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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
撃鹿血戦

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降伏の勧め

 顓族の長、顓峯烈(せんほうれつ)が大挙して虞都、虢を攻めたのが成王三年のことである。そして今日、成王十九年まで実に十六年の長きに渡って、顓族は虢に留まっていた。

 ただし、北方にあって、樊の少卿たる維弓――その宿将たる楼環と肥何は、


 ――いずれ虞は、西に帰るであろう。


 と睨んでいたのである。楼環が胡服騎射という騎兵を組み込んだ軍制改革を進言したのは、そうなった時に、北地から迅速に虢に駆け付ける兵を求めたという側面もあった。

 しかし彼らの推察に反して、顓族は虢に留まり続けたのである。

 子狼からすれば、これは実に奇妙な挙動であった。楼環と肥何の見立てのほうが正しく、ここまで長く留まることには、ありていに言ってしまえば旨みがないのだ。しかもその滞在に異を唱えた者を、西に返すわけでもなく、わざわざ北に放逐している。

 そこまでして顓族が虢に留まったことには、畿内の暮らしを望む以外の何かがあるのではないかと、思わざるを得ない。

 無論、こういったことは今この場で考えても仕方がないことである。

 ただし、


 ――我が君は今の軍を以て顓族を斃せばすべてが終わると思っておられるが、実は、長く続く擾乱の端緒なのではあるまいか。


 と思ってしまうのだ。

 もっとも、子狼はもともと、顓族から虞王を救えばそれで平和な世になるとは思っていない。ただし、その先にあるのは、底のない峡谷の如き深淵のように感じたのである。

 いつかはそのことを知りたい、いいや、知らねばならないと思う。それは子狼個人でなく、主君たる姜子蘭に直面するだろう。確信としてはあるが、そこまで考えて、子狼はやめた。

 遠い先のことを憂うより、今は撃鹿の地で勝たねばならないからだ。




 子狼と李遼は戻ると、それぞれの主君に復命した。姜子蘭と顓項の顔は、やや強張っている。

 その緊張をほぐすような言葉は投げず、代わりに、底冷えするような鋭い声で言った。


「――始めますぞ。我が君、顓項どの」


 二人の少年は、無言で頷く。手綱を握る手は震えていた。


「顓族の将、鵡涯どのに告げる!!」


 子狼は、砦の馬防柵に向けて打ち付けるような大声を挙げた。その時、鵡涯は物見櫓の上におり、叫び声のしたほうを見下ろした。


「我らは虞王が第四王子、姜子蘭と、北岐制周城の主、顓項どのが率いる軍である!! こちらには強兵があり、数多の勇将があり、万機に通ずる軍師がいる!! 鵡涯どのにおいては、本軍が敗れる前に武装を解いて降られるがよい!! 我が君は温厚篤実の徳者なれば、誓って其方(そちら)には害を為さぬことを誓おう!!」


 子狼の呼びかけに、砦の将兵は失笑を禁じえなかった。顓軍のほうが圧倒的な大軍であることは周知であるのに、少勢のほうから大軍に向けて降伏せよと訴えているのは、滑稽でしかないからだ。

 ただし守将たる鵡涯だけは笑わず、異なることに思考を廻らせている。


 ――手柄首が二つ、並んでやってきた。


 陣頭に立つ二人の少年が、鵡涯には積み上げられた宝物の山のごとく眩く映っている。何としても討ち果たして、己の武功としたい。思いがけず転がり込んできた僥倖を確実に掴むべく、その算段を考えはじめた。


 ――砦攻めが始まれば、二人は後方へ移るであろう。旗色が悪くなれば、逃げられてしまう。


 山中に逃げられると厄介なことになる。平野まで行かれては、手柄は顓彰期らのものになるだろう。

 そうならぬように鵡涯は、時間を稼ぐ方策を考えた。同時に二千の兵を密かに砦の外に出し、退路を断つように命じたのである。

 しかし鵡涯の予想に反して、姜子蘭と顓項の率いる軍は、いつまで経っても攻め登ってくる様子がない。

 やがて、雨山の山中から白煙があがった。姜子蘭たちはその方向目掛けて兵を動かしたのである。

 それは、鵡涯が二千の兵を走らせているあたりであった。


 ――こちらが退路を塞ぎにくることを見越し、その兵を討とうというのか。


 鵡涯は舌打ちしたが、すぐに、これは好機と考えを改めた。


「さらに二千――いいや、三千の兵を出せ。山中であの孺子どもを討ち果たすぞ。二千は先手の兵に助勢し、千の兵で山道を囲め。鼠一匹さえ逃げ出せぬように囲むのだ!!」


 陣の後方にいられるよりも、陣頭に立って駆けてくれるほうが、討ち取りやすい。鵡涯は兵に命じると、自らも馬に跨り、砦の外に出た。

 財貨を愛し、貪欲で知られた人であるが、将となっているだけあり、鵡涯もまた凡百の兵とは隔絶した武辺を有しているのである。ただし顓族の将の多くは、戦いを好み武勇を振るいたがるのに対して、鵡涯は蓄財のための道具の一つとしか見ていないのだ。


 ――まだ剣の振り方も知らぬ孺子の細首二つ取れば大賞とは、有り難い。


 意気込んで馬腹を蹴り、馬を走らせる。しかし、どれだけ進めども、先んじて砦から出した二千の兵に追いつかない。今ごろは、姜子蘭の軍と交戦しているはずだが、鬨の声や戈矛の戛戟さえ聞こえてこなかった。

 そのうちに、段々と視界が悪くなってくる。白いもやが山中に立ち込めだした。


 ――霧か? いいや違う。これは、煙だ。


 鵡涯がそう気づいた時には、三千の顓軍を白煙が覆っていた。

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