風説離間
巣丘からの増援が来たのを見て、子狼は馬を走らせ、盧武成と合流した。体から霧のような湯気を発し、顔を熱で赤く染めている。この猛暑の中、鎧を着こんで朝から奮戦していただけあり、盧武成にも、態度には出さないが困憊の色があった。
そんな中、わざわざ自分の下へやってきた軍師を、盧武成は奇異の目で見た。子狼は十人ほどの兵を連れていたが、子狼もその兵も、顓軍の兵士のようないで立ちをしていたからだ。
しかし子狼は、自らの衣装について説明はせず、水の入った皮袋を盧武成に投げた。無言で受け取って飲み干しながら
「何をすればいい? ただ水を差し入れに来ただけ、というわけではあるまい?」
と、盧武成は目を細める。下心を見抜かれて、子狼は些か窮したような顔をしている。
軍師として子狼が見るに、ここがこの戦いの節目である。趙白杵たちがもし首尾よく顓軍の陣を落とせたとしても、その時に撃鹿から三秧軍が姿を消していれば、勝利には至らない。三秧軍は今、まさに存亡の狭間にいるのである。
故に、既に兵数千に匹敵する働きをしているのを承知で、なおもこの猛将に働いてもらう必要があった。
「ああ。間もなく、巣丘からの援軍が合流する。その前に一つ、仕掛けたい」
そうなると、もうあまり猶予はない。しかし、それを踏まえているであろうから、盧武成が異を唱えることはなかった。
「――それで、仕掛けるとは何をする?」
「俺とこの兵たちを隠すように囲みながら、顓軍に突撃してくれ。そうすれば、あとはこちらでいいようにやる」
短く、簡略な指示であったが、盧武成は頷く。そして何も聞かずに、子狼の言った通りに兵を配置し、顓軍のひしめく中に突き進んでいった。ただし、無謀な攻めをせず、適当に戦うと、すぐに馬首を返した。
その間に、子狼と、率いる十人の兵は霧散していたのである。
決死の奮戦の最中であったが、少しずつ、顓軍の兵士たちは、後方の巣丘の陣から援軍が向かっていることに気づいた。
歓喜に沸き、いっそう勇み立つところであるが、現実的な優位に反して、顓軍の中には不穏な空気が漂い始める。
「謙鄀様が援軍を出したということは、我らの惰弱は見るに耐えん、ということではないのか?」
「ここで援軍の手を借りれば、たとえ勝ったとて我らは顕彰されず、むしろ、処罰減俸の憂き目をみるのではないか?」
まず、部将たちの間で、そんな疑念が湧いた。兵士たちがそういうことを呟いたのを耳にして、疑心に駆られたのである。
「巣丘の連中は、偉そうにして高みの見物をして俺たちに血を流させながら、いよいよ勝利に手が届くかという段になって戦場に踏み入り、手柄を独占するつもりなのではないか?」
「巣丘の陣からの助勢じゃどなくとも、我らは敵を圧している。援軍などいるものか!!」
「いいやそもそも、謙鄀さまは敵将に多大な恩賞をかけながら誰かに与えるつもりなどなく、都合よく麾下の将に敵将を討たせることが出来るように、巣丘に陣を張ったに違いない!! でなくば、今さらに援軍などを寄こすものか!!」
やがて、兵士たちの間でも、敵ではなく、味方への不信が募り始めた。
これは、子狼が率いていた兵士たちと共に、顓軍の中で広めたものである。顓軍が劣勢ではないことが不幸に働き、一万を越える将兵は、たった十数人の扇動によって、瞬く間に、援軍への猜疑心に染め上げられた。
しかも子狼は、顓軍の動きが鈍ったと見たら、攻め手を緩めるように各軍の将たちに伝令を走らせていたのである。敵から攻められていれば、そういった余念に惑う暇もないが、攻勢が緩慢になった時にそういう疑念を抱いてしまえば、それは人から人へと風を伝って広まる流行り病のようで、止めようのないものであった。
そしてその毒は、今まさにこの軍を総括している顓無卹にも届いた。
顓無卹は傍らの法伝に、
「……おぬしは、どう思う?」
と、聞いた。
「……謙鄀さまが動いたとあれば、我らがどうなるかは、分かりません。まして、我らは既に一度敗れた身であり、この軍は、元は彰期さまの兵です。無卹さまは、その預かりの将ですので、戦いが終わった後に称賛されるどころか、越権を責められることもあり得るやもしれません」
ここで法伝が憶測に負けず、今は眼前の敵に集中すべし、と壮言を吐いていれば、顓軍に漂う悪しき流れを顓無卹の一喝にて立ち切ることが出来たかもしれない。しかしそう断言するには、法伝にとって顓謙鄀という人はあまりにも怖ろしすぎたのである。
そして顓無卹にとっても顓謙鄀は、同腹の兄でありながら、血の通わぬ怜悧酷薄な上官という認識のほうが強い。
俯瞰し、数字だけを並べ立てれば、顓軍の優位である。しかし顓無卹にとっては、兄の兵と三秧軍に挟撃されているに等しい。
そして、恐慌の最中で顓無卹が放った命令は、名軍師たる子狼にさえも予見しえぬものであった。
「後方の三千は、南転せよ!! 後方より迫る兵を迎え撃て!!」




