12『トゥルー・ブルー』②
「父は月のコロナ猫。母はクラウン印の青い薔薇。養母はラミアの娘。師はモルモーの息子。材料は夜の意志とヴォーパルのホムンクルス。おまえの命は小さく偉大な魔法の鍵。虹の境界へ行く十字星。薔薇は散らず。猫は眠らず。蛇は影の中。ゆりかごは夜の果ての裏側。微睡みは暁とともに。忘却の管理人は夢の島の岸にいる」
意識の暗闇から光が差し、意思が急速に浮上する。映画やコミックのような、派手な光効果なんて起こらない。魔人は宿主の陰から浮上して瞼を上げるだけだ。
「……ジジ? ジジ! 」
「ふあい……」
「眼が覚めたか? 」
「……どういう状況? 」
眠気にぼんやりとして揺れる頭を抱えて、ボクはあくびと一緒に目の前のサリヴァンに問いかけた。
サリヴァンの陰から文字通り這い出たボクは、重い瞼を拭いながら、霧雨と、膝裏に感じる湿った土や植物を感じている。背後には森。前方にはなだらかな丘と、半ばから断ち切れた崖。その先に黒光りする海が見えた。
「リリオペの丘……アルヴィン皇子との待ち合わせ場所だ」
「ヴェロニカのフィールドワークのルートなんだ。なんでも、地殻変動で、貴重な古代の地層が浮き上がっている場所らしくって」
「……そういえばロニー姉さん、そういう論文書いてたな」
「でも、どうしてアルはここを指定したんだ? あたりには森ばかりで何も……」
「いいや、それがあるんだよ。兄さん」
ヒューゴ皇子の視線が、海の方向を向いた。
そこには波を尖らせた海が、暗い海よりなお深く、底が見えない黒に染まっている。ボクは立ち上がり、ヒューゴ皇子の視線の先をぐるりと見渡した。潮の香りが海風に乗って吹き付ける。
「……あっ」
海岸線を記すように、等間隔で点々と、黄色と黒のシマシマの旗が海風になびいている。雲の中から出た飛鯨船へ、ルートを示すための旗だ。
「ここは、ちょうど飛鯨船の上陸地点なんだよ」
タイムリーに、視線の先の黒雲の内側が菫色に一瞬光った。重く何層にも重なる雲は、ずいぶん低い位置にある。雲の薄い場所を掻き分けるようにして、その一隻はボクらに向かって一直線に向かってくる。
ついに、その漆黒の機体の腹に描かれた魔除けの眼が見えるまでになった。駆動音は、潮騒とのコーラスで轟音となってボクらの内臓を叩いている。
「サリヴァンじゃないか。超いいところにいるじゃない。首尾は上々? 」
『ケトー号』から、スピーカー越しの聴き慣れた声が降り注いだ。
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この地上に、たった一つしかない『星』がきらめく。感情の暴風雨に晒される理性の火は、かろうじて消えていない。
風を斬り、縦横無尽と空と陸の間を駆けるアルヴィンには、もはや余裕など残されていなかった。大地を覆う絨毯のように広大な『群れ』が、森の梢の上を木々の緑を飲み込みながらアルヴィンに迫っていた。
どこからともなく湧いて出た魔術師の手下たちは、執拗にアルヴィンを狙った。
それは、一つ一つは森と同じ深い緑色をしている。その深緑のローブが外気に晒されているようすを初めて目にしたアルヴィンは、それが木々の恵みそのものの色だったことを察した。風に捲りあがった顔は、頭蓋に皮が張り付いた新鮮な死体のようで、白く濁った複眼は無機質なほど純粋なる欲望を孕み、歯の無い灰色の咥内を晒して幼児のような声で高らかに合唱している。
――――崇め湛えよ。我らがあるじ。奈落の王にして蝕の王。大いなる食事に感謝せよ。飽食は我らがつとめ。目玉を捧げ、前菜に指のソテー。脊髄のスープ。森と家畜のサラダ。腸詰の血煮込み。手足のロースト。デザートは脳髄のゼリー寄せ。
小山ほどにも膨れ上がった群体の欲望が、全てアルヴィンに注がれている。その視線だけで、アルヴィンは抱えきれないほどの恐怖を感じた。あんなものが差し出していた食事を口にしていたかと思うと、それだけで心が挫けそうになる。
しかし、恐怖は理性のタガになることをアルヴィンはもう知っている。この恐怖に呑まれてはならない。
肉体を蝕んでいる灼熱の痛みだけに意識を向け、頭にあの夏の日の、雪原のような白に染まったリリオペの丘を思い浮かべる。
――――アル、ヒューゴ。綺麗な場所でしょう?ここはね、ローラ母さんに教えてもらった秘密の場所なのよ。兄さんたちには内緒。約束よ―――――。
(姉さん……兄さん……)
――――崇め湛えよ。我らがあるじ。蝗の王にして神の毒。混沌の蛇のきょうだいよ。あらゆる食事は赦された。我らいまこそ飽食に耽るとき。目玉を捧げ、前菜に……。
不気味な歌が聴こえてくる。
サリーは森を染める冒涜的な群れたちを、「アバドンの蝗」と呼んだ。
「アバドンの蝗は、銀の民を最終的に滅ぼしたっていう、神の持つ災厄だ」
「あれも審判なの? 」
「ンなわけあるか。アバドンは神の毒、神罰の担い手なんだ。審判の途中で出てくるなんて、ルール無視の強制執行じゃねえか! 」
ボクらは皇子たちをケトー号に託して飛び出した。サリーの手には、ヒースから渡された一本の箒が携えてある。
いや、箒とは謂うものの、それはもう掃除のための道具ではない。立派な『乗り物』だった。魔法使いではない者の感覚で例えるなら、それは軽車両に属する。
魔法の杖の発展型で、持ち手に魔力をこめるために銀色の金具がついている。
柄の真ん中にあるヘラのような座席部分には、跨ったときに折りたたんだ脚を補佐するための翼形のシートが両脇に突き出ており、筆状になった下部には植物の繊維の代わりに、いくつも丸い穴が空いた金属製の円柱が取り付けられている。
サリーは丘の上で箒に跨ると、持ち手の金属を握って地面を蹴った。円柱の穴からこめた動力が白い炎のように吹き出して、勢いよく浮上しながら前進する。
箒は丘の上を山なりに跨いで飛行したあと、放たれた矢のようにスピードを得た。サリーは前のめりになってシートの内側に足を畳むと、箒の柄を異形の蝗の群れへと向ける。
「……いた! あそこ! 」
並走するボクが指差す先を、サリーは強く睨みつける。
……いや、単に、近眼でよく見えなかっただけなのかもしれない。
皇子はもはや、真っ赤に燃える流星そのものだ。真っ黒な空に星図を描くように逃げ回っている。蝗たちは、じわじわと真綿を締めるようにアルヴィン皇子の行く手を阻み続けていた。
「こっちだ!皇子! 」
「駄目だ。聴こえてない! あんまり近づくと、こっちも目ェつけられるぞ! 」
「ならボクが行く! 」
あっけに取られたサリーと目が合った。
「ボクなら、あいつらの隙間をくぐり抜けて、皇子のところまでいけるだろ? 」
「……できるのか? 」
「ボクはキミの魔法だよ。それに、考えなしってわけじゃない。キミと違ってね」
「……ふ」
サリーの唇に、ニヒルな笑みが浮かんだ。サリーは杖を取り出してかかげる。
「行けッジジ! 活路はおれが拓く! 」
「……ああ! 任せなよ! 」
身体の質量はそのままに、体積が膨れ上がり、黒霧となって空気に広がる。
「父は月のコロナ猫。母はクラウン印の青い薔薇。養母はラミアの娘。師はモルモーの息子。材料は夜の意志とヴォーパルのホムンクルス。おまえの命は小さく偉大な魔法の鍵。虹の境界へ行く十字星。薔薇は散らず。猫は眠らず。蛇は影の中。我が名はサリヴァン! おまえの意志は我が意思として放たれん! 」
サリヴァンは髪留めに手をかけ、髪を風に躍らせた。首の後ろに杖を回し、ナイフに姿を変えたそれが、サリヴァンの暗い赤毛をざっくりと切り裂く。
―――――髪を通して宿り主の力を吸った『銀蛇』が、まばゆい白に輝く!
「ここに薪をくべよう! 」
力が湧いてくる。ボクの中にもなだれ込むサリーの持つ『何か』は、この体の糧として燃え上がりながら巡っていく。
「南風の女王。あるいは夜の魔女。優美なるその翼の恩寵を我が手に授けたまえ。我が名はサリヴァン・ライト。炎と鍛冶の神の眷属にして、混沌の蛇の片手を担うもの。男児なる罪の贖いは、我が母の愛のもとに誓いましょう。どうか勇者の行く手を担う我が手に、扇動の追い風を! 」
魔力のこもった毛束がサリヴァンの手を離れ、魔法の種火となって風に溶ける。
その様子は、まるで風の女神がサリーの呪文に応えたようだった。
サリヴァンの元へと空気が収縮していく、瞬きほどの静寂。次の瞬間、爆発したかのような強風が巻き起こり、黒霧となったボクの背を強く押し出し、蝗どもの群れの隙間をすり抜ける。
そのとき、まさかのことが起こった。
大風はそのまま分厚い雲を掻き回しながら裂くと、天空に大きな穴を開けた。
藍色の空から森に太陽が降り注ぎ、陽の光を浴びた蝗たちの歌が悲鳴に変わる。数え切れない蝗の群れが、誘蛾灯へ誘われるように次々と晴れ間の下へと躍り出ては、真っ赤な火の玉に姿を変え、空中で塵となって燃え尽きていく。
真っ黒な雪のように塵が降り注ぐなか、ボクは差し出す指先から、アルヴィンの前へと躍り出た。
黒い雪の降る空にいたのは、血のように赤い人型の炎の塊だった。
ごうごうと燃え盛る体は、現在進行形で真っ黒な炭へ変化している。きっともう、目なんて見えていない。それでも、『選ばれしもの』であるそれは生きていた。燃え尽きることも許されずに。
「ああ……」
涙と一緒に零れた声は、ボクのものではない。




