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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
撃鹿血戦

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212/214

撃鹿城へ

 巣丘の本陣から上がる黒煙は、撃鹿平野の戦いの趨勢にも大きな影響を与えた。

 顓軍にどよめきが走り、とりわけ、顓無卹の混乱は尋常ではない。

 逆に三秧軍は、ここが攻め時とばかりに吶喊していった。各将は盛んに、


「敵の本陣は落ちたぞ!!」

「もはや敵に退路はない!! 明日のことなど考えず、ひたすらに攻め続けろ!!」


 と、兵を鼓舞した。

 ただし子狼はその中で、敢えて、西には兵を置かないよう指示した。もはや逃げることは叶わないと思うと、人は決死の覚悟で挑んでくる。しかし、一つでも退路を見つければ、戦うことよりも逃げることに意識が向かう。

 実際に、顓軍は段々と、抗戦をやめて西に足を向け始めた。一人逃げれば、二人、三人と、逃げ出す兵士が増えていく。そうなると、それは坂道に巨岩を転がしたようなものであり、もはや止めることは出来なかった。

 かくいう顓無卹も、法伝とともに遁走した。威容を誇った一万五千の顓軍は、羽虫の群れのように逃散してしまったのである。巣丘と風山に挟まれた間道を目指し、虢へ落ち延びんとひた走った。

 この時、子狼は深追いを禁じた。それは顓軍の反抗を恐れたからであり、また、自軍にその余力がないと見たからである。

 顓軍がやがて忽然と平野から消え去ったのを確かめると、子狼は人を遣って盧武成と共羽仞を呼んだ。


「これから、千五百ほどの兵を率いて撃鹿城へ向かう。共羽仞どのには先導を頼みたい」

「ああ、任せておけ」


 既に陽は西の地平に隠れようとしており、空には茜色の帳が掛かっている。しかし、ここから撃鹿城まで進むと子狼は言った。将兵にさらなる無理を強いることは分かっているが、ここはどうしても、日没までに撃鹿城を抑えなければならないのである。


「武成は殿(しんがり)だ。楼盾に任せて負傷者を分け、東西の砦からの攻撃に備えろ。なるべく、兵の損傷を抑えて無駄な戦いはせず、夜が明けるのを待って撃鹿城へ向かえ」

「分かった。しかしそれよりも、我が君と顓項どのは?」


 頷きつつ、盧武成は主君の身を案じた。

 姜子蘭と顓項は、雨山の顓将、鵡涯を牽制すべく、わずかな兵で今も潜んでいるはずである。


「我が君と顓項どのであれば、既に撃鹿城へ向かわれているだろう。故にお前は、ただ敵兵を止めることだけに心血を注げ」


 そう言われて、盧武成は頷いた。

 そして子狼と共羽仞は、兵を率いて南へと馬を走らせる。巣丘を越えて、撃鹿城を目指した。


「しかし王子の軍師どのよ。おぬしと武成はこともなげに語っていたが、東西の砦の兵を併せれば、まだ一万数千はいるであろう? すでに疲労困憊した兵で、数倍の敵を防ぐことなど出来るのか?」


 一応の懸念として、共羽仞は聞いた。しかしその顔は、懸念を抱いているという風ではない。


「もはや、戦う目的がありませんからな。しかも、巣丘の陥落は見えているでしょうから、おそらく敵は、撃鹿城も落ちたか、じきに落ちると考えるでしょう」

「まあ、そうだろうな。しかし、勝てぬからと自棄を起こすということもありうるぞ」

「そういう直情を有しているのは、沙屹将軍くらいのものでしょう。しかし彼の人は、允綰どのによって討たれております」


 子狼にとって脅威足りうる顓将とは、顓彰期と沙屹の二人であった。それは共羽仞も同じであり、この二将には、劣勢という幻覚が通じない。ここまでの戦いで三秧軍が優位に立ったことなど一度もなく、そう見えていたのは、ただ勢いで優っていたに過ぎない。数の上では、常に三秧軍は負けているのだ。

 それでも、圧され、劣勢に立たされているという錯覚を起こすことは出来る。顓軍は三秧軍の力戦敢闘と策略に呑まれて負けたのだ。

 ただし、沙屹と顓彰期という人には、その錯覚を一喝にて打破する力があった。それ故に、允綰が早いうちに沙屹を討ったのは、実は大きな戦果だったのである。


「しかし、万が一ということもあろう。鵡涯は惰弱で優柔不断な男ではあるが、それでも顓の将軍だ。それに、奴の場合、虢に向かうにしても、平野を横切らねばならんぞ?」

「そうですな。なのでおそらく、夜闇に乗じて北へ迂回する道を取るでしょう。そうならなかった時は、ほどほどに戦って退くかと」

「なんだ、策の一つも与えておらぬのか?」


 共羽仞は、目を見開いた。


「これは、軍師があれこれと指図しないほうがよいことかと思いましたので」

「そういうものか? どうにも、軍師というやつはよく分からん。つまりは、将の機智と応変を頼みとするということだろう?」

「はい。彼我の力量を見極め、軍の配置を決める。勝つために必要な物を与え、その上で、次善の手を、打てるだけ(そな)えておく。それが軍師の役割です」


 そう言ってから子狼は、


「もっとも、私はまだまだ未熟者でございますが」


 と、言葉を添えた。謙遜でなく、本心である。

 しかしそう聞いた時には、共羽仞にはもう、その話に対する興味を失っていた。


「ところで、撃鹿城は落ちているであろうな? 朝から戦い続けていると、流石に腹が減った。俺もだが、兵らにもたらふく食わせてやらねばなるまいよ」

「おや、共羽仞どのは、飯より先に酒かと思っておりましたが?」


 子狼が軽口をたたく。共羽仞は、鼻息を荒くした。


「乾いて枯れた喉を酒で潤すなど、当然のことだ。そうせねば、粥を食ったところで詰まらせてしまうだろうからな」

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