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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
撃鹿血戦

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187/213

顓族の兄弟

 顓無卹は法伝とともに、撃鹿の地に陣を張っている顓軍のもとへ向かった。

 困憊の顓無卹を迎えたのは、真っ赤に日焼けした巨躯の男である。剃り上げた禿頭を撫でつつ、白い歯を剥き出しにして豪放な笑みをたたえていた。

 男は顓彰期(せんしょうき)といい、顓戯済の次子である。三十を過ぎており、その逞しい容姿に違わぬ武威を誇る人だ。


「負けたらしいな、無卹。敵はそれほどに大軍か?」


 顓彰期に表裏のない声で問われて、顓無卹は言葉を返せなかった。おそらく、自分が率いていったよりも少ないのだが、そう答えれば己の無能を晒すことになってしまう。苦し紛れに、同じくらいでしたと、小さく返した。


「ならば敵に猛将でもいたか?」

「……ええ、まあ」


 嘘ではない。ただし、それが自分よりも年若い女の将であったとまでは、顓無卹は言わなかった。代わりに、


「共羽仞が、顓項の麾下におりました」


 と、口にした。これは真実であり、そして、その驍名に兵が浮足立ったことも敗因の一つではある。

 共羽仞の名は顓彰期も知っている。歴戦の猛将が敵中にあると知って、しかし顓彰期は口が裂けんばかりの勢いで笑った。


「なるほど、それはよいな。虞の王子や顓項の麾下など、大したものはおらぬと思っていたが、楽しくなりそうだ」


 顓彰期にとっては、敵に強き者がいるのは歓迎すべきことなのである。その上で打ち勝てば、それが自らの強さを証明することになるからだ。


「無卹。共羽仞どのは俺が倒すゆえに、安堵してよいぞ」

「……それは、心強いかぎりですな」


 悔しいが、力量においては、共羽仞にも、顓彰期にも届かないのだと、顓無卹は悟っている。孺子(こども)のように扱われるのは癪に障るが、兄が共羽仞に勝つことを祈るしかない。


「ところでこの地には、兄上の他にどなたがこられているのですか?」

謙鄀(けんじゃく)兄貴と、鵡涯(むがい)将軍、沙屹(さきつ)将軍だ。兵は、滎倉にいるのを合わせて四万、というところか」


 顓無卹の考えていたよりも大規模陣容である。

 謙鄀というのは、顓戯済の長子であり後嗣たる顓謙鄀であり、鵡涯、沙屹は共に顓族の軍事の中枢を担う将軍である。


「虞の王子一匹と、顓項の如き妾腹の孺子を相手に、随分と大がかりなことでございますな」


 明らかに過分である、と顓無卹は感じた。


「平和が続いたからな。皆、血に飢えておられるのであろう」


 もし顓項がこの話を聞けば、贅沢に倦んだのだ、と評したかもしれない。しかし顓戯済の末子は既に敵であり、その方針に賛同している顓無卹の口からは、なるほどという短い頷きしか出てこなかった。


「お前は俺の軍に入れ。最も武功に近い、中央の陣だ。多くの敵を屠れば、先の敗戦のことなど父上はもう、口にさえしないだろうよ」


 豪気に笑って顓無卹の肩を叩いたのは、敗戦の将となってしまった弟への優しさであった。




 撃鹿の城内に、顓無卹と法伝は復命のために呼ばれた。

 軍議などを行うための広間には既に、三人の男が座っている。

 険しい顔をした老人と、やや肥満気味で腹が丸々とした壮年の男である。


「これは、顓無卹さま。無事の御帰還、何よりです」


 肥満気味の男が、舌先に油を塗ったような滑らかさで言う。言葉には情があるが、眼は笑っていない。むしろ、媚態の色がありありと浮かんでいた。


「顓峯烈さまであれば、敵がいかなる策を用いたとて、負けることなどありませんでしたぞ」


 一方で、老人は厳しく、敗退を責めてきた。それも、父たる顓戯済ではなく祖父である顓峯烈の名を出されたため、反論もしにくいが、不愉快さもある。


「沙屹どのも鵡涯どのも、そのあたりにしていただこう。愚弟への慰撫も譴責も、それは私が行います」


 この場にいる二人――肥満体の男、鵡涯と、老将の沙屹を制してそう言ったのは、この(へや)の一番奥に座る男である。湖面に張った氷が裂けたような、冷ややかながらに鋭い声であった。


「――ところで無卹。いつまでそこで佇んでいるつもりだ? 無様に敗れておきながら、この兄の前で膝すらつけぬというのであれば、無用の足をこの場で斬り捨ててやろうか?」


 声に戯れはない。顓無卹は、すぐさま体を落とし、拝跪した。

 この人物こそが、虢からやってきた顓軍の主将であり、顓戯済の長子たる顓謙鄀である。肌は蝋のように白く、顔つきは端正で美しいが、切れ長の瞼の奥にある双眸は、蒼眼を特徴とする顓族の中にあってなお、蜻蛉玉のように澄んでいて美しいが、無機質で生物らしさがない。

 顓無卹がその美麗な顔つきから、多方で浮名を流したのと対照的に、人々は老若男女問わず、顓謙鄀の姿を見ると睥睨を恐れ、肩を震わせながら頭を下げるのである。


「まあ、そう厳しくあたってやらずともよろしいでしょう、謙鄀兄上。死力を尽くしても敗れることはあります。今は兄弟の再会をまず祝おうではありませんか」

「発言を許した覚えはないぞ。その上で俺に意見とは、お前はいつからそんなに偉くなったのだ彰期? 功罪賞罰はお前の関わるところではない、控えていろ」


 顓無卹をとりなしてやろうとした顓彰期の言葉を、顓謙鄀は酷薄な声で跳ねのけた。

 そして、顓無卹の後ろを見る。そこには、顓無卹が拝跪すると同時に床に膝をついた法伝がいた。


「そこの愚図では話にならん。北岐の地で何があったか、お前から説明しろ、法伝」

「……私が、ですか? しかしこの身はしがない陪臣に過ぎませんが」


 名指しで命じられて、法伝は困惑した。しかし顓謙鄀は、淡々とした言葉で法伝を急かす。


「許す。そして命令だ、話せ。ただし、無卹を庇い立てて虚言を混ぜれば、お前も罪に問うぞ」


 法伝にとっても、顓謙鄀は畏怖の対象である。このように言われれば、逆らうことは出来なかった。

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