節義と恩義
ここで呉西明の事情について説明しておかなければならない。
盧武成が呉氏に預けた剣を持って東へ向かった呉西明は窮国を目指していた。
窮国は風姓の国であり、その国祖は虞の開祖たる武王の功臣、風於菟である。この風於菟は武王四桀と呼ばれる虞開廟の四大功臣の一人であり、それ故に窮国の君主は代々、尊王の心が強かった。
しかし奄に国都を追われてより後は虞に対して懐疑的である。
それは窮の公族を東に追いやった後、奄が自分たちを正式に虞の諸侯として認めて欲しいと願い、美女と宝物を携えて虞に使者を立てた。そして虞王がそれを聴許したからである。この時の虞王とは姜子蘭の祖父たる虚王であり、奄から虚王に送られた美女というのが、傾国の悪名高い夏娰なのだ。
つまり虞の凋落は窮国の都落ちから始まったともとれる。
だからこそ、今は虞に対して好意を持っていない窮を敢えて頼みとし、助力して奄国を倒し、そのまま窮国の兵を借りて虞を助けるのという方策を姜子蘭は取った――いいや、盧武成がそう進言したのではないかと呉西明は考えたのだ。
しかし旅をどれだけ続けても姜子蘭と盧武成の足跡は見つからず、それどころか呉西明は奄国に入ってから暫くして、山賊に襲われて盧武成の剣を奪われてしまったのである。
呉西明は山賊相手に奮戦し、手にしていた槍で二十人を打ち倒したが、それでも山賊は少しも減ることがなく、呉西明は恥を忍んで逃げだした。そうして路銀も何も持たず、当てもなく彷徨して飢えているところを田仲乂の気まぐれで拾われて今に至るのだ。
呉西明は生来、気性が激しく、それ故に義理堅くもある。
田仲乂がいかに性根の歪んだ尊敬出来ない人物でも、命の恩を受けたとあれば、その恩は返さなければならない。
なので呉西明は、他国の使者への刺客という不名誉なことであっても、田仲乂の命令とあれば断ることが出来なかった。
田仲乂にとって呉西明などは都合の良い駒に過ぎず、死んでも問題ないと思われていること。
呉西明はそれを承知した上で、田仲乂の命令に頷いた。
そして、そういった思惑が分かっていても、呉西明は義理を通すために刺客の任を全うするであろうこと。
田仲乂は呉西明のそういった愚直さを承知の上で、自らの悪心を取り繕おうとさえせず、それでいて呉西明が逃げ出すことなどないと考えていた。
子伯異を正使とする薊国の正使は、殷丘から一日のところにある小殷という小城にまでやってきていた。
奄男は薊国の使節を正式に小殷に招き、歓待したのである。
与えられた宿舎は決して大きなものではなかったが、ここまで夜営続きであった将兵にとって、建物の中で眠れるということは有り難かった。
ところがこの小殷に、薊国の使節団よりも先に密かに入った一団があった。呉西明を頭目とする、田仲乂の刺客たちである。流石に五十人の兵が守る使節に一人で忍び込んで正使と副使を殺すということを一人で為せるとは思わず、田仲乂は自分の家臣十人を同行させたのだ。
この刺客団は小殷のはずれにある小さな宿屋を拠点として薊国の使節についての情報を集めた。
率いる将、正使と副使は誰であるのか、そして与えられた宿舎の構造やその警備の状況など、事を為すために必要なことはすべて集めたといってよい。
――副使は姜子蘭という少年か。
田仲乂の家臣たちは姜子蘭のことなど知る由もない。しかし呉西明だけはその少年の素性について知っていた。
同時に、自分の武術の師たる盧武成の主君であるということも分かっている。
自分がやろうとしていることは師への不義であり、そして虞王朝の命脈を断つことにもなるかもしれない。そう思うと葛藤が押し寄せ、背筋に冷たい汗が流れるのを感じたが、それでも呉西明には、暗殺を断念することは出来なかった。
受けた恩義に報いること。それは呉西明にとって何よりも重いことなのである。
――いっそ、師匠が王子に同行してくれていれば気が楽だったのだが。
もし盧武成がいれば、かつての弟子と言えど主君の敵となった呉西明を戟の一撃で絶命させることだろう。呉西明としても、命を賭けて暗殺に挑んだことで田仲乂への義理を通したことになる。
しかし調べたところ、薊国の使節の中に盧武成はいないようであった。田仲乂の家臣の中には先の遼平の戦いで盧武成を見た者もおり、その者が確認したのでこれは間違いのない事実である。
――せめて、虞の王子に天運があらんことを祈ろう。
自分でその命を狙う相手に、幸運によってそれが阻止されることを祈る。実に矛盾して、かつ支離滅裂な思いであるが、呉西明は真剣なのである。
そして、田仲乂の家臣たちとともに算段を練っていた、その時である。
不意の拠点にしていた部屋の門が開いた。そこには一人の男が立っている。その顔を見て、偵察にいった男が飛び掛かった。
「こいつは薊国の兵を束ねる将だ!!」
そう叫ぶと他の男たちもそれぞれが武器を手に取る。自分たちの計画が露見したと思ったからだ。
しかしその男――李博は、飛び掛かって来た男を躱し、軽く足を払って転ばすと、くつくつと笑って呉西明たちを見た。
「まあ待て。確かに俺は薊国の将だが、お前たちを殺しに来たわけではない。むしろその逆で、お前たちの陰謀が円滑に運ぶように助けてやるためにやってきたのだ」




