大義と小義
盧武成と子狼は外法の術士たちが薊国の混乱を望んでいると考えた。
しかしもう一つ、二人にとって最も危殆すべきことがある。それは、彼らは姜子蘭のことを脅かそうとしているのではないかということである。
無論、そう判断する確たる根拠はない。しかし、二度とも姜子蘭のいる場に現れたことを思えば、警戒してしすぎるということはないのである。
まして、ここから姜子蘭の大志――顓を破り虞を救うという目的は大詰めに向かうことになる。
二人は話し合い、常に姜子蘭の下にはどちらかが付き添い、また、夏羿族の密偵である羊と牟にも影から姜子蘭の身辺を警護させることにした。
「さて、それじゃあ幻妖な話はこのあたりにして――もう一つの問題を片付けに行くとするか」
そう言う子狼は、少なくともその顔は、先ほどまでの深刻な表情を跡形もなく消していた。
そして盧武成は苦い顔をしている。これについては子狼に非はなく、盧武成自身が、未だどう向き合うべきかということを自分の中で決めかねているからであった。
子狼が与えられた部屋に二人は向かう。扉を開けると、そこでは一人の若者が縛られて床の上に座っていた。つい先だって、田仲乂の命令で姜子蘭の命を狙った男――呉西明である。
呉西明は扉の先に二人の姿を見ると、目線を泳がせた。
盧武成のほうも、困ったように頭に手を置いている。
「なんだよ、気持ちの悪い師弟だな。そういう反応が許されるのは生娘だけだぜ」
子狼は二人の複雑な心境などお構いなしで、しかめ面をしてため息を吐いた。
「とりあえず、西明。こいつを見ろよ」
そう言って子狼は懐から書簡を取り出して呉西明の眼前に吊るす。
それは田仲乂の署名が入っており、自家の客将たる呉西明を子狼に託す旨が記されていた。子狼は甲燕に帰ってから、辛明と共に田仲乂に会い、呉西明が命乞いをした旨を口にしたのである。その対価としてこの書簡に署名をさせたのだ。
「これでお前の、くだらない命の恩とやらは消えたわけだ。というわけで、先に我が君に誓ったことを履行してもらうぞ」
子狼の言葉はいつになく辛い。
「なんだお前? こ奴が……西明が、我が君の命を狙ったことを根に持っているのか?」
盧武成にそう問われて子狼は首を横に振る。
子狼は呉西明に対して腹を立てているが、その理由は全く異なるところにあった。
「俺はな、こういう才気があって性根が据わっているくせに、大義よりも小義を重んじるような奴が嫌いなのさ」
「小義、ですか……? それは私が、田仲子に助けられたことに恩義を感じていたことを仰っているのでしょうか?」
呉西明は縛られたまま、言葉に怒りを込める。しかしそんな苛立ちを軽く流して、子狼は頷いた。
「お前が受けたのは所詮、一飯の恩に過ぎねぇよ。それを命の恩だと思って、刺客にまで身をやつすなど愚か以外の何物でもないさ」
「……どうやら貴方は、忘恩の人のようだ」
「そんなことはないぜ。俺が言っているのは、恩返しは相手を見ろと言っているんだ。飽食を貪る貴族に一度の美食を与えれるよりも、飢えた貧者に一掴みの稗を分けてもらうほうが尊い。田仲乂にとってお前一人を客に迎えた程度で己の腹が痛むわけでもなく、それでいて恩を振りかざして他者を摺り潰そうとするような小人のために命を賭けるのは愚かだということだよ」
子狼はさも自分が正しいかのような顔をしているが、この言い分には呉西明だけでなく盧武成も眉をひそめている。盧武成としては、受けた恩を重んじたがために自分に矛を向けた呉西明の心境もまた理解出来るのだ。
そして子狼は、そんな盧武成のほうを見ると、呆れたような顔をする。
「だいたいお前らは恩義や義理というものを、まるで聖人君子のみが用いる尊い行為のように思って美化しているようだが、俺に言わせてみれば、むしろ悪人のほうがよっぽどそいつらを用いるのに手慣れているのさ」
子狼はいつになく饒舌であった。
「言い換えれば、人でなしほど恩着せがましいということだよ。真に悪性が染みついていて、悪行を得意とする者は、大それた悪事を一人で行えないということを知っている。だから、部下や他人には手厚くして、義理を欠く者を許さないのさ」
子狼の弁を聞いている二人は、段々とそれが、正論なのか詭弁なのか分からなくなってきた。
呉西明には、よく回る舌先で自分を貶しているようにも思えたのだが、しかしなまじ付き合いのある盧武成は、その言説の正否はともかく、子狼が、それを理由に呉西明に心底怒っているということだけは理解出来てしまったのである。
――相変わらずこいつは、捻くれながら純粋な男だな。
そもそも、盧武成と子狼がここに来たのは、呉西明を説き伏せて姜子蘭に臣従させるためである。それなのに子狼は怒りを顕わにして自説を展開していた。これでは意味がないではないかと思ったその時、子狼がわずかに首を傾けて盧武成を見る。
それで、盧武成は子狼の意図を察した。
「まあ、西明。この男は、かなり屈折してはいるが……詰まるところは、己が心から信じられるもののために命を賭けろと言っているだけなのだ」
子狼は、自分が悪者になって呉西明を煽ってから、盧武成に絆させるつもりだったのである。
効果は覿面で、呉西明は盧武成の言葉に純朴な疑問を向けた。
「俺としても、お前につまらぬ死に方をしてほしくないとは思っている。お前は俺にとって、大切な弟子だからな」
それは盧武成の本心なのだが、子狼の仕込みに付き合わされているかと思うと、それを口にするのが妙に歯がゆい。嘘を吐いていはいなくとも、言葉がうわずっているような気がした。しかし呉西明の胸を震わせるのには足る言葉であった。
「ですが、私は師匠に矛を向け、そのご主君を狙う刺客にまでなったのですぞ?」
「俺のことなど気にするな。そして、我が君に対して後ろめたさを感じているのであれば、その身命を我が君の大願のために使ってほしい」
尊敬する師匠たる盧武成にそう言われて、呉西明は嗚咽していた。そして、姜子蘭に臣従することを誓ったのである。
これで、事は丸く収まったのだが、盧武成は一人、釈然としないものを感じていた。




