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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
撃鹿血戦

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奇妙な行軍

 眩しく照り付ける太陽の輝きが、兵士たちの頬を東から撫でる。

 北岐山から抜ける北風に背を押されるようにして、一万の兵は潁段城を発進し、一路、南へと向かった。殺伐として、岩と枯れ木しかない北辺から、華やかな畿内を目指すというのに、兵士たちの顔は皆一様に強張っていた。

 姜子蘭率いる夏羿族、維氏の兵が三千。

 趙白杵が束ねる恒崋山の山賊が千五百。

 そこに、北岐三連城から兵を集めて、八千。

 三秧軍(さんおうぐん)と名付けられた、総勢、一万二千五百の兵団である。ただし、北岐三連城の八千のうち、この軍中にあるのは四千であり、残る四千は、紀犁、沙元、李遼が参集して後軍として発つので、今、潁段城から南進する兵は八千五百ということになる。


「もし顓項どのが変心なされれば、我らは終わりだな」


 そう零したのは、維氏の宿将の子たる楼盾(ろうとん)である。

 兵力だけを見れば、北岐三連城を束ねる顓項が一番多く、しかも後軍にはさらに四千の兵がいる。顓項の胸三寸次第では、姜子蘭の軍を挟撃によって潰すことも出来るであろう。


「何を為すにも、元手がないというのは苦しいものだからな。しかし地道にやるゆとりがないとなれば、背に腹は代えられぬだろう」


 そう返したのは呉西明である。

 自前の軍がないということは、人の立つうえで致命的なことなのだ。何をするにしても、兵力を有している者の存在が強くなってしまうからである。

 もっとも、先ほど三連城の兵力を八千と書いたが、そのうち半分ほどは姜子蘭に降った沃周城の兵であり、趙白杵に落とされた制周城の兵である。そういう意味では、この四千を顓項の兵と見るか、姜子蘭、趙白杵の兵であると見るかは難しいところである。

 ただし、その兵たちの中で、顓項は人気があるということに違いはないのだ。

 そして彼らは、虢にいる顓戯済たちに疎まれてきた過去があり、虢や滎倉の顓族が北岐三連城を敵と見なしたが故に、姜子蘭と共に南に向かうことを決めたのである。


「累卵というのは、今のようなことを言うのだろうな」


 楼盾は、苦々しい声で呟いた。

 しかしそんな臣下たちの危殆に反して、両軍の将たる姜子蘭と顓項は、軍中で馬を並べていた。


「ところで姜子蘭どの、一部の兵たちがおかしな行軍をしていますが、あれは何なのでしょう?」

「子狼が、撃鹿で戦うための練兵の一環である、と申しておりました」


 顓項が聞いたおかしな行軍とは、いくつかある。

 まず一つには、夏羿族と北岐三連城の兵から千五百ずつを選び、下馬して進ませたことであった。これは進軍の速さを殺すことになりうるが、それでも子狼は敢行したのである。

 他にも、自分の乗馬を、半日ごとに異なる軍のものと変えるようにとの触れを出した。しかも子狼がその意図を説明しないので、傍目には、ただただ奇妙にしか映らないのである。

 さらに、道中でも子狼は奇妙なことを兵士に命じた。

 竹林を見つけたら、青竹を多く切り集めてこい、というものである。命令であるので、兵士たちはその通りにしたが、何に使うのかは分からなかった。

 他にも、これは軍としての動きではないが、子狼は変わったことを顓項に頼み込んだ。

 滎倉を奪取するまで、顓遜を趙白杵率いる恒崋山の山賊たちの軍中に置かせてほしい、ということである。顓遜の意向を聞いた上でそれを許しはしたが、何故そのようなことを頼んだのかは、分からなかった。

 軍議の日の夜から顓遜には活気がなく――いいや、恒崋山に出兵してから今日までの顓遜は、それより前に顓項が知っていた六博と酒好きの季父とは変わって静かであり、顓項は密かに憂慮していたのである。

 一度、気風の異なるところに行けば何かが変わるかもしれないと考えたのだ。

 しかし、暫くして聞いた風説によると、顓遜はいっそう沈鬱な様子であるという。


「姜子蘭どのに頼んで、季父上を戻してもらったほうがよいでしょうか?」

「顓遜どのがそう望んでおられぬのであれば、今のままでよいでしょう。それと城主どの、私に敬語は不要ですぞ」


 強張った面持ちで問われても、その後ろに控える隻腕の豪傑、共羽仞は、酒精まじりにそう答えるだけであった。

 共羽仞は、考えなしにそう返したわけではない。顓遜が肥何に兵法を教わっている、ということを知っていたのである。それ故に、己の未熟さを痛切したがために沈んでいるのだろうと見ていたのだ。


「まあ、軍師どのはいずれ大きくなって城主どのの下へ戻ってこられることでしょう。何事も、修練の最中というのは苦しいものですからな」

「いずれ、か……」


 顓項は遠い眼をした。もしすべてがうまく運び、顓項が父兄の武威を懼れることがなくなったとして、その後、我らはどうなるのか。顓項はそれを、思い浮かべることが出来なかった。

 短い言葉の中にこめられた憂慮を、共羽仞は目ざとく読み取って、


「その時には我らも、潁段に籠っていたときよりは、よくなっているでしょう」


 と言った。


「経緯はどうあれ、我らが顓公に勝てば、虞の天子は助かるわけです。我らが顓族であっても、恩赦の一つはもらえるでしょう。それに姜子蘭どのは王子ですからな。大功を立てれば、いずれは天子となって、我らにふたたび北岐の三城を下さるかもしれませんぞ」


 確たる根拠のない展望であるが、そうなればよい、と顓項は思った。

 ただし、共羽仞が話しているのを聞いてふと、思い出したことがある。


 ――そういえば、確か子蘭どのは第四王子であったはずだ。何人かの王子は死んだと聞いたが、確か虞王には年長の太子がいたはずだが。


 姜子蘭が虞王を救うために虢より脱出したという話は聞いているが、それは、まだ十四の第四王子に与えるにはあまりにも大任である。

 虞王の血筋を絶やさぬために、太子を虢に残したということであろうか。しかし、その場合、太子がその任にあたり、姜子蘭が補員となるはずである。

 ただしそれは顓族から見た考えであり、習俗の異なる虞には、また何か事情があるのだろう、としか顓項は思わなかった。

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