10話 ガールズサイド-かしこみ、かしこみ申す
「これで貴方は今から異世界に行くけど……最後に何か言う事ある? 要求、頼み事、辞世の句、形見の品。なんでもいいわよ。安いものだったら叶えてあげる」
キャラメイキングが終わり、女神は一人の男に向かって言う。
言われた男はしばし考え、一つだけと、震える指を立てながら、男は言った。
「もし、許されるのならば……だ、抱きしめて、もらって……いいですか?」
時が止まったかのように、場の雰囲気が変わった。
女神は男の自信を示すかのように微妙に曲がった一本の指を見て、そして次に男の顔を、最後にその瞳を凝視する。
神の瞳は見開いたまま。
「えっ………」
それが男の願いだと理解するのに時間がかかった。
大きく開かれた瞳は通常の大きさに戻るも、信じられないとばかりに眉根を寄せる女神。
何が信じられず、何を言えば正解なのか、自分でもわからず女神は言葉が出せなかった。
だからこその逡巡。
その迷いを男は失言してしまったと考え、焦ったように手を振る。
「あ、ああっ、好感度が地に落ちててコイツとは触りたくないとかだったら別にいいんで。はい! じょ、女性に対して言うべきではないですが、ちょっと欧米的に抱擁したくなっただけです! ふ、不謹慎ですよね、失礼しました! 安くないですし! すっごい高価! 買い物だったら高すぎて手が出ないレベル! ストップ高!」
男はまくしたてるように言葉を紡ぐ。
焦りが言葉を生み、自分でも何を言っているのかわからなくなっているが、止まらない。
「ふふっ……」
男のその焦り具合がツボに入ったようで、女神は相好を崩す。
女神は威厳が損なわれないように、精一杯取り繕って、しょうがないなと嘆息する。
「…………嫌って言ってないわ」
「え?」
「ちょっと突然で驚いただけよ。最後にそんなことがいいのかってね。女性の、それも女神である私の肌に触れるのはマイナスだけど、ま、いいでしょう。許してあげるわ…………私の負けよ」
女神は一瞬、躊躇するが、自分から腕を差し出した。
男は、伸ばされた腕を見て、そして女神の顔を見て、大きく目を見開いた。
そして、恐る恐るといった具合に女神の胸元に寄り添う。
二人の距離はゼロとなり、両者は腰に手をまわす。
「なんでそっちは力をいれないのよ」
「恐れ多くて」
「今更怖気ついてるんじゃないのよ。許すって言ってるだから、シャキッとしなさい。これ以上はないってくらい特別なことなのよ」
「は、はい」
人とあまり変わらない体温。
ちょっとひんやりする感触。
力を込めれば、壊れてしまいそうな華奢な腰。
肌を合わせると神としての生命の強さを感じさせる力の本流。
違いはあれど、その全てを味わうように二人は目蓋を閉じる。
「…………感謝を」
「……受け取るわ」
女神はそれ以上何も言わず、男の存在を腕に感じていた。
やがて、二人の腕が解かれる。
「最後に、女神様の存在を感じられてよかったです」
「大袈裟ね」
「……もう二度と会えないのでしょ?」
男はチラリとこの白い空間に目線を移した。
女神は男が視線を外しこの空間を見た意味を、瞬時に把握する。
「どこまでっ……」
「違う異世界に送還してくれる神に感謝を。イレギュラーを許容し骨を折ってくれた神に感謝を。調整に調整を重ねてくれた神に感謝を」
女神の言葉には言葉を返さず、食い気味に感謝をという言葉を男は繰り返す。
キツネ耳を生やす女神に向けて、大きく頭を下げる。
言葉の意味を問いただすのを諦め、女神は肩をすくめる。
頭を上げ終わり、至極真面目な表情を作っている男に向けて、小さく言った。
「じゃあね」
「はい」
その言葉と共に、男の体が固まっていく。
指がまず動かなくなり、足が木の幹のように感じ、瞼が鉛のように重くなっていく。体が固定化される感覚。動くことが罰のように幻痛が走り、自己が塗り替えられていく。
まるで自身が人形になるかのように変化していくことに、男は最初驚いたが、すぐにそういうことかと納得し、受け入れた。時間にして数秒にも満たない後。
……男は一切物言わぬものになった。
「……………………」
女神は彫像のように動かなくなり、微笑んでいる男を見て、嘆息する。
もし、ここが無人だったら嘆息する代わりに何かを呟いていただろう。称賛なのか、負け惜しみなのか、それとも文句なのかは、女神にしかわからぬことだが。
「ひとまず終わりましたか」
「ええ。やっとね。予想より時間がかかったわ」
「それは貴方にも原因があるのでは?」
いつの間にか横にいたキツネ耳の女神が囁いた。
女神は眉のへの字に曲げ、声の方向へ顔を向ける。
「でたわね。無敵結界」
「そんな名前で呼ばれるのは甚だ遺憾ですが……」
たおやかに微笑み、顔に手をあげるキツネ耳の女神に、女神は嘘つくなと目を細める。そんな目線を受けても、自分は悪くはないと一向に表情を変えず微笑みを保ち続ける。
「ずっと見ているのも暇じゃなかった?」
「待つのには慣れてますもの。でも、呼んでくれてもよかったのですよ? 二人でワイワイと楽しそうで寂しかったですのに」
「冗談。貴方を呼べば何をしでかすかわかったもんじゃないでしょ、イナリ」
女神はキツネ耳の女神の名前を呼ぶ。
「こうなったのも全部、貴方のせいなんだから。これ以上場を引っかきまわされたらたまらないわ!」
「心外です。母が我が子を見守るように、慈しみを持って見ていただけなのに」
「それが一番怖いのよ!」
このオンナはと女神は視線を強める。
キャラメイキングで、男、鳴神水面が特別扱いされた原因はこのキツネ耳の女神、イナリの存在にあった。
地球からキャラメイキング対象者の拉致に成功し、神達は安堵し、そして人数が一人多いことに驚愕した。
だが、一人多いといってもさほど問題はない。そのまま許容するか、最悪処分するだけだと考え、イレギュラーは誰かを特定し始めた。
その直後、イナリが現れたのだった。
「イナリを最初に見たとき、あれが噂のジャパニーズマフィアかと思ったわ」
「日本の神にそんな存在はいませんよ」
ふふふとイナリは微笑む。
素知らぬ顔をし続けるイナリに女神はげんなりする。この面の皮の厚さはなんなのか。地球の神というのはこんなのばかりかと誤った情報が女神の脳に刻み込まれる。
元々、異世界に日本の住民を連れて行くことは地球の大神の許可を得ていた。積極的許可ではないが黙認という形で許されていた。世に影響が出にくい方法で、間違っても歴史的事件に記されないようになど、細かい規定があったが。
拉致型で誘拐だが、誘拐後は人形が本人に成り代わり、日本で生活する。その後、時期はバラバラに行方不明や事故にあい消えていく。
地球の大神もこれならいいだろうと思える配慮だった。
だが、実際拉致して、水面がついてきたとき。
イナリが激怒して、やってきたのだった。
一振りの刀を持ち、般若を思わせる形相で白い空間に襲撃を仕掛けてきたのは、この女神にしても蒼白ものだった。
「戦争でもしにきたと思ったわ」
「そんな。話し合いに来ただけなのに……」
ヨヨヨと泣き真似をするイナリを半眼で女神は見つめる。
あれが話し合いに来た態度ならば、世の中の銃撃戦なんて恋人同士の逢瀬に等しいだろう。
「話し合いに来た人は武器を片手に殺意全開でやってこないわ。頭悪いんじゃないの?」
「つい私も我を忘れてしまって。今思うと、はしたなかったです」
はしたないもなにも恐怖以外何物でもなかった。
言葉が、話し合いが通じたのが奇跡だと今でも思う。
襲撃を仕掛けて来て、水面の身柄を要求し、もし返還に応じなければと圧力をかける姿。我が子を守る虎の姿がそこにあった。
白い空間に乱入した際、無茶をしたのかところどころ傷を負い、流血が生じていた。疲弊も見てとれる。だが、それをもろともせず、瞳だけは障害を排除せんと煌々と輝かせていた。
自分の身を顧みず、救おうとする姿は迫力があり、覚悟を証明するものだった。安全圏にいると思っていたものにとって、これ以上怖いものはない。
困ったのが拉致を実行した女神達だった。
この拉致は地球の日本を管轄する大神の許可を得ており、非難されるものではなかった。
それを日本の一地域の神に激怒されるとは思いもよらなかったのである。
わかりやすく言えば、日本の総理大臣、警察署などの各機関の許可を降りているのに、とある地域の地区会長がそんなの許さんと駄々をこねているのに等しかった。
問題はそんな地区会長が約定とか決まりなぞは知ったことかと、戦争も辞さず踏み込んでくることだったが。いや、正しくは戦争も辞さずではなく戦争するつもりで乗り込んできたのだったが。抗議とか苦情とか文明的な方法があったはずなのに、失うものはもうなにもない、とばかりに目に狂気を宿し、凶器を持って向かってくるのである。怖くないと思うものがいようか。なぜ神が一人の人間にここまで固執するのか。そこがわからず恐慌を加速させる。
許可は得ていると言っても、納得せず身柄を返せと要求する。
話し合いにならない。
いや、妥協点がないというが実情だ。
白い空間は異世界と地球の中間地点にあり、大神との契約で拉致した被害者はどのような理由があろうとも地球へ再度戻ることを禁じられている。
契約違反であるので、身柄を返却するという選択肢は取れない。
イナリを無力化することができる。できるが、自分の命すら考慮に入れない化物を殺さずに無力化することができようか。こちらにも被害がでる可能性があり、そもそも確実に無力化できる保証もない。最悪の事態になる可能性もある。
上司が出張にでており、この場を任されている女神の頬に汗が伝った。
イナリの背後にいた部下からも奇襲は無理ですという悲壮な表情で首を振られる。かの神は独断で捕獲をしようと動こうとした瞬間、イナリに声をかけられた。警告だ。
機先を制する。言葉にすれば簡単だが、イナリは頭がイカれているとしか思えないのに、戦闘においては冷静で、頭が切れると思わせる力をみせつけてきた。こちらには考える時間も与えようとしない。
ただ、戦争か返還か二択を迫る。
最悪、イナリを殺すことでなかったこともできるが、それもまた契約違反。人間を消すのとはわけが違う。神を殺すというのは。
情状酌量の余地はおおいにあるが、それでも責任問題になることは確実で、場合によってはこれ幸いと向こうから難癖をつけられる場合もある。いや、地球の大神に悪感情を持たれ、関係悪化どころか敵対関係になるかもしれない。
それは現場の問題では留まらず、更に上の神を巻き込む事態へと発展することを意味する。つまり、政治の問題に成りかねない。そうなれば、問題は膨れ上がって制御できず、責任だけは取らされことになる。
それは、異世界転生や移転を担当する神達にとって最悪のシナリオだった。
女神は白旗をあげた。
もうヤケクソだ。
この場に上司がいないせいよと内心で責任を押し付ける。別の世界に行ってるため連絡が取れず、帰ってくるのも遅いのだ。
女神の裁量で決めるしかない。現場でコントロールできるうちに問題を沈静化させる。
結果的に、早期に白旗をあげたのは両者の得となった。
こちらの内情を語り、妥協点はないかと持ちかける女神。
あまりの白旗の早さ、そして嘘偽りを述べず話し合いで解決しようとする女神の紳士な対応にイナリも毒気を抜かれる。
元々の力関係でいえば、白い空間の神達の方がおおきい。イナリも目標を達成できずとも一太刀でも与えて後悔させてやるという玉砕覚悟だった。
話し合いで解決できるならそれに越したことはない。内申、怒りの感情は消えたわけではないが、神として実利を取るべきと判断して話し合いのテーブルに座る。
そして、開かれる会談。
会談いや会議は紛糾する。イレギュラー的な存在は一度異世界転移の経験があり、このままでは二度目の異世界転移になるという事実。
本人を調べても、ブラックボックスが多く深い部分がわからず、神達も匙を投げる始末。
現場責任者である女神はおおいに頭を抱えた。
存在自体がイレギュラーならば、もうコイツ一人だけ別枠で別の異世界に飛ばそうと案もあったが、イナリの拒絶があり却下された。
敗戦側は勝者の要求を飲むしかない。
ただ、勝者もまた停戦に応じたため、幾ばくか譲歩しなければいけない。
大神の面目を潰したのだ。大神は事なかれ主義の放任主義だが、それでもトップが決めたことだ。水面は地球に残れず、異世界行きは絶対なのである。一度目の異世界行きを見逃し、どんな事情があろうとも二度目はないと誓ったのにとイナリはおおいに傷ついた。
だが、そこだけは曲げることができないと言われ、不退転の覚悟ならば、こちらも譲歩するしかなかった。イナリも襲撃を仕掛けた手前これ以上の無茶はできないと判断する。
会議は踊る。
されど進まず。
水面のポイントはどうなっているかと見たら、人外のポイント量。
何をしたんだコイツとなるが、本人を調べようにもブラックボックス部分だったらしく解析不可。表面部分しかわからない。
仕方がないと、イナリが水面が神社で語った内容を説明する。
神達もポイントの増加や減少はできるが、ここまでの桁数のポイントを消すということは流石にできない。もうコイツ殺した方が早いのではとも思うが、イナリの存在があり、できず、堂々巡りが続く。
そして、イナリが語る、水面の希望を形にすることで落ち着いた。
複数の神の力によってギフトが創られる。
催眠によって彼の願いを確認しても、白い世界の神側はこれで本当に彼が満足するが半信半疑だったが、イナリは自信があると言う。責任を取るのはイナリだからと、諦めていく異世界の神達。
もう予定より、時間どころか日にち単位で遅れているのだ。もう、どうにでもなれと無我の境地だった。
色々な問題をクリアし、これで問題はないはずと自分を言い聞かせるように女神達は当初の目的、異世界転移をさせようとした。
当初は、水面だけ別の空間に隔離してキャラメイキングをさせようとした。
させようとしたのだが……。
「それを、イナリがまたワガママ言って……」
「だって、ぼっちは嫌って愚痴ってましたもの」
断固として仲間はずれは許さないとイナリは憤る。
別の世界でも駄目。同じ世界に飛ばすなら他との顔合わせは必須と強硬した。
「結果的にぼっちになってんじゃない……」
「人生って不思議ですね」
女神の視線をものともせず、イナリは微笑む。
その微笑に悔恨は一切含まれていない。
「のけものにされることと、自分で選んで孤独にいることは違います。彼はそれがいいと選んだのだから、私は彼を支持します。そのために全力を尽くします。それが彼にできる手向けです」
孤立と孤独は違うと言う。
その意味はわかるが、調整する側となった女神達は大変だった。ぼっちになる場合と、パーティーを組む場合と複数の場面予想を考え、そうなった場合、どうするべきかが会議の議案になった。
白い神達は絶望した。
この会議、絶対時間かかるやつじゃんと。
怒りは全てここにいない上司に向けられた。多分、かの神が出張に戻ると自分の席が墓場となるだろう。そのぐらいの怒りだ。
イナリにも怨嗟の感情が向けられてもおかしくないが、襲撃を仕掛けてきた頭のイカレ具合と悪鬼羅刹もかくやという表情、オーラを見せられて、もう他の神は心が折れている。反抗する心が起きないのである。味方となれば献身的に動き、有能さを発揮し、目を見張るものがある。
そして、イナリのしでかした行動は馬鹿だと一蹴できるが、それ以上に自分の氏子を守るために、自分の命すら捨てても構わないとするイナリの覚悟に、一定の敬意を払ってしまうという部分も、なくはない。神は慈悲深いのだ。それはそれ、これはこれなのだ。
「それで、どうでした? 彼の点数は」
「それを聞く? …………8点よ」
からかうようにイナリは聞く。
苦渋の表情で女神は呻く。
「あらあら、お高いですね」
その点数を聞く、イナリは鈴の音を鳴らすように笑う。
女神はその笑い声にグギギと唇を噛む。
「貴方も暇なんだから見てたでしょ。暇、な、ん、だ、か、ら!」
「ええ、でも、点数配分とか覚えてなくて。ほらっ、私って頭が悪いって言わるほどですもの」
皮肉には皮肉で返され、女神はさらに力を込め唇を噛む。
旗色が悪いという自覚もある。詳しい点数の内訳を聞かれたくない。
面持ちがさらに悪くなる。
「貴方が気に入る理由もすこーしだけわかるわ」
「ふふっ」
それは女神の敗北宣言だった。
言うまいと思っていた言葉を言わされたに等しい。
助言役として、水面の横にいる女神。これは助言という恩恵でもあったが、試練でもあった。彼が恩恵に値する人物に相応しいのかどうか。
それを確かめる場でもあった。
「イナリが貴方も気に入るかどうか賭けをしましょうと、その賭けにのったのが間違いだったわ」
正式には違うがそんな感じだった。
多分、メイビー。
「だって、私が参加できないのですもの。何か楽しむ要素でもないと困ります」
「困りますもなにもないのよ。見世物じゃねーつーの!」
誰ともパーティーを組めずぼっちになる場合、二度目のキャラメイキングをする際に、監視役として女神が横にいることが決まった。
そこに加わりたいとイナリは駄々をこねたのだった。
これには女神は断固として反対した。
命をかけてこの場に来た神が何をするかわからない。そんな存在を彼の横にいさせたら何が起きるのか。ここまでの苦労がご破産になってしまう可能性もある。
交渉が再度始まり、妥協点として、その場にいてもいいが話に加わらないこと、そして、承認する代わりに賭けが行われることになった。
「10点満点で私が気に入らないと思ったら点数を引いていく」
減点方式で、彼の行動・言動を審査していく。
神を神と思わない不遜な態度、こちらの聞いてほしくないことを聞く、イナリに話しかけるなど、女神の気に入らないと決めた事柄をすれば点数を引いていき、結果的にいくら点数が残るかどうかの勝負。
それをイナリと女神は賭けの対象にしたのだった。
採点項目は不正や言い逃れができないように事前に決められ、公開された。
そして、キャラメイキングの会話でも、
「水面はまるで採点基準を知っているかのように、こちらの聞いてほしくないことに触れなかったわ。怖いぐらいにね。貴方、本当に何もしてないわよね?」
「ええ、誓って何も」
今は遠き理想郷の時でも、彼はマイナスラインを割らなかった。
消費ポイントの減額すら要求しなかった。もし、言ったら受け入れる代わりに点数を容赦なく引くつもりだった。
理不尽だが、こちらも苦心して創り上げたものだ。それに、こちらの好感度、心象度の基準にしており、感情で判断しているのだから仕方がない。感情は論理的ではなく不条理なのだ。
そんなトラップとも呼べるものをいくつか仕掛けているのに、ライン上はセーフだよねとばかりに、まるでその線上でコサックダンスを踊るかのように、女神の罠をあざわらい、ギリギリの部分で踏みとどまっていた。
「私に話しかけず、近づきもしなかったですからね」
「なのに態度は私より丁寧に接したのだらかムカついたわ。基準に入れればよかったと後悔したわ」
イナリに話しかけるのもマイナスポイントだった。
だが、彼は一度も話しかけることもなく終えた。話しかけるごとに点数が引かれていくのに、彼はなぜか話しかけなかった。その癖、丁寧に頭を下げるのだ。
賭けに乗った側、トラップを仕掛けた側からすると面白くない。
「地球で面識があったとかないわよね?」
「ええ。地球では姿を現すのを禁じられてましたから。水面の話をただずっと聞くばかりでした」
強いて言えば、このキツネ耳だろうなとイナリは思ったが、それは言わなかった。この女神が気がつかなけばそれでいいと思ったし、何より終わったことで後の祭りなのだ。ただ、今はその余韻に浸ればいい。
「それなのに、注意深くマイナスを回避していたのに、最後に抱擁を求めてきたのにはムカついたわ」
「ムカついたのですか?」
イナリは変わらぬ微笑を続けているが、よく見れば笑いをこらえて、口端がヒクヒクと動いている。
女神は目線を強くして、うっさいと言外にツッコむ。
「ムカついたの。それまで知ってか知らずか点数を下げないようにしていたのに、自分の意志で触れようとしたもの。それも握手とかではなく、抱擁よ!」
女神の体を触る。
当然それはマイナスの行為だ。
すぐ隣の近い場所にいたのに、彼は女神の体に触れもしなかった。
それが無礼であるとわかっていたのだろう。適切な距離を取ろうとしていた。それを女神も感じていた。交わす言葉には、よく言えば親しみ、悪く言えば礼儀知らずとも呼べるものだったが、暴言はなかった。彼なりの線引きがあるのだろう。
女神も目くじら立てるほどでもなかったから許していた。つまり、彼の基準線は女神の採点基準を常に守っていたとも言える。
だが、最後。彼はその守っていた境界線を飛び越えるように踏み出した。
コサックダンス失敗どころか、幅跳びチャレンジとも呼べる蛮行。
ラインを大幅に超える逸脱行為。
下心ではなく、ただ、女神を抱きしめるためだけに基準線を超えたのだった。
それ自体、意味のない行動。
ただ記念に抱擁をしたいだけ。
ただそれだけのために、キャラメイキングで一切女神に要求という要求をしなかった彼が、唯一女神に求めたこと。
一歩間違えればひんしゅくを買う行為とわかった上で、彼は求めた。
「つまり、彼にとって、それだけ抱擁が大事な儀式だったんですね。貴方に感謝を示し、存在を感じることが」
「言葉にしないで!」
「私もと言いたくなりましたわ。ちょっと嫉妬しました」
抱擁を求められた際、少し嬉しく感じた自分にもイラついた。
喜んでしまったのだ。
自己のタブーを破ってまで求められる存在だと思ってしまった。わかってしまった。
神というのは基本情が深い。
それが敗因だと、女神は考える。
あの時、自分が決めたことなのに、まぁいいかと、諦めてしまったのは。
「好感度が地に落ちてたら云々って言って、喧嘩売ってくるんだから仕方ないでしょ!!」
ただの下心なら、拒絶できた。
ただのお願いなら、理由をつけて拒否できた。
だが、あの言葉だけはいただけない。聞き捨てならなかった。許してはおけなかった。
「ええ、笑いました。まるでこちらの事情を知っているかのようでしたからね。あそこまで言われて引き下がったら、貴方のことをチキンと呼んでました。いえ、ヘタレですね」
「今、喧嘩売られてるわよね? 買うわよ」
「褒めているのですよ。応じるとはまさに神ですね。素晴らしい! 見直しました! まさか自分からいくなんて!」
もし、願いを拒否すれば好感度が底辺であることを認めると同意であり、事実と反することになる。今までの点数集計はなんだったのかになりかねない。
神としての自分がそれを許せるか。なんてことない遊びのような約束事ではあったが、ここで不正をすれば大切なものを失いかねない。プライドや矜持といったものが、不正を拒絶する。
……今、横でニヤニヤと楽しそうにしている神もいたし。
かといって水面の願いをすんなり受け入れることができない事情が女神側にあった。
この賭け事における禁止事項。
女神側から事故以外で接触することや、誘惑することを禁じられていた。女神が試練をさっさと終わらせないために、イナリが設けた規則だ。
女神としても、そんなことをする気は毛頭ないため、気にしなかったルール。
そのルールを。
まさか、事情の知らない水面から破ろうぜと言われるとは思いもよらなかった。水面からの催促であったが、応じてしまえば女神の負けとなる。
それは完封負けを食らったうえに相手の挑発に乗って反則負けまで決めてしまうことの同意であり、麻雀で言えばダブル役満を決められたようなものだ。
つまり、完全敗北ということになる。
水面の願いを拒絶することも受け入れることも出来ず、袋小路に陥ってしまった。いや、気分的には前門の虎、後門の狼か。どちらに向かっても敗北が待っている。
どうせ負けるなら気持ちのいい負け方をしようと、水面の提案を飲んだ。
完全敗北を食らったが、悪くはないと思ってしまう自分の優しさが憎い。
「はぁ…………」
「補助は私が。どんな無茶ぶりでも対応しましょう」
いや、もうイナリが憎い。このオンナが現れたから予定が変わってしまった。全部、全部変わってしまった。
何も言ってもないのに、イナリはわかったかのように動き出す。
力場を整える、その文句をつけようがない動きに、文句が出そうだ。自分が何をするのかも言ってないのに、どうやったらそんな的確な動きをできるのか。
動かなくなった男にも小言を言いたい。イナリとの賭けのはずが、この敗北感はなんだ。水面に負けたという実感しか持てないでいる。グーパンでもしてやろうか。表情を変えるのにも相当な苦労したはずなのに、微笑んでいる男の頬に。
女神は文句を飲み込む代わりに、小さく呪文を呟く。すると、眼の前に一枚の紙が出現し、空中で浮かんで止まる。
それは水面の署名が書かれたもの。
契約書。
二柱は示し合わせたかのように、契約書に手をかざし、力を込める。契約書の先には彫像のように動けなくなった男。
賭けに負けたのだから代償が必要で、試練を乗り越えたら報酬を得るのが道理である。
何を賭けていたという程ではないが、それでは完全敗北を食らった自分が許せない。餞別というほどではないけれど、女神は最後に彼のために力を振るう。
「「契約はこれにて成る。それは神々の約束であり、宣誓であり、不可侵の盟約」」
それは彼に紡いだ言葉だった。その再現。
だが、彼がこの光景を見たら、荘厳だと思ったそれが児戯だと思えただろう。
女神達の言葉と共に光の粒子が出現する。
声が発せられるごとに彼女達を中心に粒子が舞い上がり、光の欠片が増えていく。
「それを侵そうとするならば我らへの大逆としれ。傲慢と嗤うのならば嗤え。不遜なる冠こそ勝者への証」
それは彼に紡いだ言葉の再現。
彼に聞かしたものではない、続きが、そこにはあった。
聞かせるつもりはなかったもの。耳に入れる必要もなければ、そこまでするものではなかったもの。
「今は遠き理想の具現。彼の望みとして、我らが認め、叶えた場所。余人が土足で踏み入る余地はない。それを壊そうとするならば、世界の終焉を願う悪しき魔王の諸行に他ならない。故に、刻め、刻め、刻め」
謳うように言葉が紡がれ、粒子がそれに呼応するように発光していく。
その煌めきは光の祭典のよう。点滅は祝福のように輝き、消え、一層強くまた輝く。細片は意志を持つかのように発光し、祝福するかのように女神達と男を中心に舞っていく。それはまるで桜吹雪。
光芒は放たれ、乱れ、舞い躍る。
「不遜たる冠には玉座を。独りぼっちの玉座には平穏を。慈悲には慈悲を。傷には傷を。彼岸より彼方まで。森羅万象、尽く立ち塞がろうとも、我らはそれを願う」
契約はここに成った。
それは神々の約束であり、宣誓であり、不可侵にて不退転の宣言。
契約がより強固となる。意味がないといえば意味のないような行為。
女神達の言葉が終わると、光の粒子はまるでなかったかのように消滅していき、紙は燃えるように消えていった。そして、最後に男の体も消えていく。
女神は、自身の横で、今まで会った中で一番良い笑みを浮かべているだろうイナリを意地でも見ないように歩き出す。
「はぁーーーもう嫌! 反省書を書くのも嫌だし、これから調整もあるし。疲れることがまだ残っているし、反省書を書くのも嫌だし!」
「ご愁傷さまです」
誤魔化すように声をあげると、その原因を作った元凶がまるで他人事のように労りの言葉をかけてきた。ツッコミすら言わない。
今振り返っても、素知らぬ顔で会心の笑みをだすのだろう。
効果はないし、今の自分の顔を見られたくもない。だから顔を合わさないまま女神は会話を続け、
「手伝ってくれるんでしょ」
「ええ。このまま帰っては怒られてしまいますからね。ほとぼりが冷めるまで雲隠れ……もとい、罪滅ぼしはしないと」
「貴方が有能じゃなければ怒っていたわ。有能じゃなければ遠慮なく怒ってたのに。ちっ……」
「まぁ、ひどい」
「安いものだったら叶えてあげる、か……はぁーーー、ほんと高い買い物だったわ」
諦めるのだった。




