壮士強兵
姜子蘭と盧武成は駿馬を飛ばし、どうにか夕刻、利幼と約束していた会席に間に合うように宿営に辿り着くことが出来た。
その日の夜、姜子蘭と利幼は心行くまで歓談し、数日の旅程を経て、無事に望諸城へと入った。
そしていよいよ、姜子蘭一行が薊領を出る日がきた。まだ朝がうっすらと白み始めた時刻、望諸城の北門まで見送りに立った利幼は、なおも名残惜しそうな顔をしている。
「王子が我が国を訪れ、混乱と戦火から薊国を助けていただいたことは忘れません。天子の威徳が地に満ちんことを北辺の地から祈っております」
「こちらこそ、太子には多大なる援助をいただきました」
「いえ、王子から受けた恩を思えばこの程度は問題ありません。後日、約束通りの場所に運ばせていただきます。王子にはどうか――武運のあらんことを」
こうして、利幼に見送られて姜子蘭一行は旅立った。目指す地は虞の都、虢のある西ではなく、夏羿族ら北狄のひしめく胡地である。
「颶風轟々 颶風は轟々として
命数座空 命数は空に座す
戦火至頂 戦火頂に至り
灰燼天出 灰燼より天は出ずる」
「なんだ、“武王之賦”か?」
子狼が風に乗せるように歌い上げたのを、盧武成は聞き逃さなかった。それは、かつて焱朝が暴虐を極めていた時に巷間で歌い上げられたものである。
天子の暴政によって荒れ果てた世を嘆き、この動乱が極まった時に、暴君によって虐げられた灰燼の苦しみの中から新たな天子が生まれるだろうという詩であった。
その天子、詩で言うところの、灰燼より出づる天というのが虞の武王のことであり、虞の詩学においては“武王之賦”と呼ばれているのだ。
「ああ。我が君のこれからを想えば、自然と口から出てきた。今の世と我が君を見て、これほど時宜に適した詩はあるまいよ」
「ふうん、子狼ってば、お酒が入ってなけりゃ、聴けるくらいのものは歌えるんだね」
脩は詩の意味は分からないので、代わりにとりもめもない言葉を投げる。
それは盧武成としても思ったことであったが、そちらは口に出さなかった。そしてもう一つ思ったのは、わざわざ“武王之賦”を選んだことに何か意味があるのではないかと感じたからである。
――こいつはどうも、俺とは異なる方向に、天子や王朝というものに懐疑的であるようだからな。
そう思いつつも、盧武成は黙り込む。
姜子蘭はと言うと、子狼の詩に自らの祖たる武王の業績を思いながら、虞の王子の顔をしていた。しかし相好を崩すと、
「確かに武王は偉大な天子である。しかしこれから赴くのは我らの戦いだ」
と口にした。そして、馬を止めて振り返り、皆を見る。
「武成、脩、子狼、西明。この先にあるのは艱難辛苦の激戦であろう。それを承知の上で、ついてきてくれたことを嬉しく思うぞ」
姜子蘭は虞の王子ではあるが、一片の土地、少しの財産も持っていない。もし大願が叶って顓に勝てたとしても、彼らに確実に報いることが出来る保証はないのだ。そして盧武成たちは、そのようなことは承知で姜子蘭に付き従っている。
その思惑は各々にあるのだが、姜子蘭のために命を賭す覚悟だけは共通している。
「ならば、我らの前途を歌うには、往古の先人を称道するために作られたものではないだろう。子狼――ここで一つ、私たちの道行きを寿ぐ詩を歌ってくれ」
姜子蘭が冬の空のような澄んだ顔で口にしたその瞬間、盧武成と脩の顔が強張った。
「……あのさ武成。なんか、すごく子蘭にやめてって言いづらい雰囲気だよね?」
脩は武成に小声でささやく。小難しいことは分からずとも、それくらいのことは脩にも分かった。
「……まあ、な。だが、今までの子狼は酒に酔って歌ったからああなっていただけで、素面であれば存外普通かもしれんぞ?」
そう、まだこの場の誰も、素面の子狼が自作の詩を口にするのを聴いたことはないのだ。そこに盧武成と脩のわずかな望みがある。
一方の呉西明はまだ子狼の歌の被害に遭ったことがないため、盧武成と脩が何に怯えているのかが分からないでいた。
そして、名指しで詩作を求められた子狼は上機嫌でいる。
「ではこの不肖、子狼。畏れ多くも我が君と、我ら王子に仕える同朋のために歌わせていただきましょう」
「うむ、頼むぞ子狼」
姜子蘭から期待の熱を向けられて子狼は、少し気負いつつも腹に空気をため込んでから口を開く。
「天威翳戎暴 天威は戎暴に翳り
万民喘塗炭 万民は塗炭に喘ぐ
王子空漂白 王子漂白を空しくす
百殃聳巍々 百殃巍々として聳えるも
大徳銷悉之 大徳悉く之を銷し
従壮士強兵 壮士と強兵を従える
身去北辺兮 身は北辺に去るとも
志在畿内兮 志は畿内に在り
若我君敗死 若し我が君敗死すれば
之則天謬也 之則ち天の謬りなり」
かつて維氏の領で子狼は、天よ我が君を御照覧あれと歌った。しかし今は、もし我が君が道半ばで倒れることがあれば、それは天のほうこそが間違っているとまでの大言を吐いたのである。
そして、意気軒昂にそう歌い上げた子狼の声は――やはり、この世のどんな騒音よりも耳障りなものであった。
盧武成と脩はたまらず耳を抑えたが、呉西明は、姜子蘭が楽しそうに聞いているのを見て、歯を食いしばりながら直立して最後まで聞き終えたが、子狼の歌が終わったのと同時に棒のように地に倒れてしまった。
「おや、どうした西明? 子狼の歌に感極まってしまったか?」
そんな呉西明を見ても姜子蘭は無邪気にそう言うばかりで、子狼の歌声に問題があるとは微塵も思っていない。しかもその言葉に気を良くして、子狼はさらに上機嫌になった。
「……俺は、誓って我が君に忠を尽くすが、この悪癖だけは、改めて頂きたいものだな」
「……じゃあ、はっきりと言っておくれよ。私は、主従ってのはよくわかんないけどさ……言いたいことは、ちゃんと言うのが、正しい人と人との在り方ってもんじゃないのかい?」
そう語る盧武成と脩は、まだ割れるような頭痛が尾を引いていた。だが盧武成は、いずれは、と言葉を濁す。盧武成たちにとっては耐えがたい苦痛であるが、これから艱難に挑む姜子蘭が勇気づけられているのであればそれでよいと思ったからだ。
こうして、姜子蘭とその臣下は北地へと向かう。
そして凡そ半年の間――彼らの足跡は史書から消えたのだった。
第四章はこれにて終わりです。明日よりは第五章「北岐烈風」編が始まります。
そして――明日より暫く、姜子蘭一行は出てきません。視点が移ります。
引き続き「春秋異聞」をよろしくお願いします!!
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