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病めるときも健やかなるときも、お前だけは絶対許さないからなマジで  作者: あだち
第四章 魔力なき呪い

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48 願いと呪い


「……さっきの今で、間に合うわけないな」


 フェリータに被さり、寝台に手をついた体勢のまま、リカルドは低く呟いた。

 いつの間にか、鍵が壊れた扉が虚しく戸口で揺れていた。


「サルヴァンテのは使い魔?」


 言いながら振り返ろうとして、リカルドは動きを止めた。

 首筋にかかる髪に混じって、ギラリと光る剣先が当てられていたのだ。


「質問はあとだよ。さっさとどきな」


「ロレンツィオ」


「俺の妻の上からどけってのがわからないのか」


 怒りに満ちた声に合わせて、切っ先が首に食い込む。ごくごく小さな舌打ちを境に、視界が徐々に開けていくのを、フェリータは信じられない気持ちで見ていた。


 起き上がったリカルドの首を追っていた剣先が離れ、鞘に収まる。同時に彼の両手首に鎖の紋様が浮き上がって、魔力を封じる拘束がされた。


 自然、フェリータの手首を戒めていたものも塵となって消える。


「……いつまでそうしてる。さっさと帰るぞ」


 伸びてくる大きな手に、フェリータは従った。引っ張られるがままに寝台の上に身を起こし、ひどく不機嫌そうな目を見つめた。

 

「何が気をつけろだ、勝手に家から出ていきやがって。……レリカリオ、直ったのか」


 青い目がほんの数秒胸元に向いたが、フェリータはそれどころではない。


 掴まれた手首が熱かった。熱が伝わって、頬を通った涙が蒸発しそうなほど。

 どうして。どうやって。聞きたいことはたくさんあるのに、何も言葉にならなかった。

 

「言っておくが、あんたにも相当切れてる」


 ぐんと顔を近づけられる。息のかかる距離にロレンツィオの顔が迫って来る。

 ものすごく不機嫌そうな顔が。


「あんたがリカルドを好きでも」


 低い声。浮き出た血管。みしりときしむ手首の骨。

 刃そのもののような青い目に晒されて、フェリータは悟った。


「教皇の前で土下座するまでは、俺の妻だってことを忘れるな」


(……これ)


 怒っている。ものすごく、わたくしに、ブチ切れている。

 

 引き寄せられたとき“これはやばい、これはキスされる”なんて覚悟した自分が滑稽すぎる。顔からサーッと血の気が引いていくのを感じた。


 別の意味で、これはやばい。

 フェリータはリカルドに感じたのとはまったく別の危機感に襲われ始めていた。

 ずばり。


(浮気現場だと思われてますわ!!)

 

「ち、違いますロレンツィオ! わたくしは、レリカリオが直ったって言われたから呼び出しに応じたんであって」


「ついでにふたりっきりで会いましょうってか? ご丁寧に指輪まで外しやがって、浮気の心得ばっちりだな」 


 言われて初めて、左手の指輪がないことに気が付いた。手袋もだ。

 愕然と見つめる左手から、ロレンツィオの右手が離れる。


「別に怒っちゃいない。結婚が決まった時から、こういう日があるだろうことは覚悟してたしな。予想外に早かっただけで」


「違うんですったら! 誰がママを呪った相手と!」


 ムキになって言い返すと、ロレンツィオの顔から怒りに満ちた嘲笑が消えた。


「気が付いてたのか」


「気が付きますとも! わたくしを誰だとお思いで!?」


 勘違いした恥ずかしさも相まって叫んだところでようやく、昨夜、屋敷に戻るゴンドラでロレンツィオが言いあぐねていた内容がこれだったのだと思い当たった。

 きっとあのとき、彼も呪詛がリカルドの仕業だと見当をつけていたのだ。


 ならどうして、あの時そうとはっきり言わなかったのかと詰りかけたとき、「ねぇ」とリカルドの冷めきった声が割って入った。


「そろそろさっきの質問に答えられる? 使い魔ならずいぶん精巧だよね、まるでコッペリウスの人形みたいだった」


 青い目がギロリと刃先を動かす。「違うったら……」と食い下がっても聞いてもらえている気がしない。


「使い魔使い魔うるさい奴だな。ヴァレンティノに化けてもらったんだよ」


 またあいつ、と小さく吐き捨てたリカルドは、いつになく苛立っていた。

 構わず、ロレンツィオはフェリータを持ち帰る荷物のように抱き寄せて、リカルドには胸ポケットから取り出したものを掲げて見せた。


「四六時中、女を見張ってるお前と違って、俺は魔力は大事にしたい方でね」


 小さな鷲の羽が、ロレンツィオの手の中から宙を漂って床に落ちる。公爵家の魔術の残滓だ。


「勝手に人んちの客間に入ったんなら、しっかり掃除していけ」


 リカルドはそれを冷ややかな目で見つめていたが、ややあって、ふっと片頬を上げた。

 

「言い方悪いな。見守ってただけだって言ったのに」


「四六時中な。俺の魔力感知に引っかかったのはあんたの使い魔じゃなくて、レオナルドの呪いとヴァレンティノの解呪だけだった。大方、結婚式の夜からずっと屋敷に張り付かせてたんだろ」


 ロレンツィオの言葉を受けて、リカルドがうっすら笑う。


 勝手に進んでいく二人のやりとりで、ロレンツィオに抱えられたままのフェリータはようやく羽の意味に気が付いた。


「レオナルド・バディーノの手に傷を負わせたのは、あなただったの……」


 その呟きに、リカルドは悪びれる様子も、かといって誇らしげにする様子もなかった。


「夫よりよっぽど頼れる男だったろう」


「ほざけ、お前が邪魔しなきゃ俺が行ってた」


「死体に会いに?」


 黙り込んだのは、それがロレンツィオの痛いところだったからか。

 それが隙になった。


 リカルドの視線が自分の手元にいく。ロレンツィオが気が付いて、フェリータを背に回し剣を抜こうとしたが、間に合わなかった。


 手首に浮かび上がった鎖の影が、左右に引っ張られたように砕け散る。


 魔力拘束が切れた。


 フェリータは本能的な恐怖に襲われた。咄嗟に、自分たちとリカルドの間に防壁を張ろうとしたが、瞬きの間に幼馴染みは視界から消えていた。


 ――どこ。


「フェリータ!」


 遠近感が狂うロレンツィオの声。後ろに引かれるような浮遊感。凍る背筋。

 リカルドは後ろにいた。背後からフェリータを抱え、離れたはずの寝台の上に引き上げていた。


 ロレンツィオが手を伸ばす前に、レースの天蓋が勝手に閉じる。

 天蓋の内側が、閉じた不可侵領域になる。


「それとロレンツィオ、僕これでも結構反省してるつもりだよ」


 天蓋(結界)越しに、リカルドが姿見を指さす。

 鏡面に波紋が広がった。揺らぐ鏡に、魔術文様が浮かび上がる。 


 レース模様越しでもその紋様の意味が分かるから、フェリータは「やめて!!」と叫んだ。ロレンツィオは天蓋を睨んだあと、すぐに鏡に視線を走らせざるを得なかった。


 鏡の前に、床から伸びた黒い鉄柵が立ち塞がった。


 リカルドの指はすぐに鏡から逸れ、フェリータが握り直した銃に触れた。鏡に向けられた銃はたちまち砂に変わった。


「思い知った。今まで通りの僕らの関係に、君はいらなかったんだって。少しだけ、恨まれるのが名残惜しい。ほんとに尊敬してたから」


 鉄柵が、姿見の側からバキ、ボキ、とひしゃげられていく。やがて鉄柵を押し広げるように、黒い鱗に覆われた頭部がにゅるりと出てきた。赤い目と、長い首が続く。


 完全に意味をなさなくなった柵の向こう、小さな姿見からずるずると手狭そうに出てきたのは、一つの体に三つの頭を持つ竜だった。怪物はあっという間に子ども部屋のほとんどの空間を占有した。


 討伐した呪獣の再現体だ。本来なら、魔術師や警備隊の訓練のために行使される魔術。


 見るだけで生理的な嫌悪感が腹の底から湧き出てくる。けれど、とフェリータは自分を落ちつけた。


(大丈夫。宮廷付きなら、単独でも呪獣は倒せる。再現体なら呪いは放たないからなおさら――……)


「ロレンツィオと帰れると思ってる?」


 リカルドの声が思考を乱した。フェリータは声が震えそうになるのを叱咤して「もちろん」と返した。


「今の、わたくしの帰る家ですもの」


 耳にふっと息がかかった。笑われたのだとわかった。


「フェリータ、あれ見て」


 リカルドの声に、従順に従うのは嫌だった。そのいびつさに気が付いたからには。

 けれどおぞましい予感に負け、フェリータは指先を追った。


 リカルドが示す先に、部屋につるされた円形のシャンデリアがあった。

 天井とそれを繋ぐ蔓に、真っ黒い影がひっそりとまとわりついている。


 鷲だ。


 大きな鷲が、ひっそりと眼下の戦いを見つめている。


 フェリータは直感した。あれが本命だ。

 三つ首竜は囮だ。


「僕の家で代々伝わる“伝家の宝刀”ってやつ。あれが一度飛び立ったら術が発動。もう、獲物は助からない。……教えたことあったっけ」


 知らなかったが、そういうものがあるだろうと予想はしていた。なぜなら公爵家の魔術が鷲の羽を残すからだ。


 星の血統の一族には、それぞれ独自の大魔術が秘伝される。取り決めがあるわけではなく、自然とそういう“よそに真似されない独自の術”を秘蔵するようになるのだ。

 魔術を戦いの手段として発展させた国だから、それはおのずと敵への必殺の手段となる。


 部屋が揺れる。太い鎖を首に巻き付けられた首の一つが大きな音を立てて床に倒れ込んだのだ。

 三つ首竜にかかずらっているロレンツィオは、天井の鷲にまだ気が付いていない。


 知らぬ間に、フェリータはつばを飲み込んでいた。冷たい汗が背を伝った。 

 おそらくあれは、術者に示されない限り気づくことができないのだ。

 狩りの成功が、いかに直前まで獲物に悟られないかにかかっているのと同じで、気づかれないからこそ成功する術。


「あれは、家の当主の許可のもとでしか行使できない伝承魔術でしょう……」


 乾いた声で、背後の男に問いかける。見つめる先の男に、叫んで教える選択はできなかった。


「そうだよ。でも別に、やり方知ってりゃ使えるもんは使えるし」


「罪よ。罰されますわ」


 違う。本当はそんなことを心配してはいない。

 あれが羽ばたいたら、ロレンツィオが死ぬ。フェリータは知るはずのない他家の秘術のことなのに、リカルドの言葉をまるっと信じていた。

 信じるに足るだけの不吉な空気が、影の周りに漂っていた。


 フェリータは、自分の体に回された腕に指を食い込ませ、しがみついていた。

 はやく正気に返ってと縋るように。 

 けれどリカルドは、フェリータの願いを鼻で笑った。

 笑って、そして、思いもかけない言葉を吐いた。


「それは子を見誤る親よりも罪深い?」


「……リカルド?」


 フェリータは恐る恐る、リカルドの方を振り返ろうとした。

 片手ががっちりとフェリータの首のあたりに巻き付いて、完全に男の顔を見ることはできなかったが。


「フェリータ。僕は本当に一度は、君の幸せを願った」


 声は、耳のすぐそばから直接脳へと流し込まれた。

 自分からフェリータを捨てた男が口にするには、不可解な言葉だった。

 ――それを悲しんでいた、少し前までの、フェリータにとっては。


「僕から離れて、誰か別の人と結婚するべきだって思った。そのために僕は殿下の欲を受け入れた。再婚にこだわらないあの人に、絶対に結婚するっていう条件を飲ませた。そうすれば、もう法的に僕は君を妻にできないから」


 天蓋の外ではロレンツィオと怪物が戦っている。なのに、天蓋の内側は奇妙なほど静かだった。

 ここが、異空間であるかのように。

 

「……結婚を望んだのは、オルテンシア様の方じゃなくて、あなただったの」


 口に出すと、小さくない衝撃がじわじわと広がった。

 かつての己なら、それだけで気が狂わんばかりに悲嘆しただろう事実。


 リカルドは続けた。声の調子は一向に変わらない。

 ただ、フェリータにまきつく腕の強さだけが変わった。より強く。きつく。


「そうしても、君はきっとずっと変わらないでいてくれる。そう願ったしそうなると確信してた。そのための今までだった」


 二つ目の竜の首が石になって壁に叩きつけられる。衝撃で壁が壊れて、外の光と空気が流れ込んだようだった。


「ロレンツィオは、僕にとっても理想の“フェリータの夫”だったんだよ。本当に」


「……それは」


 その言葉の意味を、フェリータはもう知っている。

 “フェリータを押しつけるのに、都合のいい人”。


 でもきっと、真意をはき違えていた。


「君を嫌う男だったから。それでいて、決して君をひどくは扱わないだろうって確信があったから。たとえ夫を一番には愛さない妻であっても、きっと」


 リカルドは、フェリータを疎んじ、遠ざけたかったのではない。

 同じ場所に置いておきたかったのだ。手を伸ばせばすぐ届く、けれど近すぎて意図せず傷をつけることもない、最もちょうどいい位置に。


 リカルドにとって、ロレンツィオはフェリータを“動かさないでいてくれる”夫になりうる人だったのだ。


「でも彼、本当は君のこと好きだったんだ。それじゃ話が違う。……すっかり騙された」


 初めて、声音が変わった。

 首にかかった腕に力が込められたのを感じた。

 殺意に近い、恨みを感じた。


「ゾッとした、嫌な予感がしたし、それは的中した。ロレンツィオは、君を僕から取り上げて、近づいちゃいけないものに仕立て上げようとし始めた。僕のほうが先に一緒にいたのに。長く一緒にいたのに。そんなことしたら」


 フェリータは何も言わなかった。反論も抗議もしなかった。

 それを相手が望んでいないからではない。

 直視するためだ。


「――次に入れ替わってしまったとき、僕は誰にも見つけてもらえないかもしれないのに」


 たった今、自分たちのいびつな関係の根源が、姿を現し始めているから。


「君だけが本物を見分けられたのに。僕がリカルドだと決められるのは、親でも兄姉でもない、君だけなのに」


 これこそが、本当の、彼と自分の関係性だったのだ。


「君の一番大事な存在だからこそ、僕はこれ()がコッペリウスの人形じゃないって証明できるのに」


 


 

 リカルドは言った。自分たちの関係はこの先も何も変わらないと。

 それは“そうあれ”という願いであり。

 “そうでなくてはならない”という、呪いだったのだ。



 

 

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