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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
撃鹿血戦

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210/214

巣丘攻防戦

 洪が逃げると言ったのを、呉西明は訝しんだ。

 確かに、今は善戦しているとはいえ、二百の兵で千を撃滅することはまずもって出来ないだろう。しかし、この二百が離れてしまえば、趙白杵たち先行した兵が挟撃の憂き目に遇う。呉西明としては、最後の一兵になるまでこの場に留まるものと思っていた。


「死にたければ、お前一人でやっていろ。それにお(かしら)は、必ず死ぬとわかって部下を使い潰すような人ではない。だからあの若さで、しかも女の身でありながら、俺たちの頭目が張れているんだ」


 死に急ぐ目の呉西明に、洪は冷や水のような言葉を浴びせる。

 山賊とは、その大半は食い詰めて生きるために悪事に手を染めた者たちである。彼らの根本にある欲というのは、まず生きることであり、次に、食うことだ。国家や領主に賦役する兵や、武家の私兵たちとは前提から異なるのである。

 戦の結果として兵が死ぬことはあり、それはやむを得ないと割り切っているが、部下を使い捨ての駒のように考えることはしないのが趙白杵という人である。


「それに俺とて、何も考えなしに逃げているわけではないぞ。少なくとも、敵さんはお前と似た考えらしいから――ほら、足が止まった」


 洪が指さしたその先では、顓軍を率いる部将、藍俁(らんぐ)が、潔く逃げ去った恒崋山の兵たちを見て当惑していた。

 洪の言う通り、藍俁は、二百の兵は足止めのための捨て石だと見ていた。それが、少し不利になっただけで逃散したとなると、かえってその行動を怪しんだのである。

 だが、藍俁が顓謙鄀に命じられたのは、敵兵を本陣の兵と挟撃することである。私考を用い、余計なことをしては、後でどんな咎めを受けるか分からない。そう思い、素直に趙白杵たちの背を追った。

 それを見た洪は、


「よし、行くぞ西明」


 と呼びかけ、軍を転進して兵を率いて藍俁を追った。しかし、矢が届かぬほどの距離を保って、ひたすらに追従したのである。

 藍俁は、薄気味悪さを感じた。再び攻めてくるわけでもなく、ひたすら後背に張り付かれるというのは、落ち着かない。


 ――兵を分けて当たらせるか。


 そう考え、藍俁は五十の兵を割いた。しかし、その兵が近づいてくると、洪は再び馬首を返してしまった。その時には、別の方向に逃げた兵が、洪や呉西明がいたのと逆方向に現れた。そしてやはり、つかず離れずの距離で追ってきたのである。

 苛立ちながら、藍俁はまた、五十ほどの兵を向かわせた。するとそちらの兵も、近づいてくるとすぐに逃げ去ってしまったのである。

 いらぬ攪乱のために、藍俁の兵の足は緩まってしまった。そしてその間に、趙白杵は、巣丘の本陣から出撃した兵と交戦を始めていたのである。




 本陣から兵を出撃させながら、しかし顓謙鄀は苛立っていた。

 挟撃をさせるはずの藍俁が、思わぬ足止めを喰らっていたからである。そのうちに、趙白杵ら恒崋山の山賊たちと本陣から出した兵が衝突した。しかも、顓謙鄀は千五百の兵を出したというのに、圧されている。

 誰憚らず舌打ちする顓謙鄀に、部将たちは意見をしようかとも考えた。しかし皆、その怒りを買うことを恐れて、言葉を発せなかった。

 ついに苛立ちが頂点に達すると、顓謙鄀は立ち上がり、卓を蹴り飛ばした。


「ええい、こうなったら一息に踏み潰してやる。俺自ら打って出る!! 残りの兵もすべて出すぞ!!」


 癇癪である。流石に、本陣を空にするのはまずいと思い、部将の一人が進言した。


「……それは、せぬほうがよろしいかと」

「――なんだと?」


 睨みつけられて、進言した部将は肩を震わせた。しかし口を開いてしまった以上、その言を呑み込むことは出来ない。背筋に季節外れの冷や汗をかきながらも、続けるより他になかった。


「……残る五百の兵は、あくまでこの陣を守るべきかと。堅守していれば、いずれ藍俁どのらの兵が追いつき、謙鄀さまが思い描かれていた形になるかと」


 言い終えた時に、顓謙鄀は剣柄に手を掛けていた。そして、一振りでその首筋を斬りつけてしまったのである。勇気をもって諫言をした部将は、敵兵でなく上官の手によって戦場の露となった。

 こうなってしまうと、もう顓謙鄀に物を言える者はいない。

 急いで兵を整え、出陣する準備を整えた。

 だが、いよいよ陣門を開き、打って出ようというその時に、顓謙鄀は信じられぬ光景を目の当たりにした。

 撃鹿平野の地で、援軍として遣った兵が、顓無卹の軍と同士討ちをしているのである。

 顓謙鄀は我が目を疑った。しかしどう見ても、顓軍同士で戦っている。


 ――裏切ったか、無卹!?


 そう思ったが、しかし三秧軍と連携している様子はない。そのことが顓謙鄀をさらに困惑させた。まさか、厳格すぎる自らの気性が、弟を愚行に走らせたとは思いもよらなかった。

 顓謙鄀の号令一つでいつでも出撃できるという状況であるが、その一声が放たれない。

 部将たちも、撃鹿平野の異変に気付き、動揺している。


「……おい、どうするべきだ?」


 か細い声で、顓謙鄀が言った。それが献策を求められているのだと気づくのに、麾下の部将たちは暫くの時を要した。これまで、顓謙鄀が他者に意見を求めることなどなかったからである。


「ええい、何か申せ!! ここにいるのは木偶や石くれの集まりか!?」


 八つ当たりのように叫び散らしたその時に、追い打ちをかけるようなものを、顓謙鄀は見た。

 それは、背後にある本陣の奥から、無数の黒煙が昇っている様である。

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