軍師の妙
撃鹿に進む、ということで軍の方針は決まった。
その先――具体的にどう戦うかということを決めるため、子狼、肥何、顓遜の三軍師で仔細を詰めることになった。
他の者たちを除いたのは、子狼曰く、
「策は秘を以て為すのであり、その内容は時には君主にも秘さねばなりません」
と頑として言い切ったので、こうなったのである。
三人だけになった場で、顓遜は眉を顰めながら子狼に言った。
「敵が顓無卹率いる滎倉の兵だけであればよろしいが、懸念はあります。虢の兄――顓公が出てこないか、ということです」
滎倉にいる顓無卹の腹心、法伝のことを顓遜は知っている。法伝は用心深い性格であり、あの男であれば、あるいは初めに檄文のことを知った時には虢に早馬を飛ばしているかもしれない。
そうなれば、顓戯済の軍は間違いなく撃鹿を通るだろう。ただでさえ開きのある兵力差がさらに大きくなってしまう。
「まあ、そうなると勝ちが少し遠のくことになりますな。ですが、勝てぬわけではありません」
「……子狼どのは、そこまで織り込み済みだったのですか?」
「最悪を想定し、その上で勝てるよう廟算するのが軍師ですよ」
子狼は事に挑むに当たって、一つの策を頼みとすることはしない。常にいくつもの可能性を想定し、何が起きようともそこに当たれるように、無数の策を巡らせているのである。
そう言うと、顓遜は小さく唸った。
「子狼どのは簡単に仰るが、それはとても難しいことでございましょう」
「ええ。私の目は人の高さにしかついておりませんからな。天であれば万事を見通すことも叶いましょうが、見えぬところにあるものを見ることは出来ません」
「それでも子狼どのは、平静としておられます。実はもう、すべてのことを見抜いておられるのではありますまいか?」
顓遜は懐疑のまなざしを向ける。子狼は、実は既に顓族の動きについて知悉しているのではないかと思っているのだ。
しかし子狼は、まさか、と言って肩を竦めると、顓遜に近づいて小さく笑った。
「では一つ、顓遜どのに軍師の妙というものをお教えいたしましょう。これは、人に知られてはならぬこと故に、ご主君にも口外なさいませぬように」
そう言って子狼は、顓遜の耳に口を近づける。顓遜は、思わず息を呑んだ。
「常に笑貌を崩さず、何があっても目に自信を湛えておくことですよ」
「……はい?」
「軍師とは、喩えるなら御者でございます。車に乗っている最中、御者が、方角も分からず、道に疎いという顔をしていれば心落ち着かぬでしょう」
子狼の言い分は、まるで、虚言を押し出して主君を騙すことを善しとしているようであった。
しかし子狼からしてみれば、君主が善き策を出せぬが故に、臣下を頼む。ならば軍師の意見には君主と臣下とが責を半分ずつ負うべき、というだけのことに過ぎないのだ。
「狼狽しても良策は湧いてきませんが、心に恐懼があれば、勝てる戦に敗れることもあり得ます。それならば、心だけでもゆとりがあるほうがよいでしょう」
「それは、そうかもしれませんが……」
「それが向かぬというのであれば、軍師などやめてしまわれたほうがよろしい。軍師とは所詮、帷幄にて策を廻らすことしか出来ず、乱戦の中で剣戟戈矛を手に血風を浴びる覚悟もないままに、しかし君に仕えて功を為さんとする人でなしなのですからな」
これは顓遜に対して意見しているというよりも、子狼にとって軍師とはそういうものである、というだけのことなのだ。
子狼は姜子蘭に仕えると決まった日に、自らの才が不要となればいつでも捨ててくれと言っている。あれは本心であり、一たび失策を献じ、その咎として賜死されれば、子狼は潔く受け入れるつもりでいるのだ。
ただし顓遜にはこれまで、そういったことを考えたことはなく、それだけに、子狼の言葉が重くのしかかっている。
顓遜はこれまで軍師という役職を、制周城という流刑に等しい地における、自分に似合いの閑職としか思っていなかったのだ。
それが時勢の変遷に呑まれ、今は二人の軍師と共に、虢を攻めるための方策を考えている。
――聞けば、子狼どのも肥何どのも、維氏の下で北狄を防いできた人であるという。私は、このようなお二方と共に、この場にいてよいのだろうか?
子狼の言葉は、顓遜の心に深い翳を落としていた。
いつの間にか、日は暮れていた。虞の北端と言えど、夏の夜は熱い。盧武成は平服に着替え、潁段城の城壁の上で涼をとっていた。
その横には、大柄な隻腕の男がいる。共羽仞だ。
先日の宴席では、共羽仞は子狼や顓遜とばかり吞んでいたので、一献酌み交わしたいと共羽仞が望んだのである。
盧武成は一度は断ったのだが、
「ほう、一騎打ちで負けた相手とは共に酒も呑めぬとは、おぬし、中々に負けん気が強いらしいな」
と、揶揄うように言われたので、断りきれなかったのだ。
聳え立つ城壁の上に腰を下ろし、北岐山から颪される風を受ければ、暑さもいくらか和らいだ。
共羽仞は、二人の間に置かれた酒瓶を見ると、無言で左手を盧武成のほうへ差し出した。その手には、亀の甲羅くらいの酒杯がある。
盧武成は、不愛想な顔をしたままに、共羽仞に酒を注いだ。
「なんだ、無理に誘ったわりには、そこまで嫌がっていないじゃないか」
この場に他の誰かがいれば、共羽仞が圧をかけて酌をさせているようにしか見えないだろう。しかし共羽仞はそうは思わず、盧武成も否定はしなかった。
「共氏と呑むのが嫌というわけではありません。ただ、私は子狼のような明るい酔い方は出来ぬので、つまらないだろうと思いまして」
「酒は騒いで呑むのが良いが、静かに嗜むのもまた趣だ。虞の思想ではこういうのを、陰陽というのだろう?」
自分の酒杯に手酌で注ごうとしていた盧武成は、目を見張って顔をあげた。




