45 占い師の夢
「やぁだ、フェリータまでいるの、しかも寝間着姿で。本当に嫁いだんだかわかんない頻度で帰ってきてんじゃん」
フランチェスカに続いて入ってきたフェリータの慌てようとは裏腹に、寝台で身を起こしたジーナはけろりとしていた。
そばには難しい顔つきの父伯爵が立っていたが、背中で手を組んでのしのしと窓際へ動いていった。
「ママ、気分はどう?」
ジーナはふっと目元を和らげて、娘の乱れた髪を優しく撫でた。
「なんかすごくすっきりしてるわよ。飲んだくれて吐いたおかげでもう一杯飲めそうみたいな、そんな気分」
「マ、ママ……」
脱力したが、それだけのことが言えるならもう大丈夫なのだろう。呆れたため息は安堵の裏返しだった。
フェリータがしみじみと母の手に顔を擦り付けていると、ジーナの視線が部屋の入口に向かった。
「夫から聞きました。ロレンツィオ殿、この度の恩には感謝の言葉もありません」
「いいえ、当然のことをしたまでです。大事ないなら何より」
母の変わりように目を丸くするフェリータを挟んで、ロレンツィオが軽く会釈する。
夫こと伯爵は庭を眺めたきり、ぴくりとも動かなかった。ロレンツィオは、そんな舅をちらりと見てから、まじめな顔のまま問いかけた。
「レアンドロ殿からもすでに聞かれていることでしょうが、伯爵夫人はこの度の呪詛についてなにかお心あたりなどは」
「さてねぇ」といつもの調子で答えたジーナが背をふかふかの枕に預ける。
「貴族の皆様には、まずほとんど会ってないし。昔の占い仲間とも、十年くらい前からとんとかかわりなくなっちゃったし。結婚後も仲良くしてくれた子とも音信不通になっちゃったし」
「一昨日の結婚式ではどうでしたか。険悪な雰囲気になった相手などは」
「そういえば、赤茶の髪のハンサム坊やにチェスで勝っちゃった」
わざとらしくしかめ面になった母に、フェリータは今度は本当に呆れ気味に言う。
「ママ、それはヴァレンティノ様だから……」
フランチェスカが「え? 何ですそれ」と呟いた横で、フェリータははたと気づいた。
「バディーノ家だわ!! きっと昼間の一件を逆恨みしたか、まだ納得してないか」
「違うだろう」
遮られて、フェリータは戸惑いとともに窓辺を見た。
「パパ?」
「バディーノ侯爵は慎重な男。自分の孫王女の再婚を滞りなく進めたいであろうこの時に、ここまであからさまで、同時に意味のないことはしない」
意味のないこと。その言い方に、フェリータは父に食って掛かろうとしたが、母本人が「だってさ」と父のフォローに入ってしまったので矛を収めざるを得なかった。
それでも、バディーノ家が怪しいという気持ちは晴れない。
「……でも孫のレオナルドは何するかわかりませんわ。ママ、バディーノ家から急に贈られてきたアクセサリーとかない? 呪物は対象の近くに置かれるのが一般的ですのよ」
「あっても触らんだろう。そんな怪しいもの」
「パパは黙って。あとは髪の毛触られたとか。相手の服の一部や髪の毛を本人代わりにして自分の領域で呪う方法もありますもの」
「普段親しくもない男がそんな近くに寄ってきたら普通警戒するわい」
「パパうるさい!! あるでしょたまにはちょっと目がくらんだりすることくらい!!」
我がことのようにむきになるフェリータに、レアンドロはふんと鼻を鳴らした。
「……そういうのは無いんだけど、そう、髪の毛と言えば、妙な夢を見たわ」
「夢?」
「苦しみから解放されて、あー死んだんだなって思ってた時に。空っぽの金色の棺の中から、誰かがちんまりと髪の毛みたいなものを取り出す夢。こーいうぐるぐるっと、長い髪の毛を巻き取ったみたいな形のやつをね」
指で宙にカタツムリの殻のような渦巻きを描いて見せたジーナは、娘たちの困惑顔にもどかしげに眉を寄せた。
「どう言ったらわかるかな、あの、あれよ……そう、フェリータたちが持ち歩いてるロケットに入ってるやつ、あんな感じの、もっと長くて古そうな感じのやつ!!」
「魔女の心臓の夢?」
ロレンツィオの言った言葉に、姉妹はやはり顔を見合わせたが――。
「……千里眼か。予知ではなく、真相の暗示という」
レアンドロの唸るような言葉に、フェリータはまた目を丸くして母親を見た。
「ほ、本当? ママ、占術を使いましたの? うそ、何年振り? どんな気分?」
「棺……聖遺物容器は魔術関係なく言えば、もとは遺髪入れです。死者の一部を収める器から転じて、夢はレリカリオを暗示してたってこと? でもレリカリオなんて、魔術師ならみんな持ってます。ママ、もっと決定的なものは見てませんの?」
勢い込んで問いただす娘たちに、ジーナは「よくわかんないわ!」とあっけらかんと笑った。
「夢の内容はぼんやりしてたし!」
そう言われては、フェリータもフランチェスカもそれ以上は何も聞けなかった。
「犯人が魔術師であるという暗示なら、少なくとも生贄術の使い手ではないということですわね」
口にしたことは、解決に対するわずかな慰めでしかなかった。宮廷付きの中では、生贄術の使い手と魔術師が手を組んでサルヴァンテに攻撃を仕掛けようとしているという見方が主力だ。
これがオルテンシアと同じ犯人なのか別件なのかすら、判断がつかない。
オルテンシアを殺そうとしながら、ぺルラ伯爵夫人を苦しめるにとどめようとした理由もわからない。
「……本当に、夢にはそれしか出てきませんでしたか?」
そこへ、ロレンツィオが探るように声をかけた。ジーナの表情が驚きに固まる。
「夢の中でもっと何か、決定的なものを、見ていたのでは――」
「カヴァリエリ殿」
そこでまた、レアンドロ・ぺルラが遮った。
「すまないが、妻には休息が必要だ。本人にはそうとわかっていなくても」
その言葉で主人の意向を汲んだ使用人が、三人を部屋の外へと促した。
来た時同様にフェリータを魔術の瓶の中に封じこめようとしたロレンツィオに、フランチェスカが「は? あなたはお姉様を虫か何かだと?」と敵意の溢れる目を向けたので、二人はぺルラ家のゴンドラで屋敷へと帰った。
「ロレンツィオ、さっきなんであんなことを、ママに聞きましたの?」
ずっと険しい顔で向かいに座り、黙り込んでいる男に尋ねると、ロレンツィオは目を合わせないまま何か言いかけ、――しかし無言のまま閉じて、それからすぐにまったく別の形に口を開いた。
逡巡した結果、言葉を選び直したかのように。
「一応確認しただけだ。用心しろ、相手はあんたのパパの守りを突破できる魔術師の可能性が出てきた」
「そんなの、宮廷付きくらいでは」
「レリカリオが手元に戻るまで、屋敷を出るのは控えろ。もとから休暇じゃなくて、謹慎を言い渡されてるんだからな」
強く言いつけられて反発心が沸いたが、「親を心配させるな」と言われると、頷くしかなかった。
「じゃあ、もうひとつ聞くけど」
仏頂面のままだったが、今度は青い瞳だけはフェリータの方に向いた。
「なんで今夜に限って寝る場所の変更を?」
「……母の趣味をお気に召してくれて何より。明日は戻すよ」
「だから客間への未練じゃないったら!」
***
朝、ロレンツィオが屋敷を出ていくのを、フェリータは呼び止めた。
「なんだ」
眉を上げて言葉を待つ家主と固唾を飲んで見守る使用人たちの視線を受けながら、フェリータは低い声を繰り出した。
「気をつけなさいね。相手がパパより強いなら、きっとあなただって勝てないんですからね」
「……ご心配どうも。昨夜俺が解呪したのを見てたとは思えない言葉が、身に染みるね」
「嫌な男。本気で言ってるのに」
フェリータがむっとしながら言うのを、ロレンツィオは「はいはい」と受け流しながら屋敷を出た。使用人たちの「行ってらっしゃいませ!」「お帰りをお待ちしております!」が、いつもより大きく、何か手本でも見せようとするかのように響いた。
「……勝てませんわよ、あなたじゃ」
閉まった扉に背を向けて、フェリータは階段を上がった。
ついて来ようとした女中を廊下に残し、ひとり主寝室に戻ると、細く、長く息を吐いた。
そして、朝日が差し込む窓辺を見やる。
『おはよう。レリカリオが直ったから、今日取りに来て』
窓に浮かびあがった赤い文字を確認するために。
『旦那さんには、内緒でね』
近づき、震える手で擦るように触ると、文字は結露のように流れ落ち、蒸発するように消えた。
鷲の羽を残して。




