姜子蘭の北扇陣
ここで、望諸を出た後の姜子蘭たちの動向について語ることにしよう。
そもそも姜子蘭たちが薊国に赴いたのは、虞を顓族から解放するためなのだ。
そしてそのために子狼が出した策というのは――。
「夏羿族を率いて北地を迂回し、虞に入りましょう」
というものであった。
「北から虞に入るとなると、北岐の三連城を目指すということか?」
「ご明察です、我が君」
子狼は卓上に大きな布を広げる。そこには大陸の地図があった。
まず望諸に駒を置くと、指で掴んで動かす。その軌道は、維氏の領を経由してからさらに西へ進み、南へと進路を変えてから制周城へと向かった。
ちなみにこの地図であるが、薊国や樊の三卿の領内については仔細であるが、子狼が駒を動かしたところは真っ白でほとんど何も記されていない。これは虞において未知の地であるがために詳しい地理が分かっていないためであった。
「……それは、行軍の路としてはあまりにも無理があるのでは? 進むだけでも困難でしょうし、兵站が維持できないでしょう」
そう口を挟んだのは呉西明である。曲がりなりにも商家の次子である呉西明は、ただ軍だけを動かせばいいわけではなく、むしろ兵糧や軍資の輸送こそが重要であるということを分かっていた。
「ま、そうだな。だが、それでもやらねばなるまい。そのために利幼太子から糧秣と馬をいただいたのだ。これを駆使すればやれぬことはなかろう」
子狼はさらりと言う。だが、それが途方もない困難を伴う道中になることは明らかであった。
姜子狼は顔を強張らせる。これから足を踏み入れる北地への恐れもあるが、もう一つ、それよりも大きな懸念と疑問があった。
「夏羿族の兵らは、我らについてきてくれるのか?」
姜子蘭には虞を救うという大義があり、盧武成らは臣下としてその道に付き従う。
だが夏羿族からすれば、虞の興亡などどうでもいい話であり、そんなもののために命を賭けるとは思えなかった。虞を救えば、あるいは天子から大きな恩賞を与えられるかもしれない。しかしそんな不確かなもののために命を賭ける者が果たしてどれだけいるだろうか。
「我が君の懸念は最もでございますが、ご安心くださいませ。すでに武成の手によって、我が君に従って西に向かう三千騎を揃えてあります」
盧武成は今までずっと目を細めていたが、子狼の言葉を聞いて姜子蘭から視線が向けられると、小さく頭を下げた。
「我が君。子狼の言葉には、足りていないところがございます」
盧武成は、子狼に抱いている不服を姜子蘭に向けないように、顔をやや伏せている。
事ここに至るまで主君たる姜子蘭がこの策について知らなかったことを盧武成は、今はじめて知ったのだ。つまり盧武成は、策の根幹は主君に対しても軽々と話すべきではないという秘密主義の片棒を担がされたことになる。
「足りていないところというのは?」
「それは――」
盧武成が説明しようとしたのを、子狼が制する。そして姜子蘭と呉西明の二人を交互に見た。
考えてみろ、と目線が告げている。子狼は策を献じはするが、姜子蘭にはただ自分の策を何も考えずに採る君主にはなって欲しくなかった。呉西明についても、これから部将として下知を与える相手であれば、自分が立てる策について多くを語らずとも理解してもらいたいと思っていたのである。
「まあ、まだ時はございますので少しお考えください。なんでしたら我が君は、西明と相談してもかまいませんぞ」
そう言われたので姜子蘭は呉西明に近づく。虞の王子で、しかも主君が眼前にいるというのが呉西明にはどうにも落ち着かなかった。しかし姜子蘭は無垢な表情で、
「二人いれば、あるいは子狼の智慧に追いつけるかもしれない」
と明るい声で言われたので、呉西明としても無下に出来なかった。
二人は地図を見ながら、先ほど子狼が動かした駒の経路を思い出しつつ、頭に血をめぐらせる。
「子狼どのの策では、維氏の領を通るようですな。そこに何かがあるような気がするのですが……」
「そうだな。私もそれは気になった。維少卿はいくつかの北狄と親しくしているが、夏羿族とは交流がなかったように思う。迂闊に近づくと、争いになるかもしれないだろうから、むしろ維氏の領は避けるべきだと思うのだが……」
「維少卿は有名な尊王家であり、子狼どのは維少卿の縁者だと聞きました。その忠義と縁を頼んで、軍資や兵を借りようという算段ではないでしょうか?」
「いいや、それはないだろう。維少卿は北の勲尭と戦っている。我らに兵を貸すようなゆとりはない」
それがために、維弓を頼りながら維氏領を出ることとなった姜子蘭はそう言い切った。
そういう事情を知らない呉西明は、姜子蘭に説明されていっそう疑問を深めた。こうなると、ますます北地を横断して虞の北側に出るという行路に危険が増す。夏羿族という北狄の兵を連れて虞の諸侯国の間を通れないはしないのだが、これではまるで――維氏と勲尭との戦いに巻き込まれにいくようなものであった。
そう考えた時、姜子蘭と呉西明は急に眼を見開いた。
「なあ子狼、一つ聞きたい」
「何でございますかな?」
「勲尭はもしや、夏羿族をも併呑しようと考えていたりはしないか?」
おそるおそる、という聞き方であったが、子狼は声を立てずに笑った。
「ご明察です、我が君。西明も同じ考えのようですな」




