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 11『シリウス』②

 アルヴィンは、ゆっくりと後ずさる。


「……貴方はまるで、かの人のよう。焼け付く苦痛を抱えたまま、死ぬこともできやしない」


 不思議な声は、その穴ぐらのような黒の奥から聞こえてくるような響きを持っている。

 夜の井戸のように真っ暗な瞳が、アルヴィンを捉えて離さない。


「この雲しかない地で『空』を見たことが無い貴方が『星』に選ばれた。それはまるで、炎を知らないのに薪となった、かの死者の王のようではございませんか」


 跪いて祈りの形に指を組む少女は、どこまでも穏やかに、闇を孕んだ目で微笑んだ。


「……思うのです。すべてが無駄なく定められているのなら、この世を創ったものは素晴らしい脚本家だと。すべてが偶然の皮を被った必然なのだとしたら、あらゆる奇跡は演出でしかないでしょう。でも、神ではない私に真実を知る術はない。ただの人であるから、この世はかくも面白くなる。私は偶然を愛します。神の必然を奇跡と呼ぶ愚かなじぶんを、心から愛しています。私は、この世界の奇跡の均衡が崩れる瞬間を見たかった。……私の言葉、わかりますか? 」


 三日月形に瞳が歪む。持ち上がった頬を無数の長虫が蠢き、僅か覗いた咥内に歯は無くマグマのように仄暗い赤に染まっている。少女は組んだ指を、ほころぶ蕾のかたちに解いた。


「だから今、わたし、とてもタノシイのですよ」


 その手の中に、いびつにひしゃげて丸まった何かがある。それは、ミケの銅板の成れの果てだった。


「『魔術師』……っ! 」


 失敗した飴細工のように丸まった鈍く赤い輝きは、『魔術師』が手のひらを返した動作で煙のように消え去る。何もない右手をアルヴィンに伸ばす仕草は、鎌首をもたげる蛇そのものだった。次の瞬間、けたたましく高い声で魔術師は狂笑を響かせた。肌を這う蛇たちが少女の肌を逃げ出す。蛇どもはその足から地面に這い出し、地面をあっという間にぬらぬらと黒く染めた。


 蛇の地面が大波のようにうねる。魔術師はその波に身を預け、猿声に似た甲高い笑い声をあげている。アルヴィンを見下ろす目もまた黒い太陽のような狂気の色に輝き、アルヴィンの内側は怖気に粟立って体を重くさせる。

 凝り固まった恐怖に熱を入れ、アルヴィンは地面を蹴って飛翔した。



「二番目のアルカナ『魔術師』! 愚者の旅のきっかけを与えるもの! なんと素晴らしい役柄でしょう! 」


 影の大蛇は流動的である。一枚の巨大なシーツのように波打ちながら、時に肉体を二つに裂いて迫る壁となり、時に霜柱のように表皮を伸ばし、アルヴィンを絡めとろうと形を変える。ジグザグに稲妻のごとく奔るアルヴィンからは、魔術師の演説だけが轟いて聞こえている。


「どうしたのです! 貴方は『星』! 希望の擬人! 私にそのさだめを見せつけて! 望みのままに、私にその怒りをぶつけるのです! 」


「っ勝手なことを! 」


 体の末端まで血管をマグマのような熱が巡る。「どいつもこいつも! 」


 恐怖は火種に変わり、はち切れんばかりに燃え上がっている。魔術師の甲高い声が耳障りだ。痛みを意識できない。悪い兆候だと頭の隅で警報が鳴っている。


「知ったことか! もうこんなのはたくさんだ! 」


 突き上げた拳が風圧に形を変えた。拳に張り付く真っ赤な熱が、爛れた肌を上に這ってよりいっそうと深く咥えこむ。それは大蛇の顎からアルヴィンの肉体を守る鎧となり、墨のような血をまき散らす肉を焼き切りながら切り裂いた。下から上からアルヴィンを圧し潰そうと影は迫る。


 魔術師は黄色い声を上げて、両手を大きく広げた。


「僕の望みは――――」


 捉えた。


「――――お前だ! ミケ! 」


 吸い込まれるように、そのひしゃげた銅板は手の中に納まった。逆さまになった魔術師のあどけなく丸くなった黒い瞳と、仮面の奥のほの青い刃金色の瞳が交差する。



 滑らかな胡桃色の肌を、もう片方の拳が捉えた。肉を打ち、内側の骨が軋みをあげて砕ける感覚。熱を抱えて焼ききれそうな意識を縫い留めたのは、その一瞬、アルヴィンをしっかりと見つめて魔術師が満面の笑顔を浮かべていたからだ。

 気が付けば、魔術師は影ともども目の前にいなかった。森は命の声を取り戻し、虫や鳥の脈動が梢を揺らしている。


 蒸気として息を吐きだしたアルヴィンは、茹だった頭に火をくべる興奮に必死に抗っていた。細く降り注ぐ温い雨が、僅かに理性の味方をしている。


「ミケ……」


 熱をおびた手で曲がった銅板を開く。そこにはミケという語り部を構成する魔法の、上の句にあたる半分が残っていた。手の中で溶けゆくミケの半分を、一語ずつ噛み締める。


「……天に、しらほし。地に、塩の原。花は芽吹かずとも、喉を旅立つうたは枯れることがない。星よ、聴いてくれ。誓いのことばを。望みはひとつ。この足が止まろうとも……」


 涙は僅かな塩の粒となって、仮面に白い筋をのこす。


「……あなたが頭上で輝く夜が続くこと」


 溶けだした銅板から、小さく魔法が渦巻く。アルヴィンの手の中で魔法は溶け切り、銅板は今、アルヴィンとともに一つに戻った。

 アルヴィンは歩き出す。『星』は、自分のさだめだからだ。


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