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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
撃鹿血戦

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198/214

煙盲の計

 山中に、人の手による煙を見た鵡涯は、すぐに周囲を警戒させた。


 ――伏兵が来るやもしれん。


 そう備えたところに、下方から鐘の音が聞こえた。それも、規則的なものである。この白煙の中で、敵の位置を知らせるようなものである。だがそれはつまり、この音を辿っていけば、姜子蘭の軍に行き当たるということでもあった。

 鵡涯は、木々に衝突せぬよう、速度を緩めながら兵を進ませた。

 この場で鵡涯が警戒しているのは一つである。同士討ちを避けることだ。先に砦を出た二千の兵を敵と見誤るか、すでにその兵が姜子蘭の兵と交戦している場合は、迂闊に攻めないほうがよい。

 細心の警戒を払いつつ、進んだ。

 しかし何もない。敵の影は一向に見えず、といって、先行した味方と出逢うこともない。近づいているはずの鐘の音は、進めども、その姿を見ることが出来なかった。

 それでいて、白煙はどこからか絶えず起こり続けているのである。段々と、兵士たちは目の痒みと喉の痛みを訴え始めた。鵡涯はやむを得ず、一度、砦に戻ることを決めたのである。

 雨山の砦に戻ると、先に出した二千の兵も帰還していた。聞くと、白煙が立ち込めてきて進むことが出来ず、敵にも遇わなかったので、一度戻ることにしたという。

 文字通り、煙に巻かれた形である。

 しかも、櫓の上から改めて戦況を見てみると、始めに降伏を告げたのと同じところに、年若い二人の将が兵を率いているのだ。ただし違うところがあるとすれば、


 ――兵が、少し減ったように見える。


 ということであった。

 年若い二人の将――姜子蘭と顓項は、先ほどと変わらず、真っ向から砦に攻めてくる様子はない。それが鵡涯には、かえって不気味であった。

 雨山砦の部将たちは、門を開け、大挙して攻めるべきだと口々に進言してくる。

 そうすべきだと、鵡涯も思いはする。しかし、それを敢断できぬ恐ろしさがあった。また山中で煙に巻かれるような気がして、決めきれないでいるのだ。

 しかし、部将たちの圧は増していき、鵡涯としても抑えきれなくなってきた。

 鵡涯としても、垂涎の大功が眼前にあるのに、これをみすみす逃すのは惜しい。


 ――そうだ。先ほどは、兵を分けたのがいけなかった。一まとまりに出撃すれば、眼前に現れたものはすべて敵である。そうなれば、兵力が物を言う。


 そう考えて、腹を括った。そして、砦の門を開き、改めて五千の兵で出撃することを決めたのである。

 鵡涯率いる五千が雨山砦から出ると、姜子蘭と顓項は、すぐさま馬首を翻して山中に隠れた。しかし鵡涯は、構わずに追撃する。

 やがて山中に入った。今回は、視界を遮る白煙はない。

 しかし、先ほどと同様に、どれだけ進めども、鵡涯の双眸が敵影を捉えることはなかった。

 このままでは平野まで駆け下りてしまう。そう思ったときに――鵡涯は、山頂からいくつもの黒煙が吹き上がっている様を目の当たりにした。




 出撃した鵡涯らからは、雨山砦が落ちたように見えた。しかしこれは、雨山の東側に回った兵が、山中で黒煙を噴き出すように枯れ木に助燃薬を混ぜて燃やしただけのことである。

 しかし鵡涯にそのようなことは分からない。

 分からない以上、この場で待つべきか、進んで姜子蘭、顓項らの兵を探すべきかを決断する必要がある。

 麾下の部将たちの意見は、二つに割れた。

 戻るべきであるというものと、敵の偽装に過ぎないので、このまま前進して敵の総大将たる姜子蘭たちを討つべきだ、というものである。

 後者を支持する者のほうが多く、そうすべきだと、鵡涯も思う。

 しかし、懸念はあった。

 朝焼けとともに平野では戦いが始まった。しかし密偵からの報告によると、そこには三千ほどの歩兵しかいないとのことである。これは報告にある敵の総軍の四分の一ほどだ。他に、風山と雨山にも三千ほどの兵を向けているようであるが、これらすべてを合わせてもまだ足りない。


 ――もしや、始めから我らを砦から誘い出し、攻め落とすつもりだったのか?


 そう考えれば、先ほどまでの挙動も腑に落ちるのである。

 手柄首は魅力的だ。しかし、褒賞に目が眩んで二人の将を狙うことに拘泥して、挙句に砦を奪われたとなれば、厳罰は免れない。

 破格の褒賞を手にする賭けに出るか。手堅く砦を守り、損失のないようにするか。

 事ここに及んで、なおも鵡涯は自らの損得を一義として、どう動くかを考えていた。鵡涯にとって、顓族にとって、この戦いはどう転んでも負けようのない戦いなのである。

 鵡涯は悩み抜いた末に、


「砦に戻る。兵を返せ!!」


 と叫んだ。大胆な賭けに出る胆力はなかったのである。

 部将や兵らは、不服を顔に出しつつも、守将たる鵡涯の命令とあってはやむを得ず、砦に戻ろうとした。

 しかしこの時、五百騎ほどの兵が隊列を離れた。

 雨山砦の部将の一人、列琦(れっき)という将と、その配下の兵である。


「鵡涯、おぬしの損得勘定に付き合いはきれん。俺は独自の判断で動かせてもらおう」


 僚将たちから、山犬のようだと評されるほどの長面(ながづら)の将は、山犬の喩えの如く剽悍な兵を率いて、軍令に背きながら、雨山の斜面を駆け下りていった。

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