31 「殿下の馬が逃げた!!」「捕まえろー!!」
時は数刻さかのぼる。
***
「王宮にお戻りください、殿下」
ロレンツィオの険のある声音に、シートの上に座っていたオルテンシアは鬱陶しそうに顔を上げた。
その頭上には、灼けつくような日差しを遮るパラソルが広がっている。
「嫌よ、せっかく来たのに。昨夜はあなたの要件に付き合ってあげたのだから、昼はあたくしに従いなさい」
「……ご自身がどのような目にあわれたのか、もうお忘れに?」
「まさか。でもだから何? 死なせないように頑張るのは護衛の仕事ではなくて」
ふざけてんじゃねぇぞと言ってやりたいのをこらえたロレンツィオの精いっぱいの進言も、オルテンシアにはろくに効かない。
長年の腐れ縁をもってしても何一つ対処法のわからない王女の反応に、ロレンツィオはパンドラからの『会い次第連れ帰ってきなさい』という命令こそ忘れることにした。
命じた側も、どうせ遂行できると期待していない。
(この女と比べると、いつものぺルラ父娘とのやりとりなんて大したことないんだよな)
ただ、むなしくなっただけで。
「……」
無意識に、昨夜――早朝、最後に見た“彼女”の様子が思い起こされた。
『……おやすみなさい』
女中頭に先導されて客間に向かう彼女と、進む方向が分かれる寸前に聞かされた、こちらを窺うような、緊張のにじみ出た言葉。
わたくし、本当にこっちで寝ていいのね?の顔。
よくはないよ。
よくはないけど。
ちょっと安心してるのがわかるから、『こっちで寝ろ』とは言えねぇよ。
「疲れた顔ねロレンツィオ。昨日、苺ちゃんともどもちゃんと寝られた?」
率直な問いかけに、王女の隣に座っていた令嬢の扇が動きを止めた。男は気が付いていないふりをして「寝てないから昨日会ったんだってわかっておいででしょう」とできる限り感情を抑えて返した。
「ほらごらん。夜のうちに大きな騒ぎにしてしまったせいで、夜通しお兄様と過ごすことになってるじゃない。あたくしの言った通り、朝になるまで待っていれば良かったのよ」
眼下からの得意げな声に、ぐっと奥歯を噛み締め、拳に力を込めた。
恐ろしいことに、これが昨夜の行動の理由だと言うのだ。しかもおそらく、本人はロレンツィオとフェリータのためにやったつもりでいるのだ。
「どちらにしろ妻は家に帰れていなかったのですが」
「え、あなた家じゃないとできないとか言うつもり?」
「……さっきから何を読んでいるんですか?」
まともに抗議する気も失せたロレンツィオは、オルテンシアがページをめくる分厚い書物に意識を移した。
「『禁忌術大綱』。フィリパに持って来させたのだけど、さすが教皇と結びつきのある家。古いものも遠くのものも、神に対して冒涜的な禁書も、なんでもあるわね」
そういって、オルテンシアは隣に座る貴族令嬢に小さく、満足げな笑みを向けた。
黒い髪と薄青の目。自分同様オルテンシアに振り回されている娘の曖昧なはにかみに、ロレンツィオは呆れ、同情した。
自分ほどではないが、彼女もそれなりに古参だ。
「言ってくだされば侯爵邸までお供しましたのに」
「フィリパはいいけど、その兄は嫌いなの。父親なんて論外」
だからって、宮殿から離れたこんな暑い屋外でなぜわざわざ。ロレンツィオは白い砂浜の向こうの、青い海に思いを馳せた。
王家の私有地に打ち寄せる波を、大きな黒い馬の蹄が裂いていく。
白いしぶきを纏って駆け抜けていく勇姿に見惚れたそのすぐ後に、きらびやかな出で立ちの男たちが馬具を手に惨憺たる様子で追いすがっていく。途端にロレンツィオの胸の内は苛立ちと諦念に塗りつぶされた。
この女、また何かしでかして、取り巻きたちに押しつけたらしい。
「十人委員会から呼び出しは来た?」
王女の愛馬捕獲に参戦してやろうとロレンツィオが歩きかけたところで、オルテンシアが問いかけた。書物から目も上げず。
「……いいえ」
フィリパの存在を一瞬気にしたが、彼女の父親が高位貴族であることを考えればすでに知っている可能性が高い。ロレンツィオは人払いを待たずに返事をした。
「そう。でももしかしたら、呼び出されるのはぺルラ伯爵とその娘のほうかもしれないわねぇ」
ロレンツィオが眉を寄せ、オルテンシアの目の前の砂地に膝をつける。
「みてごらんなさい、この記録」
面白そうに言って、オルテンシアは開いたページをロレンツィオの方に向けた。
数秒の静寂。伏せた視線は紙の上。
「……だからなんだ」
「あら、あなた気が付いてないの? あたくしだって昨夜、違和感を覚えたのに」
その言葉にロレンツィオが返事をする前に、オルテンシアは歌うように言葉をつづった。
「違和感と言えば一年前。たかだか十回ちょっと変化術を使っただけで根負けだなんて、おかしいと思っていたのだけれど、――本当はそのとき、わかってしまったのでしょ?」
ひそやかな、低い声。
「再戦はあなたが勝ったそうね。あの子は魔力負けしたんですって? あのプライドの高い、厳重な温室で育てられたお嬢ちゃまが」
女の唇が弧を描く。
「……ぺルラ伯爵、娘が夜のうちにあたくしを助けたって聞いて、どんな反応してた?」
波の音と、カモメの鳴き声が沈黙に寄り添う。
それから「殿下、捕まえましたーーーっ!」と息もたえだえに叫ぶ声も。
***
嫁ぎ先を抜け出し、フェリータは実家まで戻ってくると、そこで思わぬ人物と遭遇した。
「ママ! なぜこちらに!?」
玄関ホールで声を上げたフェリータに、伯爵夫人ジーナは目を丸くしたあと、嬉しそうに細めた。
「なぜってほどもないわよ。ただフェリータの結婚式見たら、私もなんか家族と一緒にいよっかなーって気分になって」
道中思い悩んでいたフェリータは、そのからっとした明るさにほっと息をついていそいそと近寄った。
ジーナもそれを嬉しそうに迎える。――のだが。
「色々大変だったけど、いい式だったじゃない」
母親ののんきな言葉が、それまで不安と猜疑心に満ちていた娘の心に波紋を生んだ。
いい式?
「そんなわけありませんわ!!」
フェリータは威嚇する獣のように毛を逆立てた。
窓がみし、と揺れる。
使用人たちの顔色が変わったのを見て、ジーナが「まあ、積もるお話がありそうだねぇ」と話をつなぎながらフェリータを近くの応接間に誘導した。
ぱたん、と扉を閉じた部屋では、最初から調度品が震えていた。
「相手は、……相手はロレンツィオよ! あのロレンツィオ!! おじい様を裏切り、パパに歯向かい、わたくしの結婚を台無しにしたカヴァリエリ家の!!」
「いいじゃない」
「いいわけな」
「フェリータは嫌なのかもしれないけど、あんたがむちゃくちゃ元気そうでママは嬉しい」
心の底からの笑顔を向けられ、フェリータは返事に窮した。
揺れの収まった長椅子に、ジーナは娘を座らせる。
「……ママは、リカルドのことあんまり好きじゃなかったですものね」
「ああ、あの子……別に、嫌いじゃないよ? ただ、フェリータと結婚させるのはどうかな~ってずっと思ってただけで」
歯切れの悪い言い方だった。
フェリータはそれそのものには噛みつかず、唇を尖らせて俯いた。




