姜子蘭と均
年が明けてから三日。
孟春の寒風が吹き荒び、太陽の熱を凌駕している時に、姜子蘭とその一行は甲燕を立ち去ることを決めた。
その一行を見送るべく、利幼は薊国の北端、望諸まで同行することを決めた。それも、わずかな侍従のみを連れ立ってである。
姜子蘭は三度に渡って断ったのだが、利幼のほうも頑なであり、姜子蘭は最後には根負けしてしまったのである。
政治のことは子伯異と辛明に任せていた。辛明も、利幼が姜子蘭を送ることに異は唱えなかったが、護衛として蒼子流を同行させることを条件とした。
こうして姜子蘭は盧武成、子狼に脩。それと、新たに臣下の列に加わった呉西明を率い――大量の荷車を引き連れて北へと向かったのである。
なお姜子蘭の一行は、唯一、呉西明が徒歩であり、他の者はすべて乗馬している。
「あーあ。どうせならもう少しくらい均とゆっくり話したかったね」
脩は少しだけ名残惜しそうな顔をして見せる。
「ああ、士直どのが連れていたあの少年か。なんだ、好いてたのか?」
真っすぐに揶揄ってくる子狼を、脩は細めた横目で睨む。
「そういうのじゃないよ。均は、子蘭や武成と一緒に旅をしてたらしくてね。その時の話を色々と聞けたのが面白かったからさ」
「ほう、そりゃ興味深いな。何か面白い話は仕入れられたか?」
「そうだね。一番面白かったのはやっぱり、武成が子供を泣かせた話だね」
脩がそう口にした途端、姜子蘭は哄笑した。それと反対に、盧武成は思わず叫び、脩の口を止めようとする。しかし子狼はそれを制して脩に続きを促した。
「ああ、別に暴力を振るったとかそんなんじゃないよ。均のご主人様のとこに初めて顔を出した武成が、均のお仲間の子に声をかけたらさ――その子、武成の顔があまりにも恐いんで、それだけでおっかなくて泣いちゃったんだって」
それを聞いた子狼はけらけらと笑う。脩も、話しながらおかしくなり、声に笑気が混じっていた。
盧武成は顔を朱色に染めて怒っていた。しかし、主君たる姜子蘭が誰よりも腹を抱えて笑っているので、強く抗議出来ずにいる。
「まあ、よくよく考えたらそうなるよね。私だって、最初に会った時は虎に襲われてたから気にならなかったけれど、何もなしであの顔に迫られたら、逃げるか泣くか、そうじゃなきゃ弓に矢を番えていたに決まってるさ」
「まったくだな。俺だって、味方として対面したからこそ平静でいられたが、敵としてあの顔と対峙していたらと思うと恐ろしさで肝が潰れそうだぜ」
脩と子狼は頷き合って笑っている。そしてその近くでは呉西明が、困ったような顔をしていた。
「まあその、師匠のお顔は……勇ましくあると、自分は思っております」
呉西明は大真面目に言っているのだが、頭でそれを理解していても、盧武成は自分が励まされているのか貶されているのかがすぐには分からなかった。
「子蘭はどうなのさ? 武成の顔を始めて見た時、恐ろしいとか思わなかったのかい?」
脩にそう聞かれて、姜子蘭はまだ腹を抱えて笑っていた。その目には笑いすぎて涙さえにじんでいる。
「さあ、どうだったかな? もう私は覚えていないが……脩も子狼も、そのあたりにしておいたほうがいいぞ。そうしないと、武成の恐ろしい顔が、さらにおっかなく変貌してしまいそうだ」
「我が君!!」
盧武成はついに堪らなくなって腹から声を挙げた。それでも、かつての旅の道中の癖から子蘭と呼び捨てることなく、主君として呼びかけたのは、盧武成の生来の真面目さが優ったからである。
盧武成に怒鳴られて姜子蘭は、笑いをかみ殺しつつ、形だけ盧武成に謝った。
「それで脩、他には何か愉快な話はないのか? こうなると好奇の心が騒ぐからな」
子狼にそう促されて脩は少し考え込む。脩は均と、姜子蘭たちが練孟、岸叔の二公子と争っている間に色々と話をしたのだが、今のものが一番愉快な話だったのである。
しかし考えながらふと思い出し、笑いを抑えて口を開いた。
「そういや、はじめて会った頃の子蘭は偉そうで嫌な奴だった、って言ってたね。言われてみると確かに、今はそこまでだけど、私と最初に会った時の子蘭はむかつく奴だったもんな」
その言葉に、姜子蘭の笑声が止んだ。そして場が凍り付く。この場にいる者は、脩を除けばすべて、姜子蘭のことを主君と仰ぐ者である。その姜子蘭に対して誹謗ともとれる言葉が投げられたことで、言葉を失ってしまったのである。
「……そうだな。そのことについては、返す言葉がない。今が有徳だとは思わないが、あの頃の私は不徳を極めていたとしか言えないよ」
だが姜子蘭は声を静め、自分を殴るような鈍い言葉で、かつての自分について述懐した。
そして脩は、姜子蘭が自省していることさえも気にせずに言葉を続けた。
「だから均は、久しぶりに会った子蘭が、自分のことを真剣に案じてくれたのが嬉しかったとも言ってたよ。ほら、悪党に襲われてたのを助けたあの時にさ」
薊国の領内に入ってすぐのことである。士直の率いる馬車隊が岸叔の兵に襲われていた時、姜子蘭はどう動くべきか決めかねていた。しかし、その一行に均の姿を見つけと、必死の形相で駆け出したのである。
「均の奴、寂しそうにしてたよ? 自分と子蘭とじゃ身分が違うからとか言ってたけど、もっとお前と話したそうにしてたんだぞ。それなのに、戦だの交渉だのが終わると早々と甲燕を出るとか言い出すんだから、今ごろ均の奴、泣いてるんじゃないかい?」




