巣丘陥落
本陣から上がった黒煙を見て、顓謙鄀は焦った。そして、さらに惑ったのである。
――まだ伏兵がいたか!?
それほど兵を分けるゆとりなど、三秧軍にはないと顓謙鄀は見ていた。というよりも、既に、ただでさえ寡兵であるところを分散させているというのに、この期に及んでまだ見ぬ敵兵があるなどとは露ほども考えていなかったのである。
こうなると、三秧軍は寡兵であるという斥候からの報告が、そもそも誤りだったのではないか。一度、その疑心暗鬼に囚われると、冷静な判断など出来なくなる。
とにかく、この場において何よりもまず行うべきは、本陣の煙を消すことである。
巣丘から立ち上る黒煙は、自軍からもよく見える。本陣が落ちたように映るその光景は、士気を多いに削ぐであろう。
しかし、空の本陣を攻めた伏兵がどれだけいるかが分からない。おそらく少勢であろう、と顓謙鄀は推測したが、その予見に自信を持てないでいる。
そう考えているうちに、坂下から閧の声が上がった。趙白杵が、差し向けた兵を突破したのである。
完全に抜かれた分けではない。
兵力を一点に集中させて守りをこじ開け、百ほどの兵のみを率いて先行してきたに過ぎない。
しかしそれにしても、本陣陥落と見誤るような黒煙のために、顓の兵士たちが動揺したからこそ生まれた綻びを、趙白杵が突いたからこそである。
趙白杵は、振り向きもせず、ひたすらにただ巣丘の頂上を目指して駆けた。乱戦の中に残してきた部下たちのことなど、歯牙にもかけていない。
それは薄情なわけではなく、むしろ、
――敵将を討てば、敵は離散する。
と考えているからであり、寸刻でも早く顓謙鄀を討つことこそが、死ぬ兵を減らすことになると、趙白杵は分かっていた。
加えて、黒煙が上がった瞬間に顓遜が、
「奇襲が成功したぞ。もう暫し堪えよ!! 今に、敵の本陣を落とした兵がこちらに来る。そうなれば、こちらの勝ちだ!!」
と叫んだことも大きい。これによって、恒崋山の山賊たちは活気づき、顓軍は怯んだのである。
どの盤面においても、顓軍に劣勢の風が吹いている。そう感じながら、顓謙鄀は改めて坂下を見下ろす。
今まさに迫りつつある裂帛の気勢が、人喰い虎の咆哮のように感じられた。迂闊に本陣に戻り、もし伏兵は寡兵であるという推察が外れていれば、三秧軍を挟撃し撃滅せんと目論んでいた顓謙鄀のほうが、かえって挟撃の憂き目を見ることとなる。
「……退く」
顓謙鄀は、低く、風に融けそうな声で呟いた。麾下の部将たちは、すぐにはその意を汲み取れなかった。
「滎倉城まで退く、と言っている!! 城に籠もって守り、虢の父からの援軍を待つ!!」
そう叫んだ時に、他の者はその言葉を正しく聞き取れはしたが、しかしすぐには受け入れられなかった。
未だ血風に身を晒し、赤河の中を泳ぎながら戦っている自軍の兵士たちがいる。彼らを見捨て、敵に背を向けるなど、顓族の長の長子たる者の決断としてあまりに懦弱で卑怯としか思えなかったからだ。
顓謙鄀を恐れる部将たちも、この決断には流石に反言した。しかし、
「うるさい、この戦の将は俺だ!! 勝機のない戦いに拘泥したところで、得るものなど何もない!!」
と喚き散らし、ついには一人、馬を走らせて滎倉城へと駆けていった。
総大将たる顓謙鄀の遁走を見て、残された五百の兵たちも、我先にと逃げ出す。この潰乱を鎮め、兵を纏め上げるだけの士気能力を持つものはこの場にいなかった。
この時、巣丘頂上の陣を落としたのは、肥何が率いる別動隊である。しかしその兵は、僅か二十であった。
顓謙鄀が本陣を空にするまで、巣丘の背後に姿を隠しており、出陣したのを見計らって兵を忍び込ませたのである。兵たちは皆、油入りの子壺を持っており、あたりに撒き、木燧で火をつけた。
たった二十の伏兵であり、顓謙鄀が兵を返せば、本陣はすぐに奪還できたのである。しかし肥何は、そうはならないと読んでいた。そういう胆勇はないと見た、というほうが正しく、そして実際にその通りになった。
肥何がそう考えたのは、顓項らから聞いていた話を踏まえて、というのものあったが、それ以上に将として、
――巣丘の高地から戦況を把握するのはよい。しかし、五千の兵を頂上に置くことに意味はない。
と考えている。
知恵ある将であれば、巣丘の麓に五千の兵を配置し、自らは僅かの兵とともに頂上に陣取る。そして、狼煙や伝令などで連携を取り、他の戦場に介入させるだろう。わざわざ、丘を駆け下りるのは時の浪費である。
そして、顓謙鄀はそういったことが分からないか、兵に護られていなければ心休まらない小心者である、と肥何は見た。その推測はすべて当たった。
醜態を晒して逃げる顓謙鄀を、燃え盛る巣丘の頂上から見下ろしていると、そこに趙白杵が兵を率いてやってくる。可憐な顔と紺碧の鎧とを返り血の赤で彩りながら、その身には傷一つない。
趙白杵の武勇、槍術は、凡百の将兵などとは比べるべくもない。そう知っていながら、しかし孫のように思っているこの女傑の無事を見ると、肥何はつい安堵の息を吐いてしまうのであった。
「気を抜くのはまだ早いぞ、肥何。勝ちが定まりかけている時にこそ、陥穽が待ち受けている。私や従兄に教えてくれたのはお前だろう?」
血で汚れた顔を拭おうともせずに、趙白杵は笑う。つられて、肥何も笑った。
「ええ、左様ですとも。よく覚えておられましたな」
「そりゃ、嫌になるほど諄々と言われたからな」
嫌味のように口を曲げたが、肥何は穏やかに笑うだけで、さらりと流した。




