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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
撃鹿血戦

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風山の山岳戦

 沙屹は、逃げた敵軍をひたすらに追った。しかし、なかなか追いつけないでいる。

 気が付けば森の中の、道なき林間を走っていた。いいや、走らされていたというほうが正しく、沙屹は、違和感を覚えた。

 敵は、背信した沙元を追っているはずである。

 しかし。沙元の手勢と三秧軍(さんおうぐん)が争っている気配などなく、敵影は木々の合間を縫うようにして散開していき、それを追うべく沙屹もまた、兵を分けていた。


「――まずい、一度、退くぞ」


 沙屹は慌てて叫んだ。しかしその時、木々の上からいくつもの影法師が現れた。そして、矢と投石の雨を降らせてくる。


「くそ、怯むな。木の上に逃げ場はない。こちらも矢を射かけ、打ち落としてやれ!!」


 そう励ましながら、沙屹はまず自ら弓を取り出し、箙から矢を取り出して番える。甲高い弦音が響き渡ったかと思うと、木上の敵影が一つ、物言わぬ骸になって落ちた。この射術を見て、顓軍の兵たちは勢いづき、矢を手に取り始めた。

 しかし、すべての兵が沙屹の如き射の妙技を習得しているわけではない。

 低地にある顓軍のほうが、消耗は激しかった。

 何度も兵を分けていたこともあり、今の沙屹に従う者は五百ほどである。それでも、兵力では優っているのだが、威勢では圧され始めていた。

 沙屹が弦音を絶えず響かせつつ督戦しても、兵は段々と浮足立っていく。

 そこへ、背後から喚声が上がった。奇襲である。先を逃げていたはずの敵が迂回してきたのか、それとも、逃げたように偽装して伏せていたのかは分からないが、背後を突かれたのである。

 沙屹はやむを得ず、兵の半分を反転させて迎撃することにした。その間にも絶え間なく、石と矢の投射は続いており、この挟撃で沙屹はさらに兵を減らしてしまった。

 加えて沙屹が気づいたのは、兵の大半が騎兵であるということだ。先に風山砦に攻め寄せた時には歩兵が多くを占めていたが、今は、木の上にいる敵のほかは、ほとんどが騎兵である。


 ――山中に馬を隠しておったか!?


 分かってしまえば単純な策である。軍馬が不足しているように印象付けられ、見事に山中まで誘引されてしまった。


「――全軍、反転だ。先に後方の敵を潰す」


 不覚を悟りつつ、沙屹はそう決めた。それは、挟撃に手を焼いたこともあるが、投石が左の肩に当たり、弓の精度が落ち始めたことにも起因する。業腹ではあるが、後方の敵を斬り払い、一度、風山砦に帰城することにした。

 しかし、沙屹が兵を返すと、敵兵もまた逃散してしまったのである。

 抵抗のなさに怪訝さをおぼえつつも、沙屹は、兵をまとめるために退くという方針を変えることはなかった。




 沙屹の後背をついたのは、三秧軍の、向こう傷の老将――夏羿族の人であり、今は盧武成の家臣たる允綰(いんわん)である。その兵は、夏羿族と維氏の兵の混成である。

 従来であればこの軍は、盧武成か子狼が率いるべきであり、そのほうが真価を発揮するといえよう。しかし盧武成には、中央の戦場に配置する必要があり、これはどうしても外せない。子狼にもまた別の役割があり、故に允綰が統括している。

 盧武成は子狼に、誰にこの軍を任せるかと相談されて、すぐに允綰の名を挙げた。

 そもそもそが允綰は盧武成にとって、家臣とするつもりのなかった人である。決して允綰のことを疎んじてのことではなく、むしろ、敬意を抱くからこそ、そういう考えがまるで起きなかったのだ。

 かつては姜子蘭も、子狼に奨められるまでは盧武成を臣としようとは思わず、ついには盧武成みずから臣従を申し込んだという経緯があり、臣を得るということについても、姜子蘭と盧武成は似ていたといえよう。

 さて、盧武成に仕えた允綰だが、家臣となってからはいっそう、軍のことや兵の管理などを行うようになり、副将であり家宰のようであった。そういう家臣であるので、子狼に、夏羿族の指揮を任せるようにと言われた時に、盧武成には允綰の他に任せようとは考えもしなかった。

 盧武成から大任を与えられた允綰は、主人の信頼の通りに如才ない用兵を行った。夏羿族の強みたる山岳地での騎兵運用の手腕については、齢の年輪があることもあり、盧武成よりも巧みであった。

 夏羿族も顓族も、ともに騎乗する民族である。しかし、夏羿族は北地の山岳地帯で活動していることもあり、足場が悪く、木々の立ち並ぶ山道で馬を走らせることに長けている。

 一方の顓族は、西を拠点に活動しており、大陸の西は広漠とした荒野である。人馬ともに強健であり、疲れにくいが、速さでは北地の騎兵に劣り、荒れ道は不得手であった。

 地の利は沙屹ら顓軍にあるが、機動力においては夏羿族が勝っており、そのことは、沙屹も分かっている。だからこそ、ひとまず退くことを決めたのだ。間道を使い、敵の目を縫うようにして砦に戻ることにしたのだ。

 しかし、決して敵が知り得ぬはずの間道に、兵が伏せてあったのである。

 大軍というわけではなく、しかし、木々の陰に隠れ、時に縄を張って馬をつまずかせ、また時には木の上から木石の投射を行ってくる。それでいて、一撃を与えるとすぐにその場から消えてしまうのであった。

 顓軍にとってはよく知った山中であるはずなのだが、まるで、星明り一つない夜道を進んでいるように、将兵は心をすり減らしながら手綱を握りしめている。


「くそ、いったいどうなっている!? 敵は何故、こうまで風山の地理に詳しいのだ?」


 よもや、自軍に内通者がいるのではないか。沙屹はそんなことまで考えはじめていた。

 ただしこれは、特に仕組みがあるわけではなく、山間を往来する夏羿族にとっては、山中での戦いなどは日常であり、三日も調べれば、その山の地理を把握することなど容易いことでしかないのだ。

 子狼と肥何が密偵を放って調べさせた情報は多岐にわたるが、何よりも重きを置けと厳命したのは地理である。とりわけ、風山、雨山については、些細なことまで調べ上げるように言いつけておいた。

 沙屹のほうは、山道の把握は行っていたが、山中で戦うということについて軽んじており、大軍の展開出来ぬ山道で兵同士を争わせるのであれば、高地の有利を持ち、地理に通暁しているほうが勝つ、と思い込んでいたのである。

 これについては、夏羿族と顓族との山間戦の練度の差であった。

 沙屹は、鳥が糞を落とすがごとき、軽微ながら、苛立ちを募らせる伏兵を歯がゆく思い、ついには耐えかねて、馬を止めた。


 ――こちらが流動しているから、少勢での小細工に嵌まるのだ。


 そう考えたのだが、その瞬間、一条の風が吹いたかと思うと、木々の合間を縫うように放たれた矢が、沙屹の喉元に突き刺さった。

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