『二流』と言われて婚約破棄されたので、ざまぁしてやります!
私、ソフィ・ラルカンジュは侯爵家に生まれ、十二歳でヴィクトワール皇国皇太子であるレイモン殿下の婚約者になった。昨年から妃教育で皇宮に通う傍ら、貴族と優秀な平民が通う国内最高峰の教育機関・王立アカデミーに通っている。
今日は学年最終日、これから夏休みだというのに、私は婚約者のレイモン殿下に中庭に呼び出された。王家特有の金髪がさらりと風に揺れ、緑の瞳に睨みつけられる。周りには、四人の令嬢が並んでいた。殿下と同じ生徒会に所属し、アカデミーでもよく目立っている令嬢方だ。
「ソフィ、この成績はなんだ!今まで我慢していたがもう限界だ。どうして君は何をやらせても『二流』なんだ。」
「に、二流……。」
「家は侯爵家、容姿は悪くはないが地味、ピアノは誰でも弾けるような曲を弾くのがやっと、一番努力でどうにかなる学業も平均点そこそことは、一体どういうつもりだ。母上も君の不出来に、いつもお小言を言っている。ここにいる一流の令嬢たちを少し見習ったらどうだ。」
殿下に『一流』と言われて、余程うれしかったのだろう、王立アカデミー学年主席の男爵令嬢と、幼い頃からコンクールを総なめにしピアノの神童と謳われた伯爵令嬢が、ほくそ笑んだ。
「ですから殿下。初めから、わたくしベアトリスを婚約者に選んでおけばよかったのです。」
後ろから公爵令嬢のベアトリスが躍り出て、こちらを一瞥した。彼女は、皇妃の遠縁で家柄が素晴らしい。レイモン殿下の婚約者選考で、最後まで競った相手でもある。確かベアトリスがあまりにもわがままだと言う理由で、私に決まった。
「その通りです。ベアトリス様!こんな華がない方が、皇妃だなんて臣民として恥ずかしいですわ。」
隣で子爵令嬢のミラベルが笑っている。彼女はベアトリスの取り巻きで、美貌と財力で男子生徒を虜にしている。ファンクラブもあると聞いた。
「以前から思っていたことだが、君には皇妃としてこの国の国母となる自覚が足りない。アカデミーに在籍しているこの国屈指の『一流』の令嬢を差し置いて、『二流』の君を選ぶ義理はない。この婚約を破棄し新たな婚約者を選定させてもらうよう、陛下にも進言しようと思う。」
私の成績が中の上なのは、毎週末妃教育と称して、皇宮に呼び出されて、アカデミーの勉強と関係ないことを学ばされているからだ。それに殿下が『一流』だと褒めている令嬢たちも、それぞれの得意な分野で目立っているだけで、総合的にみたら私だって負けていないと思う。思えば、殿下とは長く時間を過ごしたはずなのに、一度も私の努力や才能を褒めてくれたことはなかった。
『一流』の取り巻き令嬢は、蔑んだ目でこちらを見下している。さぞ自分に自信があるのだろう。他の生徒たちも事の成り行きを見守っている。恥ずかしさと悔しさで、みるみる顔が上気していく。静かに俯いた。私が何をしたというのだ。何故、公衆の面前で公開処刑に遭わなければいけないのか。
「……レイモン殿下、承知しました。今まで婚約者として、殿下に大変な気苦労をかけたことを、ここに謝罪致します。」
「な!?お前やけに素直だな。どうするつもりだ。私は婚約を破棄すると言っているのだぞ。」
「――ええ。もうこれ以上、殿下のお手を煩わせることがないよう、今後はこの国の臣民として殿下をお支えしていきます。では、失礼致します。」
「お、おい!挽回の機会は与えて……。」
殿下はまだ何か言っていたが、私は臣下の礼を取ると、踵を返して駆けだした。どうして、ここまでこじれてしまったのだろう。少なくとも学園に入る前は、婚約者として、もう少し仲良くやっていたと思う。妃教育も年々理不尽さを増すし、私には限界だった。
「おい、ソフィ大丈夫か?散々な言われようだったけど、言わせっぱなしでいいのか?俺が代わりに言い返して来てやろうか?」
泣きながら寮の自室に戻る途中、ジョルジュ・オルレアンに声をかけられた。彼は、隣国・エスポワール王国からの留学生だ。この国では珍しい浅黒い肌に黒髪、青い瞳はサファイアのようだ。子爵令息と聞いたが、国費で留学しているだけあって、とても優秀だ。ただお国柄なのか人との距離の取り方が近く、授業中や休み時間に、やたら私に話しかけてくる。
私だって悔しい。見返してやりたい。でも、今は傷口に塩を塗るようなことを言わないで欲しい。私は彼も無視して、寮の自室に戻ると、帰省に向けて、急いで荷造りをした。
夏休みはもともと、一日も休みなく妃教育が組まれていた。これはレイモン殿下に甘く、私には厳しい皇妃殿下からの要望だ。もしかすると、殿下が私のことを『二流』と言い出したのは、あの皇妃の差し金かもしれない。
皇宮には『レイモン殿下より公衆の面前で婚約破棄を賜ったため、もうこれ以上皇宮には出入りできない』と帰省の前に書簡を送った。返事を見るつもりもない。こんなことになるなら、妃教育なんてもっと手を抜けばよかった。私の五年間を返して欲しい。
自領・ラルカンジュ領に戻り、くだんの件を報告すると、当然のように父が怒り狂った。
「この婚約は、公爵家のベアトリス嬢を嫌がったレイモン殿下がお前がいいと言って決めたはずじゃ。結納金として、我が領の鉄鉱山の恒久的採掘権も差し出したのに。それを学園で他の令嬢に目移りしたからと破棄し、ワシのかわいいソフィを『二流』とこき下ろすとは!絶対に許さん!宣戦布告じゃ!」
父は怒りのままに、さらなる書簡を皇室に送りつけた。私の書簡と父の書簡、レイモン殿下からの報告を聞いて、物事を公平な立場から見る皇帝陛下がどう判断するかは分からないが、父の言う通り、本当に戦争が起こるかもしれない。城内は穏やかではない雰囲気だ。騎士たちが有事に備えて、毎日剣の稽古に明け暮れている。
嵐の前の静けさだが、せっかくの休みだ。私は今までできなかったことを、とことんやってやろうと思った。
まずはヴァイオリンを再開した。私は小さい頃からヴァイオリンが好きだ。でも、皇宮の晩餐会では私はピアノを演奏することが決まっていた。ヴァイオリンはレイモン殿下の担当だからだ。婚約が決まってから始めたピアノは簡単な曲を弾くのがやっと。それを下手くそと罵られるのは、ただただ辛かった。久しぶりにヴァイオリンの講師を家に呼び、夢中でヴァイオリンを奏でると、背中に羽が生えたような解放感があった。
勉強もした。妃教育のせいで、今まで王立アカデミーの勉強の時間が十分に取れなかった。今まで時間をかけて勉強できなかったところを、復習するのは楽しかった。
ジョルジュから、私のことを気遣った手紙も届いた。今、彼はエスポワール王国に帰省しているらしく、エスポワールのこと、家族のことが綴られていた。彼の人柄だろうか、読んでいると、少しずつ心が温まっていった。
皇宮からの書簡も思いのほか早く届いた。今回の件は、レイモン殿下の完全に独断で行われたとのこと。皇宮側もとても焦っていることが、文面から伝わってきた。しかしながら、こうなってしまった以上、婚約を続けるのは難しいだろうと皇帝陛下の判断が記載されていた。結納金として納めた鉄鉱山の権利は当家に返還し、過去五年間にわたる鉱山の寄進と、これまで当家が示してきた忠誠を功績として評価し、公爵に陞爵すると記されていた。
「何!?うちが公爵家に!当家たっての悲願じゃ。」
たった五年の鉄鉱山の採掘権で、公爵位とは。おそらく私への賠償の意味もあるのだろう。父は陞爵されると聞いて、ここ数週間の怒りが嘘のように歓喜に満ち溢れていた。新たな結婚相手はワシが見つける、あんな皇子のことは早く忘れろとも言われた。
婚約破棄が正式に決まり、ドレスは全て新調した。今まで殿下から頂いたものは、皇妃のお眼鏡に叶った装飾と露出が少ないドレスばかり。その中に、私が気に入ったものは一枚もなかった。周りから、地味だ地味だと言われていたが、それは皇妃の命で、自慢の銀髪をひっつめ髪にしていたから。ウェーブがかったこの髪と、菫色の瞳は決して地味ではない。髪型もこれを機に思い切り派手にしようと思い、髪飾りをたくさん購入した。
夏休み明け、周囲がどう私を迎えるか、恐ろしくもあった。でも、せっかくレイモン殿下や妃教育から解放されたのだ。ポジティブにとらえようと思った。ヴァイオリンにドレス、ヘアアクセサリー――前回帰省した時の何倍もの荷物を寮の自室に持ち込んだ。王立アカデミーは三年制。残り二年の学園生活を楽しむしかない。
初日は、気合を入れて、髪はダウンスタイル、小さな蝶のヘアアクセサリーをたくさん髪に散らせた。制服は少しアレンジして、袖にレースを付けた。学生たちが私を見て振り返る。もちろんこんなことは初めてだ。早速、美貌の子爵令嬢・ミラベルとすれ違った。公爵令嬢のベアトリスと今日も一緒だ。嫌味ったらしく、クスクス笑いながら、話しかけられた。
「あーら、ソフィ様、夏休みの間にどうされたんですか?あの"ひっつめ髪"はやめたんですか?せっかく素敵なヘアスタイルでしたのに。」
ミラベル嬢と話すのは、ちゃんと話すのはこれが初めてのはずだが、隣に公爵令嬢のベアトリスがいるせいか、随分と強気だ。
「こら、ミラベル。殿下に『二流』だと言われ、婚約破棄されたのが悔しくて、頑張ってらっしゃるんだから、そんなこと言ったら、かわいそうですよ。まあいくら頑張っても、今度こそ殿下はわたくしを選んで下さると思いますけど。」
そんな性格だから、婚約者の最終選考で落ちたのだろうと思ったが、それは言わないことにした。
「まずベアトリス様、お言葉ですが、私、殿下への未練は毛頭ございません。ご安心下さいませ。あと我がラルカンジュ家は公爵への陞爵が決まっております。今後は公爵家同士らしいお付き合いをお願いしますわ。それとミラベル嬢、私はあなたへの発言を許可しておりません。今後一切話しかけないで頂けますか?」
公爵へ陞爵すると聞いて、周りがざわめいた。今まで我々の学年で殿下に次いで家格が高かったのは公爵家の彼女だった。取り巻きを引き連れ、いつも鼻高々偉そうにしていたのに、その序列が初めて崩れたのである。
「――あら、そうでしたか。存じ上げず申し訳ありません。い、行くわよ!ミラベル。」
気に食わないという顔をして、ベアトリスたちはその場を立ち去った。彼女から家柄を差し引けば、ただの性格の悪いわがまま令嬢だ。あの調子では、仮にレイモン殿下の婚約者に選ばれても、いつかあの皇妃と揉めるだろうなと思った。
イメチェン後の私は、銀髪の美しさが話題になり、ファンクラブなるものまで出来た。その会長だという一年生の女子に、ひと月でミラベルのファンクラブの人数を越したと報告された。すれ違う度に悔しそうにミラベルから睨まれるのは、とても気分が良かった。
あとレイモン殿下がこちらをじっと見ていることがあった。今度は金遣いの荒い令嬢だとでも思って、小馬鹿にしているのだろう。もう関係のない人だ。その視線には気づかなかったことにした。
夏休み明けから、放課後はヴァイオリンの練習に充てるようになった。音楽室は事前予約制だ。今日はたまたま先生が教室にいたので、わざとその技量が分かるよう、難しめの曲を選び、練習している。弦を押さえる指を巧みに動かし、複雑な音色を奏でていく。私が一曲を奏で終わると、心底意外そうな顔で先生は言った。
「それにしても、まさかここまであなたがヴァイオリンが上手とはね。ブランクも長いんでしょう?いつもピアノを練習していたから、そちらが得意なのかと思っていたわ。」
「ピアノは皇宮の方針で練習していました。でも、私もともとヴァイオリンが大好きなんです。子どもの頃に、コンクールで優勝したこともあるんですよ。」
その時、音楽室の扉がガラッと開いて、留学生のジョルジュが駆け込んで来た。
「――先生、今ヴァイオリンを演奏していたのは、誰ですか?えっ、まさかソフィ?」
「ええ、そうだけど。」
「えっ、天才じゃない?何でその才能を隠していたの?」
ジョルジュも驚いた顔をしている。彼の祖国エスポワール王国は、音楽への造詣が深い国で、国立音楽院に多大な投資をしている。我が国からもヴァイオリン修行のため、留学する人がいるくらいだ。ちなみに彼もヴィオラを弾くらしい。
「そういえばソフィ、レイモン殿下と正式に婚約破棄したらしいね。俺も早速ソフィのファンクラブ入っちゃった。」
会員番号35番のファンクラブカードを見せつけられた。彼のこうした気安い口の利き方や態度は、留学生なので仕方ないかと思って許している。一応彼も先生には敬語は使えるのだが。
「あら、ありがとう。で、そのファンクラブってどんな活動をしているの?」
「ソフィのすばらしさを語りあったり、ソフィが学園生活を送りやすいように陰ながらサポートしたりかな?」
ファンクラブという団体から、何かサポートを受けている気はしないのだが……。不思議に思って小首を傾けていると、先生が言った。
「そうだ。ソフィさん、ジョルジュさん、冬のアカデミー音楽祭に二人で出場してみたら?同じ弦楽器ですし、アンサンブルなんて、素敵だと思うの。きっと金賞争いに絡めるはずよ。」
「あっ、それ名案ですね!よろしくね、ソフィ。」
「ええ。こちらこそよろしくお願いします。」
アカデミー音楽祭は音楽教師の推薦のある学生だけが出場できる冬の一大イベントだ。審査員にはこの国で有名な音楽家を招聘する。ピアノでは絶対にこの推薦をもらえなかったから、またとないチャンスだと思った。
それから、ジョルジュとアカデミー音楽祭に向けて曲を選び、一緒に練習するようになった。そしていつの間にか、私までつられて軽口をたたく関係になっていた。
彼は勉学も優秀だ。授業で分からないことを、すぐ彼に聞けるのも、とても助かった。夏休み明け初めのテストは、首席のナディアには及ばないものの、学年十番以内に入ることができた。
ある日の放課後、音楽室に向かおうと教室を出ると、レイモン殿下がいた。待っていたのか、私を見るなり話しかけてきた。
「おい、ソフィ。今回の成績は良かったじゃないか。いい心がけだ。ただ最近少し派手過ぎるのではないか?私は派手にしろとは言っていない。」
私の宝石たっぷりのヘアアクセサリーを指さしながら、彼は言う。教室の前で待ち伏せしていたかと思ったら一体なんだ。私たちの婚約は既に解消されている。殿下に成績や容姿のことを注意される筋合いはない。
「レイモン殿下、成績のご心配ありがとうございます。妃教育が無くなったおかげで、アカデミーの勉強をする時間がしっかりとれているのです。皇妃さまに言われて地味にする必要もなくなりましたし、ヘアアレンジを楽しませて頂いております。それと私との婚約は破棄されているので、今後はラルカンジュ侯爵令嬢とお呼び下さい。」
「妃教育が学業を圧迫するほど忙しいという報告は受けていない。言い訳はよせ。だが私は寛大だ。お前にも挽回のチャンスを与えてやる。今度、皇妃主催のお茶会が皇宮である。私のパートナーとして参加しろ。」
残念ながら、殿下の瞳の色のドレスは全て処分した。どうして今更彼の隣に立たないといけないのか。しかも皇妃主催のお茶会……。私はもうあの人の顔すら見たくない。後ろから、ジョルジュがすっと現れた。
「レイモン殿下。どうしたんですか?怖い顔しちゃって。ソフィは僕と、アカデミー音楽祭に一緒に出場するんで、練習が忙しいんですよ。それにそのお茶会、ソフィのパートナーだったら、僕がします。」
したり顔でジョルジュが話しかける。殿下にまでこの調子だとは思わなかった。隣国の子爵令息に軽口を叩かれて、殿下も怒るかと思ってひやひやしたけれど、案外そこは冷静だった。
「ジョルジュ、君には関係ない。」
「だから、関係あるって言ってんの。」
「レイモン殿下、婚約者を失格になった身で、皇妃さまに合わせる顔もございません。お茶会への参加は固辞させて頂きます。」
「じゃあ、そういう訳で!」
「おい、戯れが過ぎるぞ。」
ジョルジュが私の肩を抱き寄せた。それを何とも悔しそうな顔で、レイモン殿下が見ていた。そのまま私たちはヴァイオリンを持って、音楽室に急ぐことにした。
「さっきはありがとう。でも殿下の言う通り、お戯れが過ぎるわ。離して頂戴。」
「ああ、ごめん。このくらいすれば、相手も諦めるかと思って。」
「それにしても、自分から婚約破棄したくせに、一体何のつもりなのかしら。挽回のチャンスなんていらないわ。もううんざり。」
「はは。レイモン殿下は『覆水盆に返らず』って、ことわざを知らないのかね?」
それからしばらく、殿下の悪口で盛り上がった。他人の成績をどうこう言うくせに今回の成績は私に負けていたこと、ヴァイオリンも下手くそなこと。
「そういえば、前から気になっていたんだけど、ソフィのヴァイオリンって、あまり高価なものじゃないよね?」
ジョルジュは音楽大国からの留学生というだけあって、高価なヴィオラを弾いている。その音の響き方を考えると、おそらく国宝クラスの名器だ。
「そうなのよね。気に入ってはいるんだけど、もともと本格的にやるつもりじゃなかったから。」
「僕のヴィオラとのバランスを考えると、音楽祭では同じクラスの楽器を使った方が良い。ちょっと待ってて、いいのがあるんだ。」
彼は走って、寮の自室に戻っていった。
「お待たせ。これ貸すから、使ってみてよ。」
そう言って渡されたケースを開けると、見るからに高そうなヴァイオリンが一挺入っていた。まさかと思ってケースをよく見る。
「これもしかして、エスポワール王国の国宝になっているヴァイオリン・ジュピターじゃない?」
「ご名答。」
「渡し方が気安すぎよ。でもどうして、王家所有の国宝をあなたが持っているの?そもそも国外に持ち出しちゃいけないんじゃない?」
「あはは、なんでだろうね。でも許可は取ってあるから大丈夫。とにかく君に貸すから、音楽祭ではこれを使って。せっかくなら金賞も取りたいし。」
ジョルジュが笑いながら言った。どう考えても軽く笑って渡せる代物ではないのだが。
「あ、ありがとう。ちょっと緊張するけど、大切に使わせてもらうわ。」
「ソフィのヴァイオリンの腕前は、その国宝に匹敵するものだから安心して。ただ少し演奏が優等生すぎるというか、もっと感情を込めた方が人の心に響くと思う。例えば今回選んだ曲は、戦争で遠くに旅立つ恋人を想う曲だから、彼の無事を想う気持ち、離れ離れになる悲しさ、そういう気持ちが入るともっといいよね。」
感情か。――これは自領でヴァイオリンを習っている時にも指摘されたことがある。でも、私は激情というものを持ち合わせていないから、これが案外難しいのだ。
「昔から指摘されているけど、なかなかうまく表現できなくて。」
「ソフィは好きな人とかいないの?その人を思い浮かべて、離れ離れになることを想像して。ほら胸が締め付けられるでしょう?それを音にぶつけるんだ。」
「好きな人――そうね。元婚約者のことは恋愛的な意味では好きではなかったから、難しいかもしれないわ。」
「じゃあ、僕のことを考えて。ほら、僕がある日突然留学は終わり、もう国に帰ります、って言ったら少しは悲しいでしょう?」
「ふふ何それ。――でも確かに寂しいわね。こうしていつも変わらず接してくれるのは、あなたくらいだもの。激情というほどでもないけど。」
「でしょでしょ。じゃあ、もう一回弾いてみよう。」
それから何度も練習した。二人の奏でる弦の響きが合わさりあい、一つの音楽を奏でていく。そして隣国に帰っていく彼を思い浮かべる。一緒に音楽を奏でることはもうない。何度も演奏していると胸が締め付けられるような思いに駆られるようになった。その思いが弦を引く指先に乗る。
「だいぶいいよ!この調子だ。」
そんな風に毎日練習を積み重ねていくことで、少しずつ彼のことを特別に思うようになっていった。
私たちが音楽室を使った後は、伯爵令嬢のエリザベトが部屋を予約していることが多い。子どもの頃から神童と持て囃され、コンクールを総なめにしたあの才女だ。
「もう時間のはずです。さっさと部屋から出て行って下さい。」
「あら、すみません。少し練習に熱中していたもので。」
「そういえば、殿下に『二流』と言われて、ヴァイオリンに乗り換えたそうですね。確かにあなたのピアノの演奏は雑音でしたものね。」
お世辞にも上手いとは思わないが、こうはっきり言われると、さすがに傷つく。
「もともと習っていたヴァイオリンの方が得意なんです。ピアノは皇宮に言われて練習していただけなので。」
「そうですか。まあ、推薦した先生の顔に泥を塗らないように、せいぜい頑張って下さいね。」
すると、隣にいたジョルジュがおもむろに口を開いた。
「エリザベト嬢、随分自分に自信があるようだが、君こそ最近はコンクールで十分な成績を残せていないのではないか?アカデミー音楽祭は、楽器の別を問わず、順位がつく。つまり結果を見れば、自ずとその実力差が分かる。では失礼する。行くぞ、ソフィ。」
「はい。」
彼女は音楽祭の前の一か月は学校を休みにして、自宅で一日中ピアノを練習すると聞いた。彼女はすべてをピアノにかけているため、成績はボロボロらしい。
「エリザベト嬢の言うことは気にするな。」
「大丈夫です。私のピアノは確かに雑音ですから。」
「彼女、小さい頃こそ、天才と呼ばれてもてはやされてきたけど、最近はぱっとしない。案外そういう人は多いんだ。おそらく焦っているのだろう。」
「伸び悩んでいたんですね。知らなかったです。」
「その点、君のヴァイオリンはまだ粗削りの部分もあるが、大いなる可能性を秘めていると思う。どちらが将来有望かと聞かれれば、十人が十人、君と答えるだろうね。」
「随分ほめてくれるのね!ありがとう!」
それから季節は進み、風も冷たくなり、木々の葉が落ちた。遂にアカデミー音楽祭、当日を迎えた。今日は、ペアで出場するため、ジョルジュと衣装を合わせ、彼の瞳と同じ真っ青なドレスを選んだ。
「ソフィ、すごい似合っている!頑張ろうな!」
「ええ、もちろん。」
私たちの出番はエリザベトのすぐ後だった。声楽、フルート、ハープ――生徒たちは思い思いの表現方法で、それぞれ選んだ楽曲を演奏していく。エリザベトの出番だ。真っ赤なドレスに身を包んだ彼女が壇上に上がる。金賞候補の登場で会場に緊張が走る。
彼女が選んだのは、難易度が特に高いと言われる曲だ。目にもとまらぬ速さで鍵盤をはじいていく。一音も間違えていない。リズムも完璧だ。でも、気づいた。彼女の演奏には人の心を震わすような感情がない。ジョルジュに感情がこもっていないと言われた時の私の演奏に似ていると思った。
演奏が終わると、拍手が沸き上がった。やりきったという表情で、彼女は壇上から捌けた。
「よし、いよいよ僕たちの出番だね。」
「ええ、頑張りましょう。」
ステージの真ん中に立つと、スポットライトが私たちを照らす。緊張で口から心臓が飛び出しそうなくらい胸が高鳴った。深呼吸をして会場を見渡す。おや、最前列に並んでいるのは、私のファンクラブの子たちだ。わざわざ応援のために、一番いい席を取って、聞きに来てくれたのか。そう思うと、少し気持ちが和らいだ。
演奏を始めると、一気に曲の世界に引き込まれる。ジュピターはさすが国宝だ。音に厚みがある。私たちの奏でる旋律が会場全体を包み込む。弾いていて、こんな気持ちいいと思ったことはなかった。
私は、ジョルジュがこの国を去っていく――そんな彼を、彼の後ろ姿を思い浮かべ、締め付けられる思いで弦を引く。
無我夢中で演奏を終えると、審査員席からスタンディングオベーションが沸き起こった。ファンクラブの子たちもうれしそうに拍手を送ってくれている。やり切った、と思った。
「ソフィ、過去イチの演奏だったよ。素晴らしかった。」
「あなたこそ、素晴らしかったわ。ジョルジュとファンクラブの子たちのおかげで頑張れたと思う。」
私たちの後も何組か、演奏が続いたが、スタンディングオベーションが起こったのは私たちだけだった。結果発表では、私たちが金賞に輝いた。銀賞はエリザベトだ。
「――悔しいけど、負けだわ。心が震える演奏だった。私も自分に足りなかったものが何かやっと分かった気がする。ありがとう。」
そう言って、壇上を降りたエリザベトはどこか清々しかった。
音楽祭が終わっても、私たちは音楽室を借りて一緒に練習した。どちらから誘ったというわけでもないが、これで終わりにするのは惜しかった。ある日、ジョルジュが少し思いつめたように言った。
「僕さ、二年生が終わったら、国に戻ることが決まったんだ。」
「え!?どうして急に。」
何度も曲を弾く中で思い浮かべていた光景が現実になる。胸が張り裂けそうだ。目に涙があふれ出す。
「家族の事情でね。そんな顔しないでよ。それで、もし君が良ければなんだけど、うちの国に来ない?ほら交換留学生として。」
エスポワール語は、妃教育で嫌というほど勉強したから、母国語と同じように話すことができる。けれど、留学なんて考えたこともなかった。
「え、でも確か、アカデミーからの推薦を取るのって、すごく大変なのよ。今年は学年主席のナディア嬢が出すって噂だし。彼女、外交官になりたいんですって。」
「もちろん成績も考慮されるけど、それだけじゃない。君の場合はアカデミー音楽祭で金賞をとったし、音楽の勉強をしたいって、志願書に書けばかなり有利なはずだ。」
「そうかしら?」
「勉強は俺が教えるし、頑張ろうよ。」
「分かったわ。」
まず交換留学制度に申し込みたい旨を父に手紙で許可を取った。大好きなヴァイオリンを本場でもっと勉強したいと。父からは少し心配だが、頑張りなさいと返事が来た。
それから、ヴァイオリンの練習をしたり、図書館で一緒に勉強したり、ジョルジュとはさらに仲良くなった。いつしか、父が見つけてきた相手と結婚するよりも、彼と一緒になれたらどんなに幸せだろうと思うようになった。
ある日、二人で図書館に向かって廊下を歩いていると、レイモン殿下とすれ違った。
「おい、どうしてヴァイオリンが弾けるって言わなかったんだ。あれだけ上手く弾けるなら、ピアノが弾けないことを馬鹿になんかしなかったのに。」
「皇宮にはちゃんとコンクールで優勝したと申し出ていたはずです。それでも、ヴァイオリンは殿下の担当だから、別の楽器を練習するように、亡くなった皇太后さまの代わりにピアノを弾くようにと言ってこられたのは皇宮側です。」
「そ、そうだったのか。すまなかった。」
「すまないと思うなら、もう話しかけないで下さい。今だって多くの人たちに見られて恥ずかしい思いをしているのです。」
「だってよ、レイモン殿下。じゃあね。」
にこやかに手を振るジョルジュをレイモン殿下が悔しそうに睨んだ。
留学に必要な成績を揃えるのは楽ではなかった。授業を真面目に受けて、課題を図書館で片付けて、分からないところをジョルジュや先生に聞く。時間はあっという間に過ぎ去った。
二年生の期末試験では、概ね良好な成績を修めることができた。今回も学年で十番くらいだ。今日は昼過ぎに交換留学生が発表される。私はドキドキしながら、中庭に向かった。既に掲示板の前に人だかりができていた。掲示板の前でナディアが泣き喚いている。
「どうして、どうしてなの。ずっと私が一番だったはずよ。将来外交官になりたいからって、完璧な志望理由も書いたのに。」
何事だろうと思って掲示板を覗く。交換留学生発表の掲示には、『ソフィ・ラルカンジュ』とあった。選ばれたんだ。私が思わずニコリと微笑むと、ナディアがキリッと私を睨みつけた。
「なんで『二流』令嬢が交換留学生に選ばれるのよ。絶対に不正だわ。」
随分と人聞きが悪い。とても残念な気持ちにもなった。私が反論しようとすると、ジョルジュが私の前に出て言った。
「君、ナディア嬢だっけ?どうしてか、教えてあげようか?」
「はぁ?あなたが何を知っていると言うのよ。」
彼女の家格は男爵。ジョルジュも大概だが、彼女もひどいなと思った。そういえば友達が一人もおらず、勉強に集中するために、生徒会も辞めたと聞いた。
「交換留学生の選考は、多面的に人物を評価したいという、エスポワール側の希望があるからだよ。確かに君の成績は素晴らしい。でもソフィだって成績自体は申し分ない。さらに彼女はアカデミー音楽祭で金賞を取り、プロのヴァイオリニストからも推薦状を得た。比べるまでもないだろう。」
「そうよ!ソフィ様は美しいだけじゃない!」
「成績だって十番前後、もう二流じゃないわ。」
「ヴァイオリンは天才的よ。」
「ファンクラブの私たちにもやさしいし。」
ファンクラブの子たちがぞろぞろ集まってきて、口々に私をほめだした。少し気恥ずかしい。すると、周りにいた他の学生たちもひそひそ話を始めた。
「一日中、図書館で勉強している令嬢が、総合力でソフィ様に敵う訳がないだろう。」
「男爵令嬢なのに口の利き方も知らないのかしら。あれじゃ普通の文官も勤まらないんじゃない?」
そこまで言われると、ナディアは我に返ったのか、顔を真っ赤にして、走り去った。彼女もレイモン殿下が変に煽てなければ、ここまで調子に乗ることはなかったのではなかろうか。
「――おい、留学に行くって本当なのか?聞いてないぞ。」
一難去ってまた一難。今度は青ざめた顔のレイモン殿下が現れた。そういえば、ちょうど一年前この場所で、婚約破棄を言い渡されたんだっけ。
「ええ、ジョルジュ様が、エスポワールに帰ると仰ったので、私もヴァイオリンへの造詣を深めるために、留学してみたいと思い、応募しました。」
「ジョルジュ殿下。いい加減、俺たちを揶揄うのはやめてくれ。俺は彼女とよりを戻したいと君にも相談したはずだ。」
でんか?聞き間違いと思って、ジョルジュとレイモン殿下の顔を交互に見る。
「ああ、ソフィ、そろそろ言おうと思ってたんだけど、黙っててごめん。子爵令息って言うのは実は嘘なんだ。僕はエスポワールの第一王子。親の体調が悪いらしくてね。早く立太子して欲しいと言われて、今回、帰国を早めることにしたんだ。」
少しバツが悪そうに、ジョルジュが言った。
「えええええ!」
周囲もざわめく。私も思わず情けない声が出た。
「へっ!?どうして、隣国の第一王子がこんなところに?」
「本国だと周りがペコペコしてて全然学園生活が楽しめないじゃん。だから身分を隠して留学していたんだ。」
色々と合点がいった。プライドの高いレイモン殿下が、ジョルジュに軽口を叩かれても文句を言わなかったこと、王家所有の国宝・ジュピターを私に貸し出せたこと。
「レイモン殿下、どうして君がソフィと寄りを戻せると思っているの?覆水盆に返らずだよ。もともと君の話を聞いて、どんな怠惰な令嬢かと思って話してみたら、とんでもなく思慮深くて、努力家ないい子だし。皇妃が若さと美しさに嫉妬しているのを真に受けるなんて、本当に君は本質が見えない人なんだな。」
「なっ!あれは母上がソフィのことをダメだダメだというからつい……。」
皇妃が嫉妬……?私にだけやたら当たりが強かったのはそのせいか。
「怠慢な婚約者に活を入れたつもりが、完全にフラれちゃったんだから、そりゃ焦るよね。」
「お前、いい加減しろ。後からソフィの置かれていた状況について、母上や皇宮に確認した。理不尽なことも多かった。確かに勉強に集中できないのを責められない状況だ。――すまなかった、ソフィ、私を許して欲しい。一年ちゃんと考えて、君以上に素晴らしい令嬢はこの国にいないと分かった。だから、また私の婚約者に戻って欲しい。」
「ねえ、ソフィどうする?」
「許すも何も……。過去のことは水に流しますが、レイモン殿下との婚約は既に破棄されております。再びあなたと婚約を結び直すことはありません。」
「そこをどうにかできないか?母上がベアトリスを推しているんだ。このままでは彼女と婚約することになる。」
ベアトリスは皇妃の遠縁だ。皇妃が彼女を推す意味はよく分かる。
「レイモン殿下!早くわたくしにお決めになって下さいまし!このベアトリス、王家に嫁ぐ覚悟はできております。」
「さすが、ベアトリス様!」
どこから現れたのか、ベアトリスが胸を張って私たちの前に姿を現した。太鼓持ちのミラベルも一緒だ。彼女たちのいいところは、いつでも自信満々なところだ。
「ははは!レイモン殿下とベアトリス嬢、とてもお似合いじゃないか?身分もそれ以外も。」
ジョルジュがケラケラ笑っている。レイモン殿下が唇を噛んだ。
「レイモン殿下、私はジョルジュ殿下とこれからもアンサンブルがしたくて、この留学に申し込んだんです。私はエスポワールに行きます。」
レイモン殿下が膝から崩れ落ちる。我が強いベアトリスの尻に敷かれる殿下が容易に想像できて、ほんの少しだけ哀れに思った。
「それじゃあ、ソフィ。僕からの求婚は受けてくれるかい?」
「ええっ!ジョルジュ殿下、それはご冗談が過ぎます。」
「いや、冗談じゃないよ。僕は逆境でもくじけず、また可憐に華を咲かせる君を素晴らしいと思った。君こそ、希望の国、エスポワールの王妃にふさわしい。どうか僕の妃になって欲しい。」
ジョルジュが跪いて、私へ求婚を申し入れた。
「わ、私がエスポワールの王妃……。」
いきなりのことで、動揺していると、ジョルジュがいつもの軽い笑いを浮かべた。
「もちろん、文化も言語も違う国だから、返事はエスポワールに留学して、国の生活に慣れてからでいい。両親も君に会いたがっているから、王城にも招待するよ。それと僕のことは今まで通り、ジョルジュと呼んで欲しい。うれしい返事を待っている。」
「はい。エスポワールで王様、王妃様に会えるのが楽しみです。」
「あら!今度は公爵家同士から、王族同士の付き合いになるってことね。よろしくね、ソフィ様。」
ベアトリスが、手を差し出した。固く握手を交わす。
「おい!お前ら勝手に話を進めるな!」
レイモン殿下の叫びは、ファンクラブの子たちの割れんばかりの拍手と歓声でかき消された。一年前『二流』と蔑まれ婚約破棄された中庭で、今年は皆からの祝福を受け、隣国の王子の手を取り、エスポワールへ留学する。
『ざまぁ』大成功だ。
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連載中の恋愛ファンタジーです!良かったら覗いていってください。
戦姫のトロイメライ~断罪される未来が視えたので先に死んだことにしました
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