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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
撃鹿血戦

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阜水を越えたか

 趙白杵らと合流した盧武成は、なおも警戒しつつ、一刻(二時間)をかけて緩慢に退いた。

 撃鹿城に着くと、城内では既に、至るところで酒宴が行われている。先に入城した姜子蘭と顓項が、将兵の労をねぎらうためにと、撃鹿城に備蓄してあった兵糧と酒とを解放したのである。

 ただし、弱年である姜子蘭と顓項はともかく、三秧(さんおう)軍の主たる諸将たちは素面であった。唯一、共羽仞だけは瓢箪にいれた酒をあおっているが、これは常のことであり、誰も咎めなかった。

 姜子蘭らは、まず盧武成の無事を喜び、その武功を称賛すると、すぐに軍議を行うと告げた。

 激戦の果てに顓軍を制した三秧軍であるが、この戦いは元より、顓族有する虞領の大兵廠、滎倉(けいそう)を掌中に収めるために、その喉元の城たる撃鹿城を落とすための戦いである。

 将兵を休ませ、労うことは将の務めとしてしなければならない。しかし、軍を率いる者たちは、常に先の展望を見据えて動かなければならないのである。

 一室に集まった諸将――姜子蘭、顓項、趙白杵、盧武成、顓遜、肥何、子狼、呉西明、共羽仞の九名は、まだ会戦の疲れが抜けきらぬままに、軍議をはじめた。


「顓謙鄀は阜水(ふすい)を渡ったでしょうか?」

「それがまだわかりません。今、西明に調べさせておりますが、今のところ(よう)としております」


 肥何の疑問に子狼が答えた。阜水とは撃鹿城と滎倉城とを挟む黄河の支流の一つである。


「我ら顓族は、水を嫌い、操船は不得手だ。おそらく、陽が明けるまではどこかに潜んでいるだろう」


 そう言ったのは顓遜である。顓族は、大軍を率いて渡河を行う時には、たいていの場合、舟橋か筏橋を用いる。

 舟橋、筏橋とは、舟や筏を対岸まで縦列に並べ、(おもり)と杭で固定し、その上に板を敷いて作る即席の橋のことである。これらは、渡河を終えると、敵に利用されぬように撤収してしまうので、今は、すぐに阜水と滎倉を越える術はない。

 阜水を越えるには、西に二日は進まねばならないのだ。


「他の顓軍の動きはどうなっておりますか? 風山、雨山の砦の兵を併せればまだ一万数千はいるはずですが?」

「風山の兵は、西へ奔りました。しかし雨山砦の兵は、未だ山中に留まっております」


 顓遜の疑問には、つい今しがたまで殿軍を務めていた盧武成が答える。そうなると、風山砦の兵は滎倉ではなく虢に向かったのであろう、というのが顓遜と共羽仞の見方であった。

 実際に、その通りであった。これは、撃鹿平野で敗走した顓軍を、三秧軍が追い討たなかったことが大きい。

 西に逃げる顓軍を追わず、南を目指したのを見て、そのまま電掣の進軍によって滎倉を攻め落とす算段であろう、と風山砦の顓軍は見たのである。

 もっとも、顓遜と共羽仞の推察の根拠としては、滎倉にはいったところで兵を纏められる者がいないから、というものである。顓謙鄀は遁走し、歴戦の宿将たる沙屹は戦死した。将としての才幹として、そして、兵を束ねる求心力を持つ者が今の顓軍には欠けているのである。


「それで、いかがしますか? このまま、夜を徹して阜水を越えて、滎倉を落としますか?」

「ご自身を基準になさってはなりませんぞ、盧氏よ」


 盧武成の言葉を、子狼は丁寧な言葉で窘めた。しかし一方で、この勝利の勢いをそのままに、そして、顓軍が態勢を再び整える間を与えずに攻めるべしという考えも分かる。補給と援軍を望めない三秧軍にとっては、時の流れも敵の一つであった。

 しかし、兵の疲労をおして攻めるのは下策である。また、渡河という問題があるのは三秧軍も同じであった。


「ですが、子狼どのと肥何どのには策がおありなのでしょう。お二人が、向後のことを何も考えずに会戦に挑まれたとは思えません」


 顓遜はそう問いかけた。すると、この師弟は口元に似たような笑みを浮かべる。

 その時である。沙元が入ってきた。その手には、何枚かの巻布を手にしている。沙元がそれを子狼に手渡すと、子狼は一礼してから、


「これを今より、(ぼう)に託してまいります。我らは明日一日、兵を休めてから滎倉に進発しますが、その時にはおそらく、滎倉城は我らの物となっていることでございましょう」


 それは、大言壮語としか思えない言葉であった。しかし子狼はこれまでに、舌三寸の詭弁家のような言動を繰り返しながら、実際に巧妙で狡猾な策を持って数多の戦果を挙げている。姜子蘭たちは過去の功績から、そして、かつて敵であった顓項らはその実感に軽く肌を震わせながら、子狼の笑みを眺めていた。




 三秧軍の推察通り、顓謙鄀は一夜を野宿し、朝焼けを待って阜水を越え、滎倉城に入った。多少の敗残兵は滎倉城に辿り着いたが、多くは虢を目指して落ち延びたらしく、城内の兵は千にも満たないという有様である。

 撃鹿城が落ちたこともあり、兵は滎倉城に入りにくくなった。

 そのために顓謙鄀は、軍資、兵糧は山とあり、堅牢な城壁に護られているというのに、少しも心が休まらないでいる。その焦燥を紛らわすために、ひたすらに酒を煽った。

 絶え間なく、水のように飲み続けるため、さすがに近侍の者たちは止めた。

 しかし顓謙鄀は、杯を投げつけて怒鳴りつけたのである。そうした暴飲を続けているうちに、やがて、昼夜の別すら判然としなくなった。蕩揺する視界の中で、不意に床がせり上がったような感覚に包まれて、その意識は混濁に融ける。

 そして――誰かに、名を呼ばれて、顓謙鄀は、自分が酔いつぶれて眠ってしまったのだと気づいた。


「……謙鄀兄上」


 その相手は、異腹の弟であり、今や謀叛人たる顓項である。

 そして顓謙鄀は、体を縛られ、硬い石床の上に転がされていたのである。

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