鉄格子のはまった寝台の陰から出てきたロレンツィオが、落ちていた布越しに持ち上げて包む。
その“コッペリウスの人形”の腹の部分から、軽くて小さな布の塊が落ちた。
失くしたと思った、フェリータの左手の手袋が。
――コッペリウスの人形の術には、化ける対象に繫がる物が必要になる。
リカルドをリカルドたらしめるものが。
(術が失敗していたら、リカルドはわたくしをここに連れてこなかったかもしれない)
「……でももう、二人っきりではいられないもの」
人形の顔に据えられた、緑のガラス玉が潮風にあおられ揺れて、無遠慮な日差しを反射した。
涙を耐える子どもの目に、少し似ていた。
***
肘掛椅子に腰掛けたまま、男はゆっくりとまぶたを持ち上げた。
「……見抜かれた」
自作のコッペリウスの人形の、腹の部分を撃たれたのは偶然ではない。フェリータが指示し、ロレンツィオが瞬時に従ったからだ。
最初は、確かに頭を狙っていたのに。
「ぺルラの声に従うのは本能か。もはやそれこそ呪いだね。……王女殿下が知ったらキレそうだな」
嗤おうとして、半端に息を吐いただけに終わる。
そしてまた、思考が堂々巡りする、
――どうして、あの女はいつも僕のことを見抜くのだろう。
どうして、フェリータだけが。
しばらく窓の外の青空を見つめていたリカルドだったが、その耳に、屋敷の階段を上ってくる複数の足音が届く。お待ち下さい、と焦る声はこの家の執事のもの。
やがて、先に飛び込んできた使用人を押し退けて、「呪詛罪の疑いで、ご同行願います。宮廷付き魔術師リカルド・エルロマーニ殿」と堂々宣告してきたのは憲兵隊長だった。
続いてなだれこんできた憲兵と魔術師の混合部隊に取り囲まれる。彼らのことを、リカルドは一瞥したきりさして注意も払わず足を組み替えた。
部隊の魔術師たちが緊張して体をこわばらせる。
「疑いね。まさか、推測だけでこんなことしてるわけじゃないだろうね憲兵隊長殿。……僕がいつ、だれを呪ったって証拠が出てきたのかな」
虚ろな目を隠すように額を手で覆い、ふてぶてしいため息と共に尋ねる。
呪詛に使ったジーナの髪は、フェリータの手から回収してとっくに処分していた。
しかし、答えたのはリカルドの予想した声ではなかった。
「密告がありましてな。そなたの部屋に、カヴァリエリ夫人に化けた例のコッペリウスの人形の、体が隠されていると」
遅れて部屋に入ってきたのは、よく知ったストロベリーブロンドの、恰幅の良い中年の男。
レアンドロ・ぺルラの冷ややかな声に、焦点の定まっていなかったリカルドの目が動く。
同時に、別の部屋から「ありました!!」と叫ぶ声が響いた。
ここまで読み進めてくださってありがとうございます。
リカルドは一旦退場しますが、終盤また登場させる予定があります。
マイペース更新ですが、よければこの先もお付き合いください。




