托生の一矢
翌日の朝。顓項は、兵を西へ向けた。制周城を奪還するためである。
だが出立より先に、密偵からの報告がもたらされた。南から、顓族の軍が近づいてきているとのことである。その陣頭には、異腹の兄たる顓無卹の姿があったという。
「兄上は、援軍を送ってくださったのだ」
ここまで報せがなかったのは、敵に存在を悟られぬためであろうと納得して、ならば、顓無卹が来るまでは潁段城で待つべきだと考えた。
だが、紀犁と顓遜は顔を青白くしている。
二人は同じ考えであり、それは顓項とは違う。どちらが切り出すかと目語していたが、やがて年長の紀犁が、重い口を開いた。
「言いにくいのですが、顓項さま。ここまで使者の一人もなく、それでいて顓無卹さまの軍が近づいているとなると――それは、我らを攻めるためにやってきた、と考えるべきでしょう」
そう言われた顓項は、急に冷静な顔をして下を向いた。
顓項も、二人に諭されるまでもなく、そのことは分かっているのだ。それでも、ともすれば南からの援軍が来たやもしれぬと思うと、その望みに縋りたかったのである。
それは、もはや孤立無援の顓項からすれば、逃避でしかない。それでも、捨て得ぬ願望であった。
しかし紀犁と顓遜は、城主を輔弼する者として直諫しないわけにはいかない。
「……ならば、どうしろと?」
うろの中から響いてきたような、力のない声である。その声に胸を締め付けられながら、顓遜は応えた。
「顓無卹さまの軍が来られましたら、まずは、こちらには大軍を迎える用意が整っていない故、まずは顓無卹さまとその近侍のみを城内で歓待したい、と申しまします。その提言に同意いただければ、顓無卹さまは援軍として来られたのでしょう」
「……断られれば、どうする?」
「その時は、城門を閉ざすべきかと」
顓遜は断言した。
今からでは、逃げるだけのゆとりもない。そもそも、逃げる地などどこにもないのである。
ただしそうなると顓項には、違う懸念があった。それは、潁段城にある将兵、城民がどうなるかである。もし顓項が援軍を請うたことで謀叛を疑われ、それがために兵を向けられたとしても、それは顓項一人の罪である。
まして、城門を閉ざしたとしても、それは顓項一人を守るための策であり、将兵が納得してくれるかは分からない。顓項らの首を刎ね、門を開くこともあるだろう。
――その時は、諦めよう。それで将兵が安撫されるのであれば、よい。
顓項は、度々、恐懼する心を宥めながら、説き伏せるように心の中でも何度も繰り返した。
そうしなければ、惰弱で姑息な自分が心の奥底から姿を現して、すべてを捨てて逃げ出してしまいたくなるのだ。
そんな葛藤の中、それでも顓項は南の城壁の上に立ち、訪れるであろう兄を待った。
やがて砂塵が巻き起こり、軍旅が姿を現す。
顓項は息を荒くしながら、動揺を鎮めつつ、顓遜の進言の通りを口にしようとした。
しかし、陣頭にて白馬に跨る将――顓無卹の叫びが、すべてをかき消してしまったのである。
「謀叛人、顓項よ。大人しく城門を開き、降るべし。さすれば将兵には寛大な処置をしてやろう。それをせぬというのであれば、女子供に至るまで皆殺しの憂き目を見るであろう!!」
顓無卹は端から、顓項を攻めるつもりで軍を進めてきたのである。しかもその言葉は、すでに顓項の叛心を確信しており、弁解を差し挟む余地はないようであった。
間もなく、顓無卹の兵は潁段城を攻めるであろう。しかし顓項は、兄とその軍よりも、周囲にいる兵たちが恐ろしくなった。つい先日までは、城主としてその進退の責を負わねばならぬ臣民であったが、顓無卹の言葉を聞いて、自分に刃を向けてくるのではないかと疑っているのである。
そんな中に、一つの、渇いた弦音が響いた。
見るとそこでは共羽仞が、左手で大弓を持っていた。口で弦と矢を咥え、矢を放ったのである。それが向けられた先は、顓無卹であった。矢は顓無卹には届かなかったが、元より、当てようと思って放った矢ではない。
共羽仞は眦を決して顓無卹を睨むと、號んだ。
「我ら北岐三城に棲む者で、顓項どのの恩を知らぬ者はおらぬ。攻めるのであれば、来るがよい!! 虢で遊び惚けておる弱卒などでは、この城市の孺子一人さえ殺せぬであろうがな!!」
共羽仞の檄に応じて、城兵たちが喚声を上げる。
顓項は城主として、三連城の将兵の暮らしに気を配り、また、賦役に応じた者に食貨を与えてきた。それらは顓項にとって、臣下の補佐があってのことであり、また、進言に従っただけであったのだが、将兵はそのことを顓項への恩と感じていたのである。
その恩に報いるために潁段城の将兵は、たとえ悉く討ち死にしようとも、顓項と命運を共にすると決めたのであった。
顓無卹は赫怒した。少し威せば、やがて城内の者が顓項を殺して開城すると踏んでいたのだが、その目論見が外れたからである。
顓無卹は、怒りのままに潁段城を攻めさせた。
だが潁段城の将兵の士気は高く、四方から攻め立てても、ついに日没まで、いずれの城門も破られることはなかった。
その日の夜。改めて軍議が行われた。顓項は、まだ目に精気はないが、それでも、気力を振り絞ってこの場にやってきたのである。
「なんとか今日は持ちましたが、向後、どうすべできしょうか?」
軍事については素人である紀犁は、顓遜と共羽仞に聞いた。
「……女子供を夜闇に紛れて逃がし、ここを墓場にして、抗戦するしかないでしょうな」
顓遜は、軍師でありながらそんなことしか言えなかった。策と呼べるものではないが、しかし、いかに士気が高くとも、潁段城が孤軍であることに違いはないのだ。
「もう一つ、採れる道はありますぞ」
共羽仞は、このような状況でも吐く息に酒精を混ぜている。しかし顓項はそれを咎めることなく、希望に満ちた目で共羽仞を見た。
「虞の王子とやらに降るのです。今であれば、我らは高く売れましょう」
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