表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/27

3-22 眠る刃は、鈍らない

 夫と死別し、静かな生活を送る女。六万八千代(むつま・やちよ)

 友人が詐欺に遭い、老後資金を奪われたとき、彼女の別の顔が目を覚ます。


 かつて八千代は国家レベルの女性要人を守ってきた専属SPだった。

 嘘を見抜き、心理を読み、情報を制する――その技術は今も衰えていない。

 過去に救った青年。元良冷焔(もとら・れいえん)を潜入させ、詐欺グループの内側から金の流れを掌握する。


 狙いは復讐ではない。奪われた金を正しい持ち主へ返すこと。

 穏やかな微笑みの裏で張り巡らされる罠。

 奪う側が奪われる。逆転の回収が始まる。


 ――あなたはこの女の正体に気付けるか?

 湯呑の湯気は細くなり、冷蔵庫のモーター音だけがかすかに響いていた。

 女が膝に載せたノートパソコンで家計簿の数字を追っていると、カーソルが急に重くなる。


「……ん?」


 ページを切り替えようとした瞬間、画面中央に真っ赤な警告が弾けた。


『警告:オンライン口座が不正アクセスの危険にさらされています。

 このままでは【口座凍結】の可能性があります』


 下には青いボタンがひとつ。


『今すぐサポートに連絡する』


 女は唇を噛み、小さく息を吐いてからボタンをクリックした。

 チャットボックスと電話番号が表示される。


『お客様の大切な資産をお守りするため、専任オペレーターが対応いたします』


 女は番号をスマホに打ち込んだ。

 呼び出し音が二度鳴ったところで、落ち着いた声が出る。


「オンラインセキュリティサポートセンター、加納でございます」

「あの……パソコンに、口座が凍結されるって……」


 男は遮らず相槌を打ち、柔らかい声を返した。


「ご不安ですよね。今から一緒に確認しましょう。まず、画面共有ソフトを入れてもよろしいでしょうか」


 女は言われるがまま、アドレスを打ち込み、「許可」を押していく。


「はい、こちらで画面が見えました。では、オンライン口座のページを開いてください」


 男の声がわずかに急く。


「ログインIDとパスワードをそのままご入力ください。不正アクセスを確認します」


 女は一瞬だけ躊躇し、それからキーボードに指を置いた。

 ID、パスワード、ワンタイムパスワード。


「……やはり、不審なアクセスが出ていますね」


 男の声が低くなり、女の鼓動が強くなる。


「このままだと本当に凍結されてしまいます。今から安全な保護口座にいったん資金を移しましょう。画面の『セキュリティ保護専用口座』に、残高の全額を入力してください」

「全額?」

「はい。元の口座では守り切れませんから」


 沈黙の後、男の声がそっと押し出した。


「奥様。今決断されれば、老後資金は守れます。ご一緒に、解決しましょう」


 女はマウスを握り直し、数字を打ち込み、エンターキーを押した。


「はい、確かにお預かりしました。これで一旦、安全です。結果は追ってご連絡しますので、今日はもうお休みください」


 通話はあっさり切れた。

 画面にはオンライン口座のトップページが戻る。


 残高――ゼロ。


 リロードしても数字は現れない。

 女はノートパソコンを閉じた。湯呑のお茶は冷めきっている。


 その口元だけが、静かに、わずかに吊り上がっていた。


 ◇◆◇


「よっしゃあああ!」


 若い男の叫びが狭い部屋に弾けた。

 六畳ほどの部屋に安物のデスクが三つ、大型モニターが乱雑に並ぶ。床にはコードと段ボールと空き缶。


「見たかよ今の残高! 老後資金まるっと全部だぞ!」


 モニターには『保護専用口座』の管理画面と大きな数字。


「ババアはやっぱチョロいな。凍結って言っときゃ勝手にビビる」

「いや、オペレーターのトークが良かったんだろ。なあ、加納さんよ」


 ソファの男がニヤつきながら視線を送る。

 椅子にもたれている青年が気まずそうに頭をかいた。


「台本通り話しただけだけど」


 元良冷焔(もとら・れいえん)。黒いフーディにジーンズ。どこにでもいる若者の格好だが、その目だけが冷静だ。


「初仕事でこれは上出来だろ。なあ、リーダー?」


 副リーダーの男が振り向き、親指を立てた。


「グループ入りして即これだ。お前、筋がいいよ」

「……はは」


 曖昧に笑う冷焔の背後から缶ビールが差し出される。


「ほら新入り、祝杯だ」

「あ、ありがとうございます」


 プルタブの音が弾ける。

 缶を口元に運びながら、冷焔は目だけを伏せた。


 ◇◆◇


 文化センター三階、多目的ルーム。

 テーブルにはフェルトと糸、針山が並ぶ。


六万(むつま)さん、それ、とっても可愛い色合わせですね」

「まあ、そう? この歳になると地味な色ばかり選んじゃうから、思い切って明るいのを混ぜてみたのよ」


 六万八千代(むつま・やちよ)は、針を止めて微笑んだ。

 柔らかなカーディガンに落ち着いたスカーフ。上品な奥様に見える。


「……あの、八千代さん」


 斜め向かいから、おずおずと声がかかる。

 古保瑠都子(こぼ・るつこ)。丸縁メガネの奥の目元が赤い。


「どうしたの、瑠都子さん」

「ちょっと……いいかしら」


 八千代はにこりと笑い、針を置いた。


「ええ、もちろん。廊下に行きましょうか」


 二人は教室を出る。

 ソファに腰掛けると、瑠都子はハンカチを握りしめ、しばらく口を開けない。


「瑠都子さん?」

「……ごめんなさいね、こんなところで。あの……」


 やがて、言葉がこぼれた。


「ネットの……銀行の口座が、全部、なくなってしまったの。老後のお金」


 震える声。

 八千代は瞬きひとつせず聞く。


「なくなった、というのは?」

「パソコンに変な表示が出て……凍結されるとか、危ないからサポートに連絡しろとか……。言われるままに、あれこれ押していたら……」


 不審なポップアップ。偽サポート。画面共有。保護口座への全額移動。

 典型的なフィッシング詐欺だ。


「ごめんなさい、八千代さん……。私、こんなバカなことを……」


 瑠都子の目に涙が溜まる。

 八千代はそっと肩に手を置いた。


「謝る必要なんて、どこにもないわ」


 声は柔らかい。だが瞳の奥には別の色が灯る。


「悪いのは、あなたを騙した人たちよ」

「でも……お金が……。あれがないと、私……」

「お金なら――」


 一瞬、声のトーンが変わる。


「取り返せばいいだけの話よ」


 瑠都子が顔を上げる。

 八千代は微笑んでいる。穏やかに、けれどさっきまでとは違う顔で。


 ◇◆◇


 河川敷の駐車場。夜の街灯がぽつんと浮かび、川風が春の冷たさを運んでくる。

 街灯の下に細身の青年が立っていた。冷焔だ。


「待たせたかしら」


 振り返ると、昼間と変わらぬ姿の八千代が立っていた。


「いえ。……今日の仕事、お疲れ様でした」

「そっちこそ。初めてのオペレーターなのに、よくやったわね」


 二人は並んで川を見下ろす。


「パケットキャプチャは上手く機能したようね」

「ええ。口座も名義も、詐欺グループの保護口座も」

「じゃあ、後は――お金に歩いて戻ってきてもらうだけね」


 さらりと言うその口調に、冷焔は苦笑した。


「相変わらず、やり方がえげつないですよ。八千代さん」

「正当な持ち主のところに戻すだけよ。瑠都子さんのお金は、瑠都子さんのもの」


 その横顔に一瞬だけ怒気が差す。


「しかし……本当に大丈夫なんですか。あんな風に、自分のパソコンを囮に使って」

「平気よ。あれにはダミーデータしか入っていないわ。それに――」


 八千代は川面に映る街灯の光を見つめながら、静かに続けた。


「相手を知らずに護れるほど、この世界は甘くないの。あなたも昔、身をもって知ったでしょう?」

「……まあ」


 冷焔の脳裏にかつての自分がよぎる。

 闇バイトの募集掲示板。簡単に稼げるという甘い言葉。

 そこに手を伸ばしかけたとき、真正面からその手を叩き落としたのは――この(ひと)だった。


「それにね、冷焔くん」

「はい」

「おばさんがアジトに乗り込んでいくのは、流石に説得力に欠けるでしょう?」


 冗談めかして笑う八千代に、冷焔は肩をすくめた。


「見た目だけなら、完全に上品な奥様ですからね」

「だけは余計よ」


 二人の間に、わずかな笑いが生まれる。

 しかしすぐに八千代は真顔に戻った。


「トクリュウの空気はどう?」

「そうですね。今の所、俺を疑ってる様子はないです」

「それはよかったわ。じゃあ、もう一息ね」

「奴ら、結構、手慣れてますよ。暗号資産へのルートも、名義飛ばしも、隙がない」

「上手く隠しているだけで、皆無ってわけじゃないでしょう?」


 八千代はそう言って、バッグから小さなタブレットを取り出した。

 画面には銀行間送金の矢印や複数の口座、ウォレットアドレスが書かれた図がぎっしりと並んでいる。


「ここと、ここ。匿名だと思い込んでいる部分も実際にはそうじゃない」

「……取引所のKYCラインですか」

「ええ。チェックをすり抜けられても、ログまでは消せない。だから、そこに細工をしておいたの」


 彼の耳の中で、先程の祝杯の喧騒がまだ残響のように鳴っている。


(……悪いな。お前らの動き、八千代さんから見れば、足跡を残し過ぎなんだよ)


「明日の朝には、何かしら動きがあるはずよ」


 冷焔は肩をすくめ、笑みを浮かべる。

 その笑みの裏にわずかな緊張を隠しながら。


 ◇◆◇


 翌日。カップ麺の匂いとタバコの煙の中、最初に異変に気づいたのは副リーダーの男だった。


「……おい」


 彼はマウスを握ったまま固まっている。


「なんだよ、どうした」

「いや、残高が……」


 管理画面には昨日の入金履歴が残っている。

 しかし、そのすぐ下――未明の時間帯に見慣れない出金履歴がずらりと並んでいた。


「は? 誰が動かしたんだよ、これ」

「俺じゃねえよ! 口座もトークンも、セーフのはずだろ!」

「取引所のログもねえぞ。どこに消えたんだよ!」


 声が荒くなり、キーボードとマウスの音が跳ねる。

 画面に残る数字はただひとつ。


 残高――ゼロ。


 焦りと怒りと恐怖が、狭い部屋の空気をじわじわと満たしていく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  ▼▼▼ 第26回書き出し祭り 第3会場の投票はこちらから ▼▼▼ 
投票は2026/01/10(土)18:00まで!
表紙絵
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ