3-22 眠る刃は、鈍らない
夫と死別し、静かな生活を送る女。六万八千代。
友人が詐欺に遭い、老後資金を奪われたとき、彼女の別の顔が目を覚ます。
かつて八千代は国家レベルの女性要人を守ってきた専属SPだった。
嘘を見抜き、心理を読み、情報を制する――その技術は今も衰えていない。
過去に救った青年。元良冷焔を潜入させ、詐欺グループの内側から金の流れを掌握する。
狙いは復讐ではない。奪われた金を正しい持ち主へ返すこと。
穏やかな微笑みの裏で張り巡らされる罠。
奪う側が奪われる。逆転の回収が始まる。
――あなたはこの女の正体に気付けるか?
湯呑の湯気は細くなり、冷蔵庫のモーター音だけがかすかに響いていた。
女が膝に載せたノートパソコンで家計簿の数字を追っていると、カーソルが急に重くなる。
「……ん?」
ページを切り替えようとした瞬間、画面中央に真っ赤な警告が弾けた。
『警告:オンライン口座が不正アクセスの危険にさらされています。
このままでは【口座凍結】の可能性があります』
下には青いボタンがひとつ。
『今すぐサポートに連絡する』
女は唇を噛み、小さく息を吐いてからボタンをクリックした。
チャットボックスと電話番号が表示される。
『お客様の大切な資産をお守りするため、専任オペレーターが対応いたします』
女は番号をスマホに打ち込んだ。
呼び出し音が二度鳴ったところで、落ち着いた声が出る。
「オンラインセキュリティサポートセンター、加納でございます」
「あの……パソコンに、口座が凍結されるって……」
男は遮らず相槌を打ち、柔らかい声を返した。
「ご不安ですよね。今から一緒に確認しましょう。まず、画面共有ソフトを入れてもよろしいでしょうか」
女は言われるがまま、アドレスを打ち込み、「許可」を押していく。
「はい、こちらで画面が見えました。では、オンライン口座のページを開いてください」
男の声がわずかに急く。
「ログインIDとパスワードをそのままご入力ください。不正アクセスを確認します」
女は一瞬だけ躊躇し、それからキーボードに指を置いた。
ID、パスワード、ワンタイムパスワード。
「……やはり、不審なアクセスが出ていますね」
男の声が低くなり、女の鼓動が強くなる。
「このままだと本当に凍結されてしまいます。今から安全な保護口座にいったん資金を移しましょう。画面の『セキュリティ保護専用口座』に、残高の全額を入力してください」
「全額?」
「はい。元の口座では守り切れませんから」
沈黙の後、男の声がそっと押し出した。
「奥様。今決断されれば、老後資金は守れます。ご一緒に、解決しましょう」
女はマウスを握り直し、数字を打ち込み、エンターキーを押した。
「はい、確かにお預かりしました。これで一旦、安全です。結果は追ってご連絡しますので、今日はもうお休みください」
通話はあっさり切れた。
画面にはオンライン口座のトップページが戻る。
残高――ゼロ。
リロードしても数字は現れない。
女はノートパソコンを閉じた。湯呑のお茶は冷めきっている。
その口元だけが、静かに、わずかに吊り上がっていた。
◇◆◇
「よっしゃあああ!」
若い男の叫びが狭い部屋に弾けた。
六畳ほどの部屋に安物のデスクが三つ、大型モニターが乱雑に並ぶ。床にはコードと段ボールと空き缶。
「見たかよ今の残高! 老後資金まるっと全部だぞ!」
モニターには『保護専用口座』の管理画面と大きな数字。
「ババアはやっぱチョロいな。凍結って言っときゃ勝手にビビる」
「いや、オペレーターのトークが良かったんだろ。なあ、加納さんよ」
ソファの男がニヤつきながら視線を送る。
椅子にもたれている青年が気まずそうに頭をかいた。
「台本通り話しただけだけど」
元良冷焔。黒いフーディにジーンズ。どこにでもいる若者の格好だが、その目だけが冷静だ。
「初仕事でこれは上出来だろ。なあ、リーダー?」
副リーダーの男が振り向き、親指を立てた。
「グループ入りして即これだ。お前、筋がいいよ」
「……はは」
曖昧に笑う冷焔の背後から缶ビールが差し出される。
「ほら新入り、祝杯だ」
「あ、ありがとうございます」
プルタブの音が弾ける。
缶を口元に運びながら、冷焔は目だけを伏せた。
◇◆◇
文化センター三階、多目的ルーム。
テーブルにはフェルトと糸、針山が並ぶ。
「六万さん、それ、とっても可愛い色合わせですね」
「まあ、そう? この歳になると地味な色ばかり選んじゃうから、思い切って明るいのを混ぜてみたのよ」
六万八千代は、針を止めて微笑んだ。
柔らかなカーディガンに落ち着いたスカーフ。上品な奥様に見える。
「……あの、八千代さん」
斜め向かいから、おずおずと声がかかる。
古保瑠都子。丸縁メガネの奥の目元が赤い。
「どうしたの、瑠都子さん」
「ちょっと……いいかしら」
八千代はにこりと笑い、針を置いた。
「ええ、もちろん。廊下に行きましょうか」
二人は教室を出る。
ソファに腰掛けると、瑠都子はハンカチを握りしめ、しばらく口を開けない。
「瑠都子さん?」
「……ごめんなさいね、こんなところで。あの……」
やがて、言葉がこぼれた。
「ネットの……銀行の口座が、全部、なくなってしまったの。老後のお金」
震える声。
八千代は瞬きひとつせず聞く。
「なくなった、というのは?」
「パソコンに変な表示が出て……凍結されるとか、危ないからサポートに連絡しろとか……。言われるままに、あれこれ押していたら……」
不審なポップアップ。偽サポート。画面共有。保護口座への全額移動。
典型的なフィッシング詐欺だ。
「ごめんなさい、八千代さん……。私、こんなバカなことを……」
瑠都子の目に涙が溜まる。
八千代はそっと肩に手を置いた。
「謝る必要なんて、どこにもないわ」
声は柔らかい。だが瞳の奥には別の色が灯る。
「悪いのは、あなたを騙した人たちよ」
「でも……お金が……。あれがないと、私……」
「お金なら――」
一瞬、声のトーンが変わる。
「取り返せばいいだけの話よ」
瑠都子が顔を上げる。
八千代は微笑んでいる。穏やかに、けれどさっきまでとは違う顔で。
◇◆◇
河川敷の駐車場。夜の街灯がぽつんと浮かび、川風が春の冷たさを運んでくる。
街灯の下に細身の青年が立っていた。冷焔だ。
「待たせたかしら」
振り返ると、昼間と変わらぬ姿の八千代が立っていた。
「いえ。……今日の仕事、お疲れ様でした」
「そっちこそ。初めてのオペレーターなのに、よくやったわね」
二人は並んで川を見下ろす。
「パケットキャプチャは上手く機能したようね」
「ええ。口座も名義も、詐欺グループの保護口座も」
「じゃあ、後は――お金に歩いて戻ってきてもらうだけね」
さらりと言うその口調に、冷焔は苦笑した。
「相変わらず、やり方がえげつないですよ。八千代さん」
「正当な持ち主のところに戻すだけよ。瑠都子さんのお金は、瑠都子さんのもの」
その横顔に一瞬だけ怒気が差す。
「しかし……本当に大丈夫なんですか。あんな風に、自分のパソコンを囮に使って」
「平気よ。あれにはダミーデータしか入っていないわ。それに――」
八千代は川面に映る街灯の光を見つめながら、静かに続けた。
「相手を知らずに護れるほど、この世界は甘くないの。あなたも昔、身をもって知ったでしょう?」
「……まあ」
冷焔の脳裏にかつての自分がよぎる。
闇バイトの募集掲示板。簡単に稼げるという甘い言葉。
そこに手を伸ばしかけたとき、真正面からその手を叩き落としたのは――この女だった。
「それにね、冷焔くん」
「はい」
「おばさんがアジトに乗り込んでいくのは、流石に説得力に欠けるでしょう?」
冗談めかして笑う八千代に、冷焔は肩をすくめた。
「見た目だけなら、完全に上品な奥様ですからね」
「だけは余計よ」
二人の間に、わずかな笑いが生まれる。
しかしすぐに八千代は真顔に戻った。
「トクリュウの空気はどう?」
「そうですね。今の所、俺を疑ってる様子はないです」
「それはよかったわ。じゃあ、もう一息ね」
「奴ら、結構、手慣れてますよ。暗号資産へのルートも、名義飛ばしも、隙がない」
「上手く隠しているだけで、皆無ってわけじゃないでしょう?」
八千代はそう言って、バッグから小さなタブレットを取り出した。
画面には銀行間送金の矢印や複数の口座、ウォレットアドレスが書かれた図がぎっしりと並んでいる。
「ここと、ここ。匿名だと思い込んでいる部分も実際にはそうじゃない」
「……取引所のKYCラインですか」
「ええ。チェックをすり抜けられても、ログまでは消せない。だから、そこに細工をしておいたの」
彼の耳の中で、先程の祝杯の喧騒がまだ残響のように鳴っている。
(……悪いな。お前らの動き、八千代さんから見れば、足跡を残し過ぎなんだよ)
「明日の朝には、何かしら動きがあるはずよ」
冷焔は肩をすくめ、笑みを浮かべる。
その笑みの裏にわずかな緊張を隠しながら。
◇◆◇
翌日。カップ麺の匂いとタバコの煙の中、最初に異変に気づいたのは副リーダーの男だった。
「……おい」
彼はマウスを握ったまま固まっている。
「なんだよ、どうした」
「いや、残高が……」
管理画面には昨日の入金履歴が残っている。
しかし、そのすぐ下――未明の時間帯に見慣れない出金履歴がずらりと並んでいた。
「は? 誰が動かしたんだよ、これ」
「俺じゃねえよ! 口座もトークンも、セーフのはずだろ!」
「取引所のログもねえぞ。どこに消えたんだよ!」
声が荒くなり、キーボードとマウスの音が跳ねる。
画面に残る数字はただひとつ。
残高――ゼロ。
焦りと怒りと恐怖が、狭い部屋の空気をじわじわと満たしていく。





