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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
三秧連衡

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179/214

君臣弟兄

 顓項が子狼の凶悪な歌声を絶賛したことで、場にいた者たちの顔は蒼白となった。

 ただし姜子蘭だけは、臣下と、自分の好きなものを褒められた喜びをあらわにしている。そして子狼は当然ながら有頂天になっていた。

 この場において最も高位な二人が認めてしまったとなると、誰も子狼の歌を止めることは出来ない。

 あるいは顓項は、姜子蘭と子狼の顔を立てて心にもないことを言ったのではないか、と盧武成は思い、紀犁に聞いた。しかし紀犁は、そういう風ではないと断言した。つまり顓項の賛辞は心からのものであるらしい。

 今、歌について談笑している三人は、他の者たちからすれば、黄泉に棲む虎が引きずり込む獲物を相談しあっているようにしか見えなかった。

 それからおよそ半刻(一時間)。子狼は五曲も、ひたすらに姜子蘭や顓項、盧武成や共羽仞を称道する歌を作り、歌い続けた。途中からは姜子蘭と顓項も一緒になって歌っていたが、元となったものが子狼のそれであるので、悪質さは増している。

 三人が満足しきった時には、誰もが、不眠不休で三日三晩戦い続けたかのように憔悴しきっていた。




 宴もたけなわとなり、場は散漫としている。呉西明、顓遜、李遼は卓に突っ伏して潰れていた。

 共羽仞は、耳から入った毒を洗い流すといって、さらに酒を呑んでいるが、彼らの耳に毒を流し込んだ男、子狼は、床に倒れて眠りこけていた。

 顓項も疲れきっており、紀犁に運ばれて自室へと戻ったが、いつの間にか、姜子蘭の姿がない。


「共どの、我が君を見ませんでしたか?」

「ん、ああ――子蘭どのであれば、先ほど外に行かれたぞ。風にでもあたりにいったのではないか?」


 共羽仞に教えられて、盧武成も外へ出た。

 気づけば、東にあったはずの日は西の地平に姿を隠そうとしており、北岐山の険しい稜線が茜色に染められていた。

 姜子蘭の姿を求めてあちこち歩いているうちに盧武成は、城壁の上で姜子蘭を見つけた。


「――我が君」

「ああ、武成か」


 姜子蘭の声は、弱々しい。見ると、頬が夕焼けに照らされて輝いていた。涙のあとである。盧武成はそれに気づかぬふりをした。


「顓項どのが友好的だといえ、城内の者がすべてそうとは限りません。一人で出歩くのはお控えください」

「そうだな、すまない。だけど少し……一人になりたくてな」

「それは、邪魔をしてしまいましたか?」


 まだ十四歳の姜子蘭が、年上の将兵たちの上に主君としてあるには、懊悩もあるだろう。姜子蘭が見せたがらぬのであれば、知らぬふりをすべきかと盧武成は遠慮した。だが姜子蘭は、


「いいや、構わない」


 と、かすれた声で笑いかけ、手招く。盧武成は臣下の身として気後れしたが、気にするなと言われたので、姜子蘭と並んで、城壁の上から夕焼けに染まる北岐山を眺めることとなった。


「武成と二人で城壁の上にいると、杏邑でのことを思いだすな。二人で、城壁から黄河に向けて飛び降りたときだ」

「そんなことも、ありましたな」


 まだ一年よりは近いが、しかし二人が出会ってからは既に一年が経っている。つい先日のようにも、遠い昔日のことのようにも、姜子蘭には感じられた。


「武成と均との旅では、色々なことがあった。均は范玄どのの下に行き、脩と子狼が加わって――今は、虢を望めるところまでやってくることが出来た」

「それはひとえに、我が君の徳の賜物でございましょう」


 諛言でなく、盧武成はそう言った。姜子蘭が宿願を諦めなかったからこそ、盧武成も子狼も、苦難の道行きを共にしようと思えたのである。


「徳、か。子狼も前に言っていたが――私に、本当にそのようなものがあるのだろうか?」


 姜子蘭は俯き、顔に翳をつくった。


「私は顓項どのに、偽の檄文のことを言えなかった」


 姜子蘭の言う偽の檄文とは、顓無卹が密偵からもたらされたものである。顓項が北狄と結び、顓戯済に反旗を翻すことを喧伝したとされるものだ。

 あれは、子狼と肥何が捏造し、流布したものなのである。顓無卹がそれを信じ込んだために、顓項は父兄と争わざるを得なくなってしまったのだ。

 子狼は先に、顓項たちを味方にしたいとだけは姜子蘭に告げていた。しかしその策が、顓項と父兄の仲を裂き、離反せざるを得なくするようなものだと聞かされたのは、つい先日のことである。


「今更、敢えて言わずともよろしいでしょう。元より顓項どのと虢の顓公はうまくいっていなかったようですからな」

「……そのようだな。しかし、嫌われているのを知っていることと、愛されたいと願うことは、両立しえる想いであろう?」


 それは顓項を(おもんばか)っての言葉でなく、姜子蘭自身、身に覚えのあることのような言い方である。

 ふと盧武成には、今更ながらに思い至ったことがある。姜子蘭は父たる虞王のことを、天子、虞王と呼ぶことはあれど、ただの一度も、父と呼ぶことはない。それは姜子蘭の生真面目さが、子としての自分を捨て、臣としてあるべきと定めているからなのかとも思ったが、そうではないのかもしれない。


 ――密勅のこともある。我が君と虞王との間にも、何かあるのかもしれない。


 臣下の身でそれを口にするのは、僭越である。それでも盧武成は、考えずにはいられなかった。


「私はそれを知っているのに、顓項どのに本当のことを言えなかった。そこに、大義があるのだろうかと考えた時に――自分を、信じることが出来なくなってしまった」

「……我が君」

「私は前に武成に、暴政を行う顓は倒さなければいけないと言った。しかし私は、本当はただ……天子に、私という子を、認めてほしいだけなのかもしれない」


 姜子蘭には顓項の心痛が――我が事のように、分かるのだ。だからこそ、自分の境遇を重ね合わせてしまい、迷ってしまった。

 そして姜子蘭の語ったことは、実父の顔さえ知らずとも、養父に多くを教わり、愛されて育った盧武成には分かり得ぬ心情である。ただし、


 ――我が君は、親からの愛情というものを知らないらしい。


 ということは、分かった。

 虞王を救うという大願も、それを為すことで父からの愛情を欲する気持ちがあり、それを大義という言葉で覆っていたのだろう。その背反が今、姜子蘭を苦しめている。

 おそらく、そういった葛藤は今までにもあったのだろう。しかしこれまで姜子蘭が戦ってきた相手は、あるいは一国の君主にならんと武力を振りかざす者であり、暴力を振りかざす劫掠者であった。だが顓項という、自らや民に害なく、ただ北辺の地で生きているだけの者を一方的な大義をかざして攻め、謀略に嵌めたことが、姜子蘭の心に逡巡を生んだ。

 そして、大義と私心の間にいる主君になんと言葉をかけるべきか――。考えるより先に、盧武成は口を開いていた。


「善を行い、徳ある者というのはきっと、己の瑕欠と向き合い、迷いながら進む者だろう。思いつめすぎるな。お前はよくやっているよ――子蘭」


 砕けた物言いである。まるで、兄が弟に投げるような、労いの言葉であった。

 まだ二人が主従でなかった時のような口調で褒められて、姜子蘭は思わず目を丸くした。口に出した盧武成も、言い終えてから我に返って、思わず膝をついて頭を下げた。


「……申し訳ございません、我が君。臣の立場を弁えず、尊大な物言いをしてしまいました」

「謝ることはないさ。前に、たまには気軽に子蘭と呼んでくれと頼んだのは、私だからな」


 姜子蘭の顔色が、少しだけ明るくなった。


「ここには、私の他には天地しかない。だからもう少し、今のように話してくれないか?」


 不敬である、という思いはある。

 しかし先ほどまでの、苦悩に耐えかねて壊れてしまいそうであった姜子蘭の顔を思い浮かべると、盧武成は断り切れなかった。


「……なら、そうだな。ある、二人の兄弟の話をしよう。兄のほうは善を好み、常に人に施しをして貧しかった。一方、弟は欲深く、利を好み、商人となった。しかし兄は、貧しいがために年に数十人を助けることしかまままならかったが、商人となった弟は、手にした財を増やすために殖産に励み、数年のうちに自らが棲む城市を数倍に富ませた。この場合、より多くの人を豊かにしたのは兄か、弟か、どちらだと思う?」


 出会ったころは気後れなくしていたことが、今ではぎこちない。それでも盧武成は努めて、かつての己がしていたように姜子蘭に問いかけた。


「……それは、商人となった弟ではないだろうか?」

「ああ。だからお前も、あまり気負いすぎるな。清廉を求めるのは悪いことではないが、善悪正邪は心根だけで決まるものではない」


 己の言説が正しいのか、自信はない。それでも盧武成は、自分が正しいと思う言葉を、姜子蘭に投げかけた。


「何よりも――俺はまだ、お前に仕えたことを悔いていない。だからお前は、そのまま進んでいけ」

「……そうか。ありがとう、武成」


 無骨な盧武成の言葉に、姜子蘭は短く返した。二人の間に、それ以上の言葉は必要なかった。

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