18 主寝室
フェリータはロレンツィオに腕を取られて宴会場を出た後、引きずられるままに階段を上って廊下を進んだ。
何も言わず、抗う様子も一切見せず、屋敷の奥まった一室へと辿り着く。
「しばらく誰も近づくな」
使用人に向けた低い声ののち、扉が閉まり、鍵の回る音までしても、フェリータは取られた腕を取り返すこともなくおとなしく男の隣に立ち尽くし。
やがて部屋の奥の大きな寝台へと放り出されて腕を解放されると、それこそ糸の切れた人形のようにシーツの上に座り込んだ。
連行された先は、カヴァリエリ邸の主寝室だった。
「俺が勝った場合は、従順な妻になる、だったか」
ぎし、と寝台が軋んだ。先ほどとは比べ物にならない重みでマットレスが沈み、シーツが引っ張られる。
放心したままのフェリータの白い背中が、声を受けてびくりと震えた。それが、女が本当に人形に変わったわけではないことを示していた。
男は躊躇なく薄桃を帯びた金髪に触れ、結い上げていたひもやピンを解く。
宝石のついた髪飾りが絨毯の床に落ちる音がかすかに響いた。
「……なるほど、女にとって命以上のものを賭けてくれたわけだ」
カタカタと小刻みに震え始めた背中を髪が覆い、それを男の手が退ける。短い爪の指先が、背中の中央で二枚の布を引き合わせているリボンにかかる。ドレスを体に添わせるためにきつく編み上げられていたそれは、端を持って引っ張ればあっけなく結び目が解けた。
それでいきなり服が脱げるはずもないが、女にとって何かの引き金になったのは確実だった。
「……う」
宴会場を出て初めて、フェリータが声を発した。と同時に、猫背だった背中がさらに丸まり、上体が前方へと倒れ込んでいく。
「うっ……うぅ、……ふっ、うぅ……」
悲痛な声を漏らし、寝台に小さく丸まって泣き始めた新妻を、しかし夫は醒めた目で見つめていた。
「今さら泣いて許されると思ってんのか」
薄桃色の頭がふるふると横に揺れる。動きにつられて髪が背中から落ち、その下があらわになる。前かがみになったせいで背中の布が若干離れ、わずかに肌と下着の布が見えていた。
それを見た男の青い目の奥に暗い炎が一瞬揺れて、すぐに消えた。
「……ぅされないけど……」
再度リボンを緩めようと伸びていた、男の手が止まった。
フェリータはしゃくりあげ、絶え間なく嗚咽を漏らしながら、そのはざまから切れ切れに話し始めた。
「ゆ、許されないけど、でも、こ、……こんなのひどい」
ロレンツィオの表情が凍り付いた。ほとんど唇を動かさず、息だけで「ひどい」と直前に聞かされた言葉を繰り返す。
言い訳する子どものように懸命に言葉を繰り出すフェリータは、そんなことにも気づかない。
「た、たしかに、わたくしが悪いけど、……運河に、飛び込んだのも、負けたのも、星の、けっと、に、あるまじき、恥だけど……」
くぐもった声が苦しげに吐き出される。
「でもだって、ほんとは、こうなるはずじゃ、なかったじゃない……」
フェリータの頭が一層沈み、シーツに着く。ドレスがしわになることなど頭の隅でも思いつかないかのように。
「だれも助けてくれないし、リ、リカルドは冷たいし、パパもママも、ひとごとで、フラ、チェスカには、絶縁されて……友達なんて、ほかにいないのに……」
そこで背中が大きく震え、フェリータはえずくようにしゃくりあげた。
ロレンツィオの手は固まったままだ。今度は、男がねじの止まったからくりのようだった。
「も、魔術しか……残って、なかったのに……」
シーツと体の間に挟み込んだ両手には、その割れた破片が握り込まれている。
ペルラ家の家宝のひとつ。次期当主に、優れた魔術師になることを誓って盟友から贈られた、金色の宝物。
――だったもの。
「こんな、こんなに全部、一気にとりあげてくなんてひどい、ひどいよぉ……」
そのまま、女のすすり泣く声だけが断続的に響いた。
一体、どれくらいそうしていたのか。
フェリータが顔を押し付けていたシーツがびっしょりと濡れ、逆に顔からはすべて出し尽くしてもう何も出そうにないという頃。
「体起こせ」
背後からの乾いた声に、フェリータはのそ、と顔をそちらに向けた。その拍子に、自分の背中に薄手のガウンが掛けられていることに気が付く。
振り返ると、上着を寝台の端に脱ぎ落したロレンツィオが、フェリータに体の側面を向けるように座っていた。
「それ着て、一旦起き上がれ。もうなんにもしないから」
横顔は相変わらず仏頂面で、いたわりも優しさも感じられない。
けれど心なしか、向けられた声音からは途方に暮れた印象を受け取った。
「ロレンツィオ……」
言われた言葉を反芻し、素直にガウンに腕を通した。少し袖が長かった。
そうしているうちに部屋の主が寝台から降りた。かすかに懐中時計の鎖の音をさせながらサイドテーブルへと近寄り、並んだ瓶のラベルを確認し始めた。
「喉渇いてないか。あいにくここは酒しか置いてないんだが、飲みやすいのなら……ああ貰い物のこれとか」
「ねぇ」
再度呼びかけると、視線だけが寝台に戻ってきた。礼儀も躾も知らない子どものように寝台に座り込んだまま、フェリータは泣きはらして若干ぼんやりとした目でそれを受け止め、浮かんだ疑問を口にした。
「なんにもしないって、あなたこの期に及んでまだなにかする気でしたの? ……新郎って忙しいのね」
「………………グラッパでいいな? ストレートで」
投げやりに告げられたのは父伯爵がやけ酒のときに飲む強い蒸留酒だった。異論はないながら、フェリータは改めて押し寄せてきた寂しさに「パパ……」とまた涙ぐんだ。
「……この流れでなんでパパって言うかね」
呻きながら栓を抜いて、ロレンツィオは普段より多めにグラスに注いだ。
***
いかに箱入りでも、次期家長だったフェリータが新婚初夜に夫婦が何をするかを知らないわけはない。
ないが、ついさっき己の身に起きた予想外の出来事で頭がいっぱいで、たった今自分がどういう危機にあったのか、男が何を諦めたのかに考えを巡らせる余裕などまるでなかった。
それどころか、ホームシックが落ち着き、喉が灼けるような酒の味にも慣れたころにフェリータが口にしたのは「……どうしましょう、レリカリオが壊れてしまったわ」という小さな呟きだった。
「直せるだろ」
独り言のようなそれに、窓近くの肘掛椅子で煙草をふかしていたロレンツィオが簡潔に答えた。
「容器部分が割れても“心臓”が無事なら、エルロマーニ家で直せんだろ。明日もってけ」
どこか投げやりな声音だったが、俯き、手の中の“魔女の心臓”のかけらを見つめるフェリータは気に留めなかった。――何せフェリータからすれば、相手は初めて会ったときから今日までずっと不機嫌な男なので、今さら彼が何に苛立っているのかなど些末な問題だった。
「安易なことを言うのね。それが嫌だから、悩んでいるというのに」
「は?」
「リカルドのところに持っていきたくありませんの。公爵も、ご兄姉方も。……しばらく、顔も見たくない」
リカルドのことがわからない。こんなにも彼に心を乱されるのは初めてだ。
だがそんな乙女心の機微を汲んでくれる人間は、今ここに一人もいない。
「助けてもらったくせに?」
フェリータの頬に朱が走った。さっきの術比べの結末のことだとすぐに分かった。
けれど一緒に“負けた”悔しさもぶり返してきて、また鼻の奥が熱くなる。自信に基づく大口は叩けても、『助けなんていらなかった』と堂々と嘘を吐くことはできなかった。
ぐっと声をこらえて俯いたが、男にはバレバレだったらしい。
「……泣けば、俺が何もかも譲歩するとでも?」
「そんなつもりじゃっ、……す、少しは気を使ったらどうなの、心変わりの理由もわからないまま捨てられたのに!」
怒っている、というよりは恨みがましげな男に、フェリータは躍起になって言い返すが、どうにも声が震えていつもの調子が出なかった。




