43 揺れる今、揺さぶられる過去
「……それだけ好戦的になれるなら、あんまり心配しなくてよさそうだな」
はたき落とされた手を一瞥して、ロレンツィオが口の端を上げた。もうすっかりいつもの顔である。
なんだ、やっぱりそうくるのか。ならばとフェリータも髪をかきあげ、おなじみのせせら笑う表情を引っ張り出す。
「あらあら、なんだか残念そう。無事で悪うございましたこと」
「無事じゃなかったらそのときは、親に絶縁状残してレオナルド殿に決闘申し込んでた」
「は……」
よく知った表情から出てきた予想外の言葉がうまく接続できなくて、フェリータは固まった。
『彼はきっとあなたのために怒り、心を痛めるでしょうね』
いや、ヴァレンティノは親切だが、言っていることは鵜呑みにできない人だ。
「………………まーあぁ白々しい。わたくし、魔術師棟であなたに串刺しにされかけたのを、まだ忘れていませんわよ」
「あのとき先に仕掛けてきたのはそっちだったし、うちの敵で、リカルドの女だった」
「あらなぁに。今は誰の女だとお思いで……」
――だ、誰の女だと思っているのだ!! まさか自分の女だとでも言うつもりか!?
黙り込んだフェリータは、かきあげたピンク色の髪を肩より前に持ってきて、火照り始めた頬を隠した。
なんなのだこいつ。昨日殺されかけたのに、よくそんなことが恥ずかしげもなく言える。
束の間、時間が無意味に過ぎていったが、至近距離でつむじを見ていただろう男がそれ以上追求してくることはなかった。
すたすたと離れていく大きな背に、知らず息が漏れる。
「……ところで今日、リカルドから何か連絡あったか」
しかし元いた椅子へ座る際、投げかけられた問いに、油断していた心臓が別の意味でどきりとした。
「別に、何も?」
嘘はついていないのに、妙に落ち着かなかった。
ちょうど、ヴァレンティノから話を聞いたばかりだったからに違いない。
「そうか」
「何かありましたの?」
「……いや」
ロレンツィオは質問の意図を明かさないまま、考え込む姿勢に入った。それが一層、フェリータの心をざわつかせた。
会議内容の伝達はアロンソが担っているのに、なぜリカルドが連絡をしてくると思ったのだろう。
疑問は浮かんだが、聞き返すのをノックの音が遮った。
顔を出した執事が、フェリータに申し訳無さそうな、様子を窺うような表情で来客の到着を告げる。
いつの間にか、客人との約束の時間が来ていた。
「お通しして」とフェリータが指示する横で、ロレンツィオが緩んだタイを締め直すしぐさと共に立ち上がる。
「出ないほうがいいのでなくて? 叔母様はカヴァリエリ嫌いが激しいから、あなたがいるはずない時間をわざわざ指定なさったのよ」
「俺のいる屋敷で俺の悪口で盛り上がらせてたまるか。あとフェリータ」
「なによ」
「今夜は主寝室で寝ろ」
廊下に向かいかけていたフェリータの足が止まった。
「な、な、なに、なぜ」
「なんでも」
それきり、ロレンツィオはさっさとサロンから出ていってしまった。
残されたフェリータは、さっきとは別の意味で、そしてある意味、比べ物にならない激しさで心臓がどっきどっきと高鳴るのを感じずにはいられなかった。
確かに、そのことは朝、気になってはいたが。
このタイミングで? なんで? バレてた?
おそらく、主人についていった執事も混乱していたのだろう。ガンッという痛そうな音と「どうしたパオロ」と怪訝そうなロレンツィオの声が届いた。
***
「本当になんなんですの!?」
夜の静寂に、フェリータの叫びと扉に体当たりする音が響いた。
その音の出どころを、部屋の中で煙草をふかしていた男は下がり気味の目尻をすがめて「なんだよ急に」と見やる。
「なんだはわたくしのセリフですから! なんであなたがこっちで寝る支度してるのっ、わけがわからないのだけれど!?」
青ざめる女中を背に寝間着姿でがなり立てるフェリータから目を逸らし、ロレンツィオは実に面倒くさそうに、夜の庭に向かって煙を吐いた。
フェリータが使っていた客間の窓辺で。
「なんでも何も、俺がこっちで寝るからあんたを主寝室に動かしただけだが。気に入ってたなら明日は返すから、今夜はそっちで我慢しろ」
「客間に未練があるわけないでしょう!」
「……ああ、一緒に寝るつもりだったのか」
「そんなわけっ……!」
あった。というか、そういう宣言なのだと思っていた。おかげで叔母への対応中も、夕食中も、緊張しきりだった。湯浴み中なんてぬるま湯の中で色々考え込みすぎてのぼせかけた。
なのに、初夜以来入る広い寝室には、待てど暮らせど誰も来ない。
緊張が戸惑いに、そして苛立ちに変わり果てたところで女中を呼んで、そしてこの客間まですっ飛んできたのだ。
――なんて、どう言えばいいのだ。まるで期待していたようじゃないか。
こうなると、いつも寝る前はつけないネロリの香水を今日に限ってつけたのも、なにか誤解されそうな気がする。寝室で、相手がなにか失礼なことを言ったときにうっかり殺さないようにするためなのに。
こみ上げる怒りを何一つ言語化できないフェリータは、ただただ拳を握って震え、相手の顔を睨み上げた。歩み寄ってきたロレンツィオの、実にわざとらしい困り笑顔をだ。
「盛大に期待させたところ悪いが、今夜はまったくその気になれないんだよ奥様。なにせ明日も早くからここを出て、今日残した分の仕事を片付けないといけないからな。知らないかもしれないが、人手不足なもので」
「……お、おまっ……おのれ!」
ため息交じりに茶化した上、またフェリータの出仕停止の件を揶揄してきた。
抗議しようとしたフェリータだったが、肩を押されて部屋の外へ追いやられ、「おやすみ、いい夢を」と目の前で扉を閉められては、どうしようもない。
「……ええ残念よ、今日があなたの命日になるところでしたのに、命拾いしましたわねロレンツィオ・カヴァリエリ!」
決闘者さながらの捨て台詞を残して、足音荒く主寝室へと戻ったフェリータは、勢いでサイドテーブルの酒瓶を一本手に取った。
「あーよかった! 昨日殺し合いして今日死にかけた身で、あの男と同衾するはめにならなくて本当によかった!」
とぷとぷと、グラスに注いで一気に呷る。喉と胃の腑を焼く感触で、ようやくひと心地ついた気がした。
――こんなことで、自分が本当にこの屋敷の女主人になる日が来るのだろうか。
リカルドといるときに、こんな不貞腐れた気持ちになったことなどないのに。
リカルドといるときは、もっと穏やかでいられた。わがままだと身内に言われはしたが、リカルドの前ではずいぶん素直な自分でいられた。
きっと、リカルドとなら。
「……あの人、わたくしのこと、どんなふうに好きだったのかしら」
呟きが、酒気とともに部屋に溶けて消えていく。なんだかどっと疲れて、フェリータは気まずげな顔の女中を外に出して広い寝台に横たわった。
リカルドとなら、こんなに疲労感を覚えることもないに違いない。
ずっと一緒にいたのだから。ずっと、仲が良かったのだから。
今までずっと、一番大切な人だったのだから。
(あのときだって、そう)
リカルドと最初に会った日のことを、実はフェリータはよく覚えていない。
おそらく、本当に赤子の頃だったのだ。
フェリータが美しい幼馴染みとの日々をしっかり記憶し始めたのは、七歳ぐらいの頃からだ。
十二年前の、あの頃からだ。
『どうした、フェリータ』
それは、エルロマーニ公爵家が所有するいくつもの別邸の一つだった。喧騒から離れた、夏の別荘だった。
見上げた先の、大人たちの誰かが、立ち止まった自分にそう言った。父だったかもしれないし、当時宮廷付きの現役だった公爵かもしれない。
ただ、なぜそう聞かれたのかわからなかったことを覚えている。
どうしたと聞きたいのはこちらだったことを。
『それ』
フェリータは困惑しながら指をさした。世話係の女中がたしなめるより早く、言わなければならないと焦っていた。
『それ、何?』
眉をひそめた大人たちの間に立つリカルドのようなものに、そう言った。
微笑んでいた緑の目が、ショックを受けたようにじわじわと見開いていくのにゾッとした。
『フェリータ様、何を言っているのです』と、それを抱きしめる公爵夫人が、公爵家の長男が、長女が、フェリータをいぶかしそうに見てくるのに、泣きたい気持ちになった。
『なんでみんな、それをリカルドみたいに扱うの?』
動いてくれたのは、当時宮廷付きから離れて久しかった祖父だった。
パンッと老魔術師が手を打ち鳴らす音がサロンに響いた次の瞬間、『リカルドに似た何かだったもの』が、球体関節の木製人形に変わったのだ。
夫人の手が離れ、あちこちで悲鳴が上がった。いつも穏やかな公爵の慟哭と、過去にないほど切羽詰まった父の声が飛び交った。
怯えるフェリータを抱きしめて部屋から出したのは祖父だった。母は、この頃にはもう公爵家との集まりには不参加だったから。
誰かの声で『コッペリウス』という単語が聞こえた。
暗がりに向かう祖父の肩越しに見えたのは、自立する人形を大人たちが遠巻きにしていた光景。
正面を向いて動かなくなった人形の虚ろな目が、いつまでもこちらを向いていた。
騒音とサロンが遠ざかる。祖父の腕の中にいたのに、フェリータはいつの間にかひとりきりで佇んで、辺りが暗くなる中に取り残されていた。
やがて一発の銃声を最後に、視界は完全に暗闇に飲まれ、何も聞こえなくなった。
『フェリータ』
闇と静寂の中、どこからかリカルドの声がした。
フェリータは安堵した。それはよく知った、大好きな声だった。今より高くて、儚い、幼い頃の声。
『どうしてわかったの?』
フェリータは得意になって少し笑った。いつも自分が彼に聞く側なのに、彼に聞かれていることが嬉しかった。
『一番大切な人ですもの』
見つめる先がぼんやりと明るくなる。
そこにいた木の人形はもう消えていた。代わりに、緑の目の幼馴染みが、いつもどおりの微笑みとともに立ってこちらを見つめていた。
――いつもどおりの、微笑み?
「フェリータ!!」
「んえっ!? あっ、えっ、やだなに!?」
呼びかける声でがばりと起きて、フェリータは自分が明かりをつけたままうたた寝していたことに気が付いた。
見れば、寝台に身を乗り出して名を呼んでいたのは、客間にいるはずのロレンツィオだった。
「な、なにしてますの!? あなたが追いやったくせに、なにを今さら、」
「ジーナが呪詛された」
混乱と恥ずかしさで泡を食ったように喚き立てたフェリータに、ロレンツィオは険しい顔付きを崩さず言った。
あんまりにも自分と相手の声音が違いすぎて、フェリータは一瞬、誰のことか、なんのことなのかすぐにはわからなかった。
「……え?」
「支度しろ、あんたの母親がペルラ邸で呪詛された!!」
言い換えた言葉が終わるが早いか、フェリータは寝間着のまま男を押しのけて寝室を飛び出していた。




