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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
撃鹿血戦

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190/214

戦端

 昨夜は、雨が啾々と降っていた。しかし日が変わるころには止み、まだ日が姿を見せぬうちに、東からもたらされる熱気が地に含んだ水を(ふか)して、鬼神の吐息の如き煙霧が吹き上がっている。

 季節は孟秋。虞の史書には、成王十九年と記される年の、暑熱が最も盛んになるこの季節に、虞王朝の歴史を語る上で決して外すことの出来ない一大会戦が始まろうとしている。

 その戦いが開かれた地の名は、撃鹿(げきろく)という。

 ちなみに虞の有史以来、撃鹿で会戦が行われるのは、これが二度目である。一度目は、樊の荘公が近畿の諸侯を率いて顓族と戦った時であり、そちらと区別するために、樊、近畿諸侯と顓族との戦いは前撃鹿の戦い、そして、これから語る戦いは、後撃鹿の戦いと称される。

 北からは、虞の第四王子、姜子蘭の率いる、夏羿族と維氏の兵。そしてその友軍たる恒崋山の山賊、そして、顓項が束ねる北岐三連城の軍を束ねた――三秧軍(さんおうぐん)と称する、総勢一万二千の軍。

 迎えるのは、顓族四万の軍であった。

 今、撃鹿の地には四万の顓族が陣取っている。撃鹿の平野に一万五千の兵がおり、東西にある風山、雨山の砦にはそれぞれ一万が詰めている、そして撃鹿平野の後方、巣丘という名の丘には、五千の兵が、高見から戦場を見渡すように布陣していた。

 平野に布陣した一万五千の顓族は、ようやく白みだした空を眺めつつ、朝餉の準備に動き出している。

 そこへ、かすかな鬨の声が響いた。見ると、霧でかすむ空の先に、武器を持った敵の姿を遠望したのである。北からの襲撃であった。

 すぐに警鐘が鳴り、顓軍の兵士たちは甲鎧を着こみ、戈矛を手にし、愛馬の下へ奔った。

 陣といっても顓軍のそれは、平地に穹盧(きゅうろ)を並べただけの簡素なものである。ただし、敵襲を察知してから、その戈矛が届くよりも早くには、すでに軍としての態を為していた。

 一万五千の兵は、霧中から現れる敵影を見た。

 それは、明らかに自分たちよりも(すく)なく、そして――すべてが、徒歩(かち)の兵であった。




「まずは歩兵三千で、平野に陣取る顓軍に当たってもらう」


 軍議の場で子狼がそう口にした時、肥何を除く者たちは一様に子狼を非難した。およそ策と呼べるものではなく、ただ兵を無駄死にさせる行為としか思えなかったからだ。

 車上、馬上からの長物による突き下ろしは、それだけで脅威なのである。顓族は歩兵と車騎の混成軍であるが、こちらにも北地で育った屈強な騎兵がある。その強みを自ら殺そうというのは、下策でしかなかった。


「ああ。序盤は、ここが最も苛烈な戦いとなるだろう。しかし、ここで奮戦してもらわなければならない」


 子狼は、悪びれることなく言った。

 軍師として、兵に無理を求めることの自覚はある。ただし、そもそもが数に置いて不利な戦いなのである。それでも避けられぬ戦いなのであれば、どこかで痛みを負う覚悟をしなければならない。

 盧武成たちもそれは分かっており、後に続く子狼の策に勝機を見出したので、最後には承服した。

 そして今、自軍に五倍する顓軍に歩兵にて斬りこんでいったのは、盧武成と共羽仞を前衛に立てた、北岐三連城の兵、三千である。

 ただし五倍といっても、正しくはもう少し寡ない。

 顓彰期の率いる顓軍は、楓水の南側に布陣していた。そして、敵襲の報せを聞くや、迅速に支度をして楓水の渡河にかかったのはおよそ五千ほどである。残りの兵はまだ、出陣のための準備をしていた。

 この楓水は、川とさえ呼べぬ浅瀬であり、歩いて渡ったところで大人のひざ下くらいまでの水位しかない。精悍なる騎兵を有する顓軍であれば、難なく越えられるのである。


「あれが、顓彰期か」


 盧武成は、戦闘を駆ける、黒馬に跨った巨躯の男を見やった。共羽仞が頷く。


「おそらく、そうであろう。こちらがせっかく少数の兵できてやったというのに、兵が揃うのを待ち切れずに挑んでくるとは、性急な男だ」


 こちらとしてはありがたいがな、と付け加えて、共羽仞は笑った。

 一方、顓彰期のほうも、視界の先に隻腕の男を見つけ、これこそ共羽仞に違いないと思い、叫んだ。


「我は顓公が次子、顓彰期である。顓族にその人ありと言われた豪傑、共羽仞どのよ!! 私と戦っていただこうか!!」


 そう叫んで、馬腹を蹴る。黒馬がいっそう足を速めた。陣頭を駆ける将に追いすがるように、続く騎兵たちも加速していく。もはや武器を交わさずとも、その突撃の迅風だけで盧武成たちを撃滅させられるほどの勢いであった。


「弓勢、放て!!」


 一方の盧武成たちは、敵が加速するのを見ると、足を止めた。盧武成の号令によって、数多の弦音が響く。何十人かの顓兵は矢を受けて落馬したが、軍としての勢いは殺せなかった。

 敵が迫りながらも、先頭に立つ二人の将は落ち着き払っている。

 盧武成は手に戟を、腰に剣を佩いているが、共羽仞は徒手であった。

 瞬きひとつの間に、彼我の距離が縮まっていく。しかし共羽仞は、


 ――まだだな。もう少し、引き付けねばなるまい。


 と、敵との間合いを図っていた。

 そして、好奇と見るや、背後に手を伸ばす。そこには、控えていた兵士たちが、共羽仞がこの緒戦において扱うための武器を、敵に見つからぬように隠していたのである。

 それは、十尺(約二、七メートル)の棍棒であった。

 共羽仞は、剣を鞘から抜き放つようにしてそれを握ると、今まさに接敵せんとしていた顓軍の騎兵――その馬脚に向けて、渾身の力で棍棒を振るい、薙ぎ払った。

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