深淵卿の夏休み編 黒いローブの男
すみません。前回、次で深淵卿の夏休み編は終わりと言いましたが、おじさん達を書くのが楽しくなって気が付いたら予定の四倍書いてました。つまり、もう一話あります。今回は九割おじさんしか出ませんが、頑張るおじさん達を見守って頂けると幸いです。
主張の激しい夏の太陽が中天を大きく過ぎた頃合い。
サングラスをかけた革ジャケットの男が、中々に歴史を感じさせるファストフード店から出てきた。
片手にバーガーとホットドッグの包みを重ねるようにして持ち、もう片方の手にはアイスコーヒーだろうか。ストローの刺さった黒い飲み物を持っている。
一度、太陽を忌々しそうに睨み付けた男は、そのまま路上駐車した自動車へと歩み寄った。コーヒーを一旦ルーフに乗せてドアを開き、中に乗り込む。
「すまないな、警部。いくらだった?」
車の助手席には同乗者がいた。電話をしていたのか耳元から離したスマホを懐にしまい、そのまま反対側の懐から財布を取り出しながら尋ねてくる。
「なに言ってる。両方、俺のだ」
「……」
コーヒーをスタンドに置き、見せつけるようにホットドッグをがぶりっ。
同乗者――エージェントJは、物凄いジト目で男――リチャード警部を見やった。どこ吹く風で美味そうにホットドッグを頬張る警部。ズゴゴゴーッとアイスコーヒーも飲む。
エージェントJは溜息を吐きながら財布を懐に戻した。
「冗談だ。おごりだよ」
ハッと鼻で嗤いながらもバーガーを投げて寄こす警部を、Jは横目に睨んだ。が、空腹には勝てない。
何せ、昨日の超常的で危機的で衝撃的な事件から休息なしで、夜を徹してここデトロイトまでやって来たのだから。
浩介達が帰ってしまった後のこと。
取り敢えずグール達を監視しつつもMCB本部からの応援を待ったJ達に、局長――やっぱり〝Z〟だった――は、より詳細な報告を聞いて指示を出した。
それがリチャード警部と共にデトロイトへ行き、彼の殺された相棒ティム・シークレストの事件を追え、だったのだ。
この事件の解決のためには、黒幕であろう黒ローブの男を追わねばならない。
その手がかりは二つ。一つは村の中を調査して、あるかどうかも分からない痕跡を調べること。もう一つは、この村の異常を突き止めていたが故に殺されたであろうティム・シークレスト殺害事件を追うことだ。
村の方はエージェントHとM、それに本部からの応援部隊に任せ、Jにはデトロイトを調べろと命じたわけである。
リチャード警部が記憶処理されていないのも、そのためだ。
で、夜の帳が降りてそれなりに時間が経った頃合いに、百数十人態勢でやって来た本部の者達とH&Mに現場を任せ、こうして休む間もなく警部の車でデトロイトへやって来たのである。
「それにしても……良かったのか? てめぇの相棒……」
警部がチラチラとJを横目にしながら問う。一瞬、バーガーを食べる手を止めたJは、「ああ」と小さく頷いた。そして、何かを吹っ切るように一際大きくかぶりついた。
「Kにこの仕事は向いていない」
そう、二人一組が基本なのに、この場にKはいない。リチャード警部が見ている前でニューラ・ライ○ー・リミットをやったからだ。
その後に捜査協力を願ったのだから、それは独断専行の常習犯であろう警部とて頷くに決まっている。言外に、捜査協力だけが記憶を保持したままでいられる唯一の条件だと突きつけられたようなものなのだから。
「K自身がそう判断したんだ。私もそう思った。ならば仕方あるまい」
「あ~、まぁ、そりゃそうだが……」
初めて本当の超常的事件現場に居合わせて、震えるだけで何もできなかった。その事実を前に、自分はMCBエージェントに向いていないとKが頼んだのだ。
そして、Jもそれを了承した。
――敵を前に腰を抜かしていたなんて嫌な記憶、消してください。また会いましょう、J
――いや……これっきりだ
それが最後。MCBエージェントであったことを忘れたKは本部のエージェントに連れられていった。
きっと、危険のない新たな人生を、何も知らないまま生きていくことだろう。
そう呟いて、バーガーを一気に食べきり口元を拭うJ。その内心が穏やかではないことを示すように包み紙を乱暴に握り潰し、外へ視線を向ける。
警部は思った。
あれ、ただ映画のシーンを再現したかっただけじゃねぇの? と。
(まぁ、本当に記憶が消えてたみてぇだし、実際、辞める決断はマジだったのかもな。シリアスな別れ方はしたくなかったって感じか? 暗くならねぇように)
もちろん、署内でもノンデリの悪評を欲しいままにしている警部であっても、わざわざ口に出したりはしない。
とはいえ、長年の刑事の勘的に気になる点はあるわけで。そうして、気になってしまえばやっぱり聞いてしまうのが刑事のサガだ。
「あんたら以前からの知り合いか?」
「……なぜそう思う?」
「新設の部署だろ? なのに独断専行で助けに来るとか、知り合ったばかりの仲間にすることか? 底抜けのお人好しか、度を超えた博愛主義者でもあるまいし」
少なくとも、お前さんはそういうタイプには見えないと、同じく食べ終わった包み紙を乱暴な手つきで握り潰す警部。
Jは「慧眼だな、警部」と苦笑しつつ頷いた。
「エージェント全員ではないよ。ただ、MとHを含め何人かは軍で同じ部隊に所属していたんだ。Kは新人だったが……まぁ、それでも中々シビアな修羅場を共に潜り抜けてきたよ」
「……特殊部隊か?」
「あまり大っぴらにはできない、ね」
「はぁん。なるほどな」
ありがちと言えばありがちな不幸な出来事。上層部の争いに巻き込まれて色々と不味い状況に陥っていたJ達のチームを、ならば寄こせとZがスカウトしたのだ。
「家族も同然さ」
その一言には力がこもっていた。HとMへの仕打ち、黒ローブの男には必ずその代償を払わせると決意と怒りが滲む声音だった。
だがそれ以上に、黒ローブの男の思惑を絶対に阻止してやるという強烈な気持ちがヒシヒシと伝わってくる声音だった。
「家族も同然なのに、よくこんなわけの分からねぇことばかり起きる事件に首を突っ込む、いや、頭からダイブするような組織に家族ごと入ったな」
「世界に超常現象が増える以前から、それは確かにあった」
「あん?」
「MCBに入る以前から、我々は知っていたということだ。科学では説明できない現象をな」
「それは……」
そう、実はJ達の部隊は地球の大樹が復活するずっと以前に、請け負った特務の最中、奇怪で凄惨な現場に遭遇したことがあったのだ。
「他国への潜入と、潜在的テロ組織の殲滅。いつも通りのお仕事だ。我々なら損害を出さず完遂できる任務……のはずだった」
「違ったのか」
「ああ。一人、奇妙な男が混じっていた。今でも何をされたのか分からない。だが、仲間をやられた。何人も……あんな、あんな死に方は……」
顔中に入れ墨が彫られていて、元の顔が分からないくらいの男だった。人間離れした身体能力を持っていて、壁や天井まで使った三次元的な動きをするほど凄まじく、その常軌を逸した素早さは鍛え上げられた精鋭であるはずのJ達が照準しきれないほど。
しかも銃弾の雨の中、動き回りながらも何かをブツブツと呟いていて、かと思えば一人、また一人と隊員達が穴という穴から血を噴き出しながら悶え苦しみ死んでいく……
「最後は、隊員の一人が自爆に巻き込んで奴を倒した。上半身が弾け飛んだせいで奴の所持品はろくに調べられず、結局、何をしたのか分からなかった。テロ組織の拠点にいたんだ。おそらく、何かの化学兵器の類いを使ったのだろうと、当時は結論づけたのだが……」
死んだ隊員達を調べても結局、毒物や細菌兵器の痕跡はなく。
「今なら分かる。あれも魔法の一種だったんだろう」
「なるほどな。世界の裏にはずっと昔からお伽噺が実在してやがったってことか。んで、運悪くそれに遭遇しちまって、家族を失ったあんたらは……だからこそMCBの勧誘を受けたと」
「政争に巻き込まれて選択肢がなかったというのもあるが……ああ、チームに否を唱える者はいなかったよ。むしろ、喜んで入局したさ」
何も分からぬまま殺された家族の無念を、少しでも晴らせるなら。
もう二度と、わけも分からぬまま殺されるような者達を少しでも減らせるなら。
「男はおそらく、テロリスト共の仲間じゃない。利用しようとしていたんだ。奇妙で凄惨な遺体が幾つか発見されたからな」
「奇妙な?」
「男と同じ入れ墨を刻まれた遺体だ。痕跡からして、死後に彫り込まれたものだった。いったい何をしようとしていたのか……」
一拍おいて、窓の外を向いていたJの視線が帰ってきた。リチャード警部に強い眼差しが注がれる。
「世界の裏、いや、裏の裏に潜む連中は自分達がルールの埒外にいると思っている。この世のルールは自分達には適用されない。だから、好きにしていいと」
「……かもな」
世界中で、いったいどれほどの人が行方不明になっているか。もちろん、普通の犯罪に巻き込まれた人が大半だろう。だが、世界の裏の裏を知った者からすれば、それが全てでないことは自明だ。
より残酷で、凄惨で、常軌を逸した何かの犠牲者がいる。
ヴァンウィッチの村を訪れ消えた教授のように。あの地下道に積み上げられた骸達のように。
「だが、世界は変わった。魔法はお伽噺の存在ではなくなった。暗闇の奥に潜む者達も、もう好き勝手にはできない。いや、させない」
しばらくの間、警部とJは見つめ合った。熱く滾るJの瞳。それを真っ直ぐ見返すリチャード警部。
一拍おいて、警部はフッと口の端を上げて笑い、
「悪くねぇ。そういうのは嫌いじゃ――」
「熱いなっ、君達!」
「うぉおおおっ!?」
後部座席から唐突に響いた声に警部は思わず飛び上がった。慌ててバックミラーを見やる。
そこには、鶏肉のサラダが入った弁当箱を膝上に置き、片手にスムージーを、もう片手にフォークを持った日本人の姿が。
そう、実はこのデトロイト行きの旅にはもう一人、同行者がいたのだ。米国に来て以降、せっかくだからと息子とジャンクフードばかり食べていたが故にすっかり胃もたれしてしまい、近くの店へ別の朝食を買いに行っていた健比古である。
いつの間にか、本当にいつの間にか車に戻っていたらしい。
Jと警部の様子に、何かこう映画のワンシーンのような胸熱を感じたのか。瞳をキラキラさせながらスムージーをズゴゴゴッとすすっている。
「驚かせんじゃねぇ! てめぇ、いつの間に戻ってやがった!?」
「ふむ、流石にドアを開閉すれば気が付かれるかと思ったが……遠藤君を見習って鍛えている甲斐があった。私の隠形術も捨てたものじゃないな」
「タケヒコ……勘弁してくれ……心臓が止まるかと思ったぞ」
「ははっ、すまないな、J。少し絡まれそうになってね。面倒だから術を使ったんだ。やはり海外は、いや、デトロイトが、かな? 怖いものだな」
「魔法使いが何を言ってやがる……」
サイドミラーに、通りの向こうで動揺した様子で周囲を見回している若者が数人いるのを見て、警部は溜息交じりに首を振った。
「それより、息子から連絡があったよ」
「ああ、村に関してだろう? 私にもさっきHから連絡があった」
「何か分かったのか?」
警部が鋭い眼差しを向けてくる。が、Jは首を振り、健比古も苦笑を浮べながら答える。
「小道具や魔法陣的痕跡など、何を意味するのか、何に用いるのか不明なカルト的痕跡はいろいろあるようだが……どれも本腰を入れての解析が必要だな。少なくとも黒ローブの男を含め関係者が潜んでいるということはなかったようだ」
「黒ローブの行き先に関する手がかりは?」
「それも、見つかっていない」
「つまり、何も分からねぇってことじゃねぇか。なんのために魔法使いの息子を置いてきたんだよ。本当に何も掴めなかったのか?」
「魔法使いではなく陰陽師だ、ミスター」
「どっちも変わらねぇだろ」
ちょっとしなびたレタスに残念そうな雰囲気を醸し出しながら、警部に肩を竦める健比古。
陰陽道は様々な術道を総合的に扱う。なので、まったくお手上げということはない。が、それでもやはり魔術系は専門外だ。
特に地下に残されていた魔術的痕跡は西洋魔術系ともどこか違う異質なもので、流石の清武も頭を抱えてしまったくらいである。改めて古今東西の資料を漁る必要があるだろう。
「ともかく現場の封鎖は成功した。グール達も息子が術で縛っている。どうやら移送はせず、そのままヴァンウィッチに研究施設を兼ねた仮拠点を作るようだが?」
「ああ、Hからもそう聞いてる。あの数のグールだからな……移送より現実的だろう」
「うむ。グールに関しても遠藤君達の出向日になれば人間に戻せる可能性は高い。村人を尋問すればいろいろ分かることもあるだろう」
「あれを……あの状態から戻せるのか……?」
警部が思わず体ごと向きを変えて健比古を見やった。健比古は、しなびたトマトを悲しげな表情で頬張りながら頷いた。
「可能だろう。時間がある程度経っているから戻すためのエネルギーも大きくなるだろうし、直ぐにとはいかないかもしれないが」
「そうか……やっぱりとんでもねぇな」
慣れた気でいても、やはり信じ難いことなのか。深い溜息を吐いて座席に座り直すリチャード警部。
「できれば直ぐにでも治療してもらいたいものなんだがな……」
Jが不満を隠しもせずジト目をバックミラー越しに送る。
健比古は、しなびきった生タマネギを端に除けつつ、もはや何も期待していない表情でチキンを口にして――想定外に美味かったらしい。目を見開き、直ぐにニッコリ笑顔になってJを見返した。Jのジト目は深くなった。
「お姫様の念願のご旅行だ。これに優先する事などありはしない」
己のことで旅行を中断させてしまうとは、この健比古、一生の不覚ッと言わんばかりに顔をしかめる。
「い、いや、そもそも彼女はまだ子供だし、事件に関わるのもどうかとは思うが……」
「うむ、良いことを言うな、J。私もそう思う。しかし、当のお姫様が、ただの子供に甘んじることを良しとしないんだ」
「いや、そうじゃなくてだな。私は、ミスター・エンドウが来てくれるならそれで、という意味でだな」
「なんと残酷なことを!」
「何がだ!?」
陽晴の恋慕に、Jさん、気が付いていないらしい。事件現場というのもあって確かに陽晴は陰陽師モードであることが多かったが、それでも片鱗はたくさんあったはずなので、案外、鈍いタイプなのか。
「うるせぇぞ、てめぇら。それで、あの化けもんはいつ来られるんだ」
「失礼だぞ、警部。ミスターを付けるべきだ。国家が正式に要請した日本のエージェントなのだからな」
Jにたしなめられ、ふんっと鼻を鳴らしつつも回答を促す警部。
健比古も朝食を食べきりながら少し考えるように視線を宙へやった。
「予定通りなら一週間後だが、それは旅行後にある程度の休息日を取っているからだ」
実際には、休息以外にも妖精界に関する報告をヴァネッサや朱、もちろん陽晴も所属組織にしたり、米国出張の準備や最終確認をしたりするための時間だ。
数日後にはハジメ達も旅行を終えて、その最終日には箱庭でパーティーをする予定なのだが、一応、明日帰国予定の浩介達も用事を済ませつつ開催を待って参加するつもりだ。本格的に渡米するのは、その後ということになるだろう。
故に、
「そうだなぁ。無理を聞いてもらう形で……最短で四日後。遠藤君だけでも先行してもらえるなら……明日、いや、明後日にも来てもらえるかもしれないな」
と答える健比古。もちろん、それは浩介の分身体を考慮に入れた場合の話だ。
「……なんだ、本当に直ぐじゃねぇか」
「いやいや、警部。今、この瞬間も黒ローブの男は怪しげな術を誰かにかけているのかもしれないんだぞ? M達曰く、何か計画があるような様子だったとも言うし……」
「ガキがガキらしく遊びてぇってんなら、邪魔すんのは野暮ってもんだろ。事件を追うのは大人の、それもプロの役目だ。急かしてやんなよ」
「くっ、正論だ……」
悔しげに腕を組んだJを横目に、警部はハンドルを握った。
「取り敢えず署でいいんだな?」
「ああ、捜査拠点とさせてもらう以上、挨拶はしておきたい。Zからも我々が赴くと連絡がいっているはずだしな。警部、君だってこれ以上無断欠勤はできないだろう?」
「はんっ、署長が怖くて捜査なんてしていられるか。あれは根っからの小心者だぜ? ゴマすりだけで上に行ったような奴だ」
心底馬鹿にした様子の警部。想像通り、署長とは折り合いが悪いらしい。ただ、それでもクビにされていないどころか警部の立場であれるのは、それだけリチャードが結果を叩き出し続けたからだろう。
「警部。君の経歴がドライブ中に送られてきたので見たが……本来、君が署長でもおかしくない。それくらい、いや、本当に凄まじい検挙率だ。実に優秀だよ。本当にその乱暴な言動と粗雑な性格さえなければ……」
「うるせぇ。署長なんて面倒なだけだ。俺は死ぬまで現場の刑事だ」
吐き捨てるようにそう言って、ギアを入れ車を発進させる警部。急発進にタイヤがキュルキュルと異音を立て、シートに体を押しつけられたJと健比古が顔をしかめる。
ほとんどドリフト走行みたいにUターンした車体。
健比古は思った。たとえ国は違えど、絶対に道交法の類いに違反しているよな、と。というか、たぶん気にもしないタイプだな、と。
「その後は現場巡りだな。カルト的事件現場という話だ。私の術で何か痕跡を見つけられればいいが……」
「ああ、そう祈ってるぜ」
「あっ、こら警部! 今、包みをポイ捨てしたな!? 戻って拾いたまえ!」
傍から見れば、たぶんきっと、とんでもない凸凹トリオに見えるだろう三人は、そうして徹夜明けのままデトロイトの町へと踏み込んでいった。
それから。
無事に(?)署長への挨拶を済ませ、そのまま幾つもの事件現場を巡り、しかし、健比古の調査でも特に手がかりは掴めず時間だけが過ぎていき。
時刻は、そろそろ深夜に届こうかという頃合い。
「ふむ。捜査資料によると次は――」
一旦、デトロイト市警に戻ってきていたJ達。
間借りしたデスクのPCで、改めて捜査資料を見ながら次に行く現場を相談しようというところで、
「おや、警部。どこへ行くんだ?」
席を立ち、ボロボロの使い古した革のリュックを肩にかけ歩き出したリチャード警部にJが声をかけた。
警部は立ち止まり、物凄いジト目をしながら肩越しに振り返った。
「どこって……帰るんだよ」
「帰る? なぜだ?」
心底分からないと言いたげに目を丸くするエージェントJ。それに、警部は素で頬を引き攣らせた。
「夜は、家に帰って、寝るもんだぞ?」
まるで化け物に人間の普通の生活を教えるように、一語一語、強調する。
「警部……今更そんな常識的なことを言われても……気味が悪いぞ?」
「やかましいわ! こっちは丸二日寝てねぇんだよ! 夜通しドライブしていてな! どこぞのエージェントみたいに、一日は三十七時間じゃねぇんだ!」
「だから、運転を代わろうかと言ったではないか。その間に仮眠しろと。頑なにハンドルを握らせなかったのは君だろう」
「いいか、俺には二つ許せないことがある。一つは、俺の銃を勝手に触る奴。もう一つは俺の車を勝手に触る奴だ。そして、お前等は俺の銃に触るどころかぶち壊した側だろうが!」
「おいおい、あれは私のせいではないし、まさかハンドルを引き千切られるとでも思って――」
「あと、元特殊部隊の兵士を基準にすんな。見ろ、魔法使いの野郎を」
Jは、そう言えばタケヒコが静かだな? と後ろのデスクを振り返った。
コーヒーカップの山に埋もれるようにして、血走った目でコーヒーを飲んでいるおじさんがいた。
「ぜんっぜん平気だが? 別に眠くないが?」
例のハードボイルド症候群を発症したらしい。タフなJの有様に感化されてしまったのかもしれない。
カフェインの大量摂取で意識を保っているが、実はJに協力を要請される前、普通に時差ボケで寝られていなかったので地味に三日くらい寝てないレベルの寝不足なのだ。
エージェントJは視線を警部へ戻した。警部も視線をJに戻した。
Jは深く頷いた。
「また明日、よろしく頼む! ゆっくり休んでくれ、警部!」
やれやれと溜息を一つ。警部は片手を上げて返事の代わりとしつつ署を出て行った。
エージェントJと健比古はその後ろ姿を見送り、そして、なんとも言えない表情で顔を見合わせたのだった。
まだ空がようやく白み始めた頃合いの早朝。
デトロイトの都心部に、レンガ造りの外観のビルがあった。四階建てのビルで、L字型をしている。寂れた駐車場を囲むような形だ。
周囲を小綺麗な高層ビルで囲まれていて、趣はあるがなんともひっそりした雰囲気の建物である。
手入れがあまりされていないのか。ところどころレンガが剥がれていたり、欠けていたり、あるいはコンクリート分が黒く変色していたり。
そんなビルにかかる、これまた目立たない看板に書かれているのは清掃会社の名前。果たして仕事があるのか、少し心配になる外観だ。
そんなビルの前には、やはり高層ビルに囲まれた小さな公園がある。が、憩いの場とは言えないようだった。酷い落書きがそこかしこにあり、ゴミも散乱している。
夜通し飲んでいたのだろうか。若い男が数人、ちょっと休憩といった様子で公園のベンチに腰掛けたむろしていた。
その公園の奥、ビルとビルの狭間の細い路地からスッと人影が現われた。
奇妙な男だった。黒いローブを着ている。コートではなく、ローブだ。フード付きで腰には縄がベルト代わりのように巻き付いている。
まるで、中世の映画に出てくる修道士のようだ。あまりに場違いである。
黒いローブの男は公園を足音もなく素通りした。男達の脇を通って道路に出る。
男達は、そんな時代錯誤な服装の男が真横を通ったのに一瞥もしなかった。
早朝なので人通りは少ない。それでもまったくいないわけではなく、ちょうど自転車に乗った青年が通りかかったが……
やはり、気が付いた様子もなく目の前を素通りしていく。
黒いローブの男は、そのまま道路を渡って小汚い清掃会社の中へ入っていった。
それから数分。
「それでさ、その時の女がまた――」
下品な話で盛り上がっていた公園の男達の声が、唐突に止まった。
「「「!!? んんっ!?」」」
と、微かにもがく音とくぐもった声が漏れたが、それも束の間。全身黒尽くめの武装した者達が、男達の口を塞ぎ、瞬く間に意識を奪う。
酔っ払いの男達は、そのままビルの狭間の路地に引き摺られていき姿を消した。
代わりに、別の男達が姿を見せた。いつものブラックスーツ姿のエージェントJと、黒い袴姿の健比古だ。
Jと健比古は顔を見合わせ、頷き合い、そして清掃会社へと小走りで駆け寄っていく。
そのまま建物脇の路地に入り、鉄製の裏口らしき場所へ。
「今、開ける」
「便利なものだな」
紙で作られた人形を指の間に挟む形で刀印を結び、口元に寄せて何事かをささやく健比古。最後に一息吹きかければ、人形は命を吹き込まれたかの如く独りでにスッと宙に浮いた。
そのまま紙の薄さを利用してドアの隙間から中に入り、一拍。ガチャリッと鍵の開く音が鳴る。
Jが懐から銀色の魔法銃を取り出したのを合図に、健比古が音を立てぬようそっと扉を開いた。流れる水のような動きでスルリッと、やはり音もなく突入するエージェントJ。
その後を、人形を傍に浮かせたまま健比古が追従する。
ひっそりした屋内だった。人の気配も感じられない。早朝なので当然と言えば当然だが、しかし……
「嫌な感じだ。ヴァンウィッチの村に足を踏み入れた時に似た雰囲気だ。外からは感じなかったが……」
「私には分からん。だが、君がそういうなら……当たりか……」
どうしてもこの町で起きた奇怪な事件の現場、怪しい噂の出所だけは早々に巡っておきたくて、夜を徹しての捜査をしていた二人。
どうやら、この早朝に当たりを引いたらしい。
「タケヒコ、眠気は大丈夫なのか?」
「大丈夫だ、問題ない。むしろギンギンだ」
大量のカフェインでも払えなかったっぽい眠気。人間、三日も眠らなければ徐々に頭がおかしくなると言われているので、流石のJも現場巡りは一人で行くから仮眠を取れと言ったのだが……
そうはいかないと健比古は切り札を出した。明らかにヤバイ色合いの液体が入った小瓶を取り出し、それを飲んだのだ。そして、一瞬で目がギンギンになった。絶対ヤバイ。
――ははっ、世界が煌めいている。流石は魔神が認める博士の特製だ。効くなぁ。
警察署で、ヤバい飲み物を決めてハイになったおじさんが、そこにはいた。
全然大丈夫に見えない。問題しか感じられなかった。
逮捕すべきか否か。Jはとても迷った。
「ま、まぁいい。それより奴は……」
「式の反応からして……地下だな」
「また地下か」
「いつの時代も悪党は地下に潜むものだ」
「違いない」
健比古の人形がスッと前に出た。先導するように宙を進む。
それについて行くことしばし。掃除用具が保管されている倉庫のような場所に辿り着く。
その奥に扉が見えた。半開きだ。扉には立ち入り禁止の文字が書かれている。
奥を覗くと地下への階段があった。式を先行させつつ慎重に降りる。
その先にはコンクリート製の通路が続いていた。大小様々なパイプが天井に走っていて、赤いランプが一定間隔で点っている。
通路全体が血に染まっているかのようだ……と感じてしまったのは、ヴァンウィッチで見た光景と緊張のせいだろうか。
「タケヒコ」
「ああ」
通路は長くない。五メートルほど先にまた扉が見えた。汚物処理場の文字が書かれている。その扉もまた、少しだけ開いていた。
警戒しながら進み、Jが隙間から室内を覗くが真っ暗でよく見えなかった。なのでサングラスをつける。別に深淵卿に憧れたなんて理由ではない。MCBの支給品だ。暗視機能が付いているのである。
中にあったのは鉄製の大きなゴミ箱が幾つか。ゴミ袋が幾つも転がっていて、あちこちに細かなゴミも散乱している。壁際には用水路のような水場があり、床どころか壁や天井にも様々な染みができていた。反対側の壁には掃除用具が並べられている。
全体的に不衛生で、糞尿や生ゴミが腐ったような匂いも感じる。あまり長居はしたくない場所だ。
そして、そんな部屋の一番奥に、奴はいた。
「……」
正面の奥に、もう一枚鉄製の扉が見える。その扉の前に、こちらに背を向けた黒ローブの男の姿があった。足下には、ヴァンウィッチで見たアンティーク調の大きな南京錠が転がっている。
たった今、鍵を外したのだろう。
黒ローブの男から視線を逸らさないまま、Jは手信号を健比古に送った。了解代わりに、健比古の手が二回、Jの肩をタップする。
一拍。
「動くな!!」
怒声を上げながら踏み込む。黒ローブの男の肩がピクリッと揺れた。逃げ出す様子はない。
健比古と左右に分かれるようにして黒ローブの男の斜め後ろで構える。Jは魔法銃を、健比古は呪符を片手に。
「ゆっくりだ。ゆっくりと両手を挙げ、膝をつけ」
Jの明瞭な命令が反響する。黒ローブの男がゆっくりと両手を挙げていく――刹那、
「っ、――〝白虎〟!!」
健比古が裂帛の気合いを込めて呪符を放った。空中で直ちに真っ白な虎へと変じた呪符が、そのまま――エージェントJに襲いかかる!
「なっ」
と、驚愕の声を漏らした直後、〝白虎〟の体当たりがJを吹き飛ばした。同時に〝白虎〟の胴体に大穴が開く。
「! 待ち伏せ!? もう一人いたか!?」
「違うっ、幻影……いや、幻覚だ! ――オン アキシュビヤ ウン!!」
〝呪〟を祓う真言が響いた瞬間、Jと健比古の視界から扉の前にいた黒ローブの男が消えた。
代わりに、この空間の真実が目に入る。壁中に彫り込まれた異質な魔法陣。散らばっているゴミは骨、ゴミ袋に見えていたのは何かの肉塊。掃除用具は剣や槍など種々の武器や怪しげな道具で、用水路は赤黒いタールの如く。
(いつの間に〝呪〟を!? 油断などっ)
幻の投影ではない。明らかにJと健比古の知覚に仕掛けられた術の類いだ。
おそらく、この建物に入った後どこかでかけられたのだろうが、それにまるで気が付かなかったことに冷や汗が噴き出す。
それは取りも直さず、土御門家の現当主たる己より力量が上の術者がいるということに他ならないから。
だが、戦慄を感じている余裕もなかった。
「J! 後ろだ!」
「!!? うぉっ!?」
スゥッと暗闇から滲み出るようにして現われた黒ローブの男。その手にはアンティーク調の装飾が美しい短剣が。
一閃。虚空に銀の軌跡が描かれる。ゾッとするほど鋭い斬撃だった。
だが、Jも歴戦の、それも精鋭中の精鋭たる兵士だった男。咄嗟に魔法銃を首元に添えたことで致命の一撃を防ぎ、そのまま後転しながら身を起こす。と、同時に魔法銃の引き金を引いた。
不可視の衝撃波が黒ローブを襲う。が、当たらない。散弾銃並の効果範囲を持つそれを、黒ローブの男は獣のように身を伏せることでかわしたのだ。
そして、そのまま獣の如き速度と地を這う低さで追撃してくる。
「――〝不動縛〟」
不動金縛りの術。詠唱省略の即席版だが、たとえ拘束はできずとも足は鈍る。という目論見は、黒ローブの男が短剣で虚空を薙いだ瞬間に外された。
(不動縛を切り捨てた!? 呪具……いや、あの感じ……魔力? エクソシストが使う神器の類いか!?)
まさか一瞬の停滞もさせられなかったことに目を見開くも、しかし、健比古の動きは止まらない。
エージェントJが、突き出された鋭い短剣の一撃を横殴りで打ち払った直後を狙って、次の手を放つ。
腹に穴を開けられようと生き物ではないのだ。〝白虎〟は未だ健在! 意志一つで操れる!
風さえ斬り裂きそうな背後からの爪撃を、しかし、黒ローブの男は凄まじい身体能力で回避した。なんとJの肩に置いた手を支点に倒立したのだ。
爪撃がブラックスーツを掠めて、肝が冷えたような引き攣り顔になるJ。もちろん、動きを止めたりはしない。
黒ローブの男が倒立状態から百八十度反転しつつ背後に着地しようとしているのを重心の動きから察し、支点である己の肩を落としながら自らも反転する。そして、黒ローブの男のバランスを崩すと同時に反撃すべく背後に銃を向ける。
だが、ここでも恐るべき技が披露された。
「ぐぁ!?」
空中サマーソルトキックとでもいうべきか。不安定な場所かつ片手一本。だというのに、黒ローブの男は空中でバク転し、置き土産と言わんばかりにJの顎を蹴り上げたのである。
それどころか、ついでとばかりに投げナイフまで放ち〝白虎〟まで完全破壊してしまう。
脳が揺れて前後不覚に陥るJを助けるべく、
「――〝砕〟ッッ」
咄嗟に〝言霊〟を放つ健比古。氣力の塊を放つ単純な技であるが故に本来の威力はそれほどない。だが、袴に織り込まれた〝呪〟との相乗効果があれば、ミドル級プロボクサーのストレートパンチくらいの威力はある。
最速かつ不可視の一撃は流石に回避し切れなかったのだろう。男はたたらを踏んで、大きくバックステップした。
そう、たたらを踏んだだけで済んだ。プロボクサー級の衝撃を頭部に叩き込んだはずなのに。
「J! あの黒いローブ! 術に対する鎧だと思え!」
「っ、あの近さでもフードの奥が真っ暗で何も見えん。普通のローブじゃないと思っていたさ!」
頭を振るようにして意識を回復したJが銃口を向ける。直後、黒ローブの男から、
「※※※※※※※※」
何か酷くおぞましい発音の、まったく聞き取れない言葉が放たれた。
「「ぐあっ!?」」
揃ってシールドバッシュでも食らったかのような衝撃を受け吹っ飛ぶJと健比古。
二人揃って金属製大型ゴミ箱の開いたままの蓋部分に激突し、そのままゴミ箱の中へホールインワン。
「くそっ、洒落にならんぞ、タケヒコ!」
「言ってる暇があるなら引き金を引け!」
怪しい肉片や液体で薄汚れながらも元気に飛び出してくるJと健比古の姿に、黒ローブの男が一瞬、動きを止めた。
どうやら意外だったらしい。今の一撃を受けて大きなダメージを負っていない様子が。
「取り敢えず、君の〝カタシロ〟とやらには感謝しておく!」
「回数制限付きだ! 無駄にするなよ!」
Jの懐から砕けた紙片がバラバラと落ちた。あらかじめ仕込んでおいた〝身代わりの人形〟だ。所持者が術的な攻撃を受けた時、身代わりになってくれる呪術である。
だが、逆に言えば、土御門家の当主が用意した形代が一撃で粉砕されたわけで。
MCBエージェントバッジによる術的防御や、健比古自身の術耐性がなければ、あるいは形代を貫通して肉体的ダメージを負っていたか。
Jが必死の形相で魔法銃を連射する。
「※※※※」
またも奇怪な鳴き声の如き呟きが発せられた。魔法銃から放たれた魔力衝撃波が黒ローブの男の手前で波紋を打つ。黒ローブの男は小揺るぎもせず。何か見えない壁のようなものに阻まれたらしい。
「※※※※※※※※」
「オン アビラウンケン!」
再び黒ローブの男が正体不明の衝撃波を放った。
いや、見えない拳というべきだろうか。何か巨大かつ不可視の拳に殴られたような衝撃が襲い来た。というのが分かったのは、もちろん、今度は直撃を防いだから。
大日如来の守護を嘆願する真言だ。
(っ、これでも形代にダメージが入るのか!)
歯噛みする健比古。やはり、術者としての力量に明確な差がある!
「チッ、実弾を使うぞ!」
Jが声を張り上げ懐から愛用のオートマチックを取り出した。魔法銃と実弾銃の二丁拳銃スタイルだ。
黒ローブの男の側面に回り込みながら魔力衝撃波と実弾の連射を浴びせていく。
「あんたりをん そくめつそく びらりやびらり」
意識を奪う神道の術が健比古から放たれ、Jとの挟撃となる。
即席チームとは思えない連携だ。
だが、その素晴らしい連携も黒ローブの男には通じなかった。
まるで軽業師だ。信じ難いことに実弾の雨を踊るようにして躱す躱す。ローブの裾をひるがえしながら回転、壁も使って三角飛び。連続バク転からの側宙、かと思えば脱力して倒れ込み、ブレイクダンスの如きアクロバティックな動きをしながら、
「なっ、術者じゃないのか!?」
反撃の銃撃。いつの間にか手に握られていた、やはり古めかしい装飾がなされたリボルバーが激発する。
咄嗟に横っ飛びで回避するJと健比古。〝鳥形の式〟を放ち攻撃に転じるが、これまた見事な射撃の腕前で一瞬のうちに撃墜されてしまう。
「それでもリロードの時間はな――おいおいおいっ!?」
コロコロと転がってきた丸い金属球に頬が引き攣る。どう見ても手榴弾だった。
視界の端にエージェントJが金属製大型ゴミ箱に飛び込んでいく姿が見える。
「塗壁招来 不動不変 急々如律令!!」
〝式神:塗壁〟。人の道を塞ぐ有名な不可視の壁の妖怪だ。通さないという意味では攻撃も同じ。Jは大丈夫と踏んで己の前に召喚する。
刹那、意外と軽い爆発音が響くと同時に〝塗壁〟に細かな金属片が幾つも直撃した。
防御した様子も見えないのに、黒ローブは当然のように無傷。そして、身を守ることに専念してしまった健比古とJに、リボルバーを捨てながら次の手を放った。
短剣で己の手を斬り裂いたのだ。滴る血を握り込むようにして少し溜めた後、大きく薙ぎ払う。四散した血飛沫が床に転がっていた肉塊や骨に降り注いだ。
途端に肉塊が蠢き、骨からはゴボッと音を立てて血肉が湧き上がる。瞬く間に出来上がったのは皮を剥いだドーベルマンのような獣と、同じく血肉が滴る大量のネズミ。
冒涜的な光景を前に背筋が泡立つ中、健比古は、それを振り払うように叫んだ。
「させんっ」
即座に呪符を一気に二十枚も抜き〝式:狗神〟〝式:子蜘蛛〟の群れの召喚を以て対抗する。
「※※」
短い何事か。黒ローブの袖から黒い鞭が飛び出した。ゴミ箱から飛び出し銃を構えた瞬間に振るわれたそれを、素晴らしい反射神経で回避するJ。
「鞭? いや、しょ、触手かっ!?」
空中でピタリッと止まり、鋭利な先端が槍の如くJへ突き込まれる。
鞭ではあり得ない動きに意表を突かれるも、スーツを斬り裂かれるだけでギリギリ回避するJ。
しかし、即座に跳ねた触手の殴打を受けて壁際まで吹き飛ばされる。
追撃させぬよう即座に神道による気絶の遠当法を放つ健比古。だが、やはり効かない。黒いローブにより弾かれる!
「※※※※※※」
Jが激突した壁、そして健比古の足下から炎が噴き出した。壁や床に刻まれた魔法陣を媒介にした灼熱が二人を包み込む。
「うぉおおっ!?」
「ッッ――オン マユラキ ランデイソワカ!!」
形代が焼死を防いでくれている間に、孔雀明王へ雨を請い願う真言により生み出された水気が炎を鎮める。
火だるま状態だったというのに、Jは動揺こそすれどパニックにはならず。
それどころか誘爆を懸念して拳銃を捨てつつ、肉体的ダメージはないと分かるや否や魔法銃の方で反撃まで。
触手が跳ねて壁際にあった古めかしいラウンドシールドを引き寄せる。物理的な衝撃はないというのに、魔力衝撃波で僅かに亀裂を生じさせる盾。これもまた神器の類いらしい。
そう何発も撃たせないと言わんばかりに、黒ローブの男が袖口に手を入れる。
「チッ。生きて帰れたら魔神殿にはもっと威力のある銃を頼むッ。宇宙船も落とせるデカいやつを!! 絶対にだ!」
腰からスタンバトンを引き抜き、エージェントJは黒ローブの男のもとへ一気に肉薄した。中距離戦は健比古に任せて、少しでも隙を生むために格闘戦を仕掛けることにしたのだ。
「ナウマク サンマンダ バザラ ダン カン!!」
健比古がお返しとばかりに不動明王の炎を放つ。
Jのスタンバトンと魔法銃による近接戦闘を片手の短剣と触手で操る盾で捌きながら、もう片方の手で何かを取り出す黒ローブの男。
一見すると鍵束、あるいは幾つものキーホルダーを取り付けた金属の円環。ただし、キーホルダーは可愛らしいマスコットではなく、金属で象った様々な種類の魔法陣だった。
その内の一つを見もせず指先だけで選び出し、鳥肌が立つような呟きを漏らす。
不可視の障壁が炎を完璧にせき止めた。更に、別の鍵束型の魔法陣の一つを指に挟んで呪文を響かせれば、
「※※※※※」
「がぁああああっ!?」
全身が焼けた。と錯覚するような苦痛が健比古を襲った。
「タケヒコ!」
あまりにも酷い苦悶の声に、Jの意識が僅かに逸れる。黒ローブの男を前に、それは致命的だった。
膝に強烈なローキックを受けてくずおれるJ。咄嗟に魔法銃の引き金を引くが、黒ローブの男は盾を粉砕されながらも払い除け、そのまま踏み込んだ。
振るわれる短剣をスタンバトンで弾く。だが、黒ローブの男は止まらず、魔法陣の束を持ったままの手を、掌底を放つような構えにして突き出してくる。
Jの目に見えたのは、袖口からカシュンッと飛び出してくるナイフの切っ先。某アサシンの如き仕込みナイフだ。
防ぐ手立てはない。回避も仕切れない……
切っ先が喉を貫く――寸前。
「J!!」
黒ローブの男は側転した。いや、させられたのだ。真横からの魔力衝撃波によって。
「K!! 来たか!」
そう、間一髪のところで助けに入ったのは、記憶処理を受けて辞めたはずのエージェントKだった。出入り口のところで魔法銃を構えている。
「くっ、他の援軍は!?」
焼け付く痛みを与える呪いを解呪した健比古が、次の術を練り上げながら声を張り上げる。
「建物からグールが多数出現! 更に黒いローブ姿の者達も数人! 加えて、操られていると見られる一般人も! 部隊とキヨタケが対応しています!!」
つまり、手一杯。
なぜ、MCBの部隊が既に包囲展開しているのか。辞めたはずのKや、ヴァンウィッチで調査しているはずの清武がここにいるのか。
黒ローブの男も考え事くらいはするらしい。少しの間、動きを止める。
だが、話をする気は毛頭ないようだ。取り敢えず、全員殺してから考えると言わんばかりに戦闘再開。
神経を逆撫でするような呟きが漏れる。不可視の圧力がJ達を襲う。
健比古が解呪し、Jが近接戦を、その援護をKが担う。
何度聞いても何語か分からない言葉が響く。唐突に魂も凍り付くような恐怖に襲われる。
健比古が解呪し、更に呪詛をお返し。だが、鍵束型の魔法陣の一つが輝いたかと思えば、一瞬で祓われてしまい。
Jのスタンバトンが突き出される。それを蹴り上げて逸らし、身を捻って空中回し蹴り。
吹っ飛ぶJの代わりにKが近接戦闘を仕掛ける。連続して振るわれるスタンバトン、そして合間に挟まれる至近距離での銃撃。
その全てを短剣で受け止め、体の回転運動で回避し、ついでとばかりに後頭部へ肘打ちもお見舞い。
Kが前に倒れ込むと同時にJが復帰――する前に触手による足払いを受けてひっくり返される。
そんな攻防の間にも、
「※※※※※」
「オン シャレイシュレイ ジュンテイソワカ!!」
不可視の拳と不可視の斬撃がぶつかり合い、
「※※※――※※※」
「ナウマク サンマンダボダナン アビラウンケン!!
部屋全体に降りかけた暗闇のベールを太陽の如き光が払い、
「オン ソンバ ニソンバウン バザラウンハッタッ」
「***※※」
健比古が真上からの圧力を放てば、やはり不可視の盾がそれを防ぎ。
真言による攻撃と同時に放たれていた呪符も、掌の切り口から飛ばした血液が撃墜し……
「このっ、いい加減に!!」
Jの捨て身の攻撃。短剣に肩を貫かれながらもタックルするが、組み付いた瞬間、強烈な肘打ちで一瞬意識を飛ばされる。
だが、その組み付いた瞬間にJの足を抉りながら飛来した実弾が黒ローブの足を穿った。
KがJごと撃ったのだ。言葉もなく、しかして迷いなく、Jの意図を読み取って。
ようやく一撃。だが値千金の一撃……と思われたそれは、しかし、やはり鍵束の魔法陣により覆される。鼓膜を引っ掻くような言葉が響くと同時に瞬く間に傷が癒えてしまった。
その足でJの肋骨を砕く膝蹴りを放ち、堪らず離れたJを触手で掴んで投げ飛ばす。標的はK。見るからに危険な勢いで激突した二人は、揃って床をバウンドしていく。
その僅かな隙に、健比古は戦いが始まって以来、術合戦をしている間もずっと練り上げていた氣力を解放した。
「――土御門健比古の名と血を以て命ずる」
片手で刀印を結び、もう片方の手で呪符を三枚、地に放つ。そこに書かれた文字が示すところは、すなわち切り札たる〝式神:土蜘蛛〟の名。
〝龍の事件〟の時とは違う。準備も触媒もしっかりと用意した上で、改めて契約した妖魔だ。氣力十分なら片腕を犠牲にする必要はない。
ただし、ただの妖魔ではない。大妖怪の一角だ。大量の血を代価に捧げねばならない。
致死量ギリギリの血を捧げ、一気に貧血にも似た不調が体を襲う。が、召喚は成った。
凄まじい妖気が、床に落ちた呪符から溢れ出す。伝説の妖怪が顕現する。
だが、土蜘蛛が本領を発揮することはなかった。
健比古達を相手取りながら、黒ローブの男もまた準備していたのだ。
「※※※*※**###」
まるで血の霧だ。それが、壁際の水場――赤黒いタールが満ちた場所から噴出した。瞬く間に天井や壁を床に這うようにして広がっていく。
直後、部屋中の魔法陣がにわかに鈍い輝きを帯びた。
「「「――ッ」」」
声にならない悲鳴が健比古達から上がる。術的防御がなければ間違いなく正気を失っていたと確信する何かおぞましい術が使われたのだ。ともすれば頭を掻きむしってのたうち回りたくなる衝動を死ぬ気で抑え込む。
だが、本能的な存在である妖魔達は耐えられなかったらしい。先に召喚していた〝狗神〟や〝子蜘蛛〟も含め発狂したようにのたうち回り、己を切り刻み、あるいは互いに食らい付いて、更にはその妖気に輝く眼光を契約者である健比古にも向け――
「ぐぅっ、も、どれぇっ」
途切れそうな理性を総動員し、妖精界へ還すことに成功する。
切り札を封じられた。いや、あるいはこれを狙っていたのか。いずれにしろ、だ。
「つ、強すぎる……」
「はぁはぁ……十分に化け物じゃないですか……」
JとKが四つん這い状態で呻くように言う。
三対一。最精鋭クラスの元軍人二人に一流の術者が一人。Kの実力とて村で腰を抜かしていたとは思えないほど高く、それこそJにも負けぬ戦闘能力だった。
だというのに、最精鋭二人の格闘戦と銃撃に片手で応じながら、術合戦でも上回るとは……
悠然と佇む黒ローブが、その手にMCBバッジを二つ握っている。あれだけの戦いをしながら奪い取っていたらしい。それを赤黒い水場の中へ投げ捨てる。
それを見て、健比古は脂汗を流しながら引き攣り顔で呟いた。
「……まさか、米国にもいたとはな。こいつは……」
超一流? 違う。まだ過小評価だ。
こいつは同じだ。努力だけでは辿り着けない。不断の努力に天賦の才が加わった傑物の類い。そう、
「お姫様や朱殿と同じ位階の術者。こちら風に言うなら……〝最高位の魔術師〟と言ったところか」
匹敵する。才能も技量も。〝影法師最強〟の朱、そして〝陰陽師最強〟の陽晴と。
この黒ローブの男は、魔術師界の陽晴や朱なのだ。
いや、格闘戦さえもマスタークラスだということを考えれば、純粋な戦闘能力なら二人より上というべきか。
「※※※※※※※※※※※※※※※」
今までで一番長い呪文が響く。発狂に耐えるのに、ごっそりと気力を持っていかれている三人は直ぐに動けない。
あたかも見えない巨大な手の平に上から押さえつけられているような圧力が、物理的にも三人を拘束する。
「※※※*※**###※※※*※**###」
「「「っ!!!」」」
更に再び異常な不安感と恐怖が襲い来た。耳を塞いでも無駄。頭の中に、心の中に、ぬるりと何かおぞましいものが侵蝕してくる感覚。
(っ、形代が全て……)
身代わりの人形が、いつの間にか全て壊れていた。腐敗でもしたみたいに黒く変色してボロボロと崩れていく。
「っ、まだだ! 高天原に神留まり坐す――」
神道における祓いの祝詞〝最要祓い〟を全身全霊で唱え対抗する健比古。
「***#※※*※※※***♯****」
「祓い給い清め給うと白す事の由を――」
凄まじい量の汗が健比古の額から流れ落ちる。奇々怪々なおぞましい詠唱と清冽な風が吹いているが如き清らかな祝詞が不可視の圧力となってぶつかり合う。
だが、
(ダメだっ……抑えきれんっ)
やはり黒ローブは最高位だった。禍々しい気配が徐々に聖域を侵すように、一度は停滞していた精神侵蝕の感覚が再び始まる。
だから、健比古は叫んだ。食いしばった歯の隙間から漏れ出たような声音で。
「まだかっ、まだか――遠藤君ッッ!!」
その助けを求める声に、応えるからこそヒーローなのだろう。
「すんませんっ、ちょっと手間取りました!!」
「!!?」
黒ローブの詠唱が止まった。部屋全体に声が響いた瞬間、一歩後退るほどの明らかな動揺を見せた。
直後、その背後にヌッと現われた人影から繰り出された飛び蹴りに、黒ローブの男は反応することもできず体を逆くの字に折ってぶっ飛ばされた。
砲弾のように飛んで壁に激突。そのままズルズルと地面にくずおれる。
「健比古さん! JにKも! 無事です!?」
三人の真っ青な顔色に、浩介の方も顔色を変える。急いで〝鎮魂〟を発動して三人にかければ、流石は神代魔法。健比古達の顔色も直ぐに戻った。
「し、死ぬかと思ったぁ……」
「遅いぞ、ミスター・エンドウ。ああ、いや、すまん。まずは礼だな。ありがとう、助かった……」
「はは、情けない限りだ。完全に予想を裏切られたよ。まさか三人がかりでここまで追い詰められるとは……まだまだ精進が足りないな」
尻餅を突いて天井を仰ぐK、荒い息を吐きながらもどうにか立ち上がるJ、そして苦笑を浮べずにはいられないといった様子の健比古に、浩介はホッと胸を撫で下ろした。
「遠藤君……うん? 君、もしかして本体かい?」
「ええ、分身体一体だけじゃあ間に合わないかと思って。ラナ達も来てますよ。外の騒動も直ぐに片づきます」
「例の怪しい〝力の流れ〟とやらも?」
「大丈夫、発動前に阻止しました」
「そうか……なら、我々が粘った甲斐はあったようだな」
健比古もまた、否、エージェントJとKも揃ってホッと胸を撫で下ろす。
傍から聞けば、なんの話かさっぱりだろう。だが、そんな断片的な会話だけでも、黒ローブの男には十分だったらしい。
「……くそったれが」
微かな、くぐもった声が響いた。詠唱の時の形容し難い不快な声ではない。至って普通の男の声。
とても、聞き覚えのある声音だった。
浩介達の視線が一斉に黒ローブの男へと向く。
JとKが銃を構えて、健比古も呪符を抜き警戒の眼差しを向ける。浩介は少し驚いた様子で目を見開いた。
「背骨を折ったと思ったんだけど……治癒系の術も使えるのか」
くずおれていた黒ローブの男が、ゴキッベキッと生々しい音を立てたかと思えば、マリオネットが糸を引かれたみたいな気持ち悪い動きで立ち上がった。
黒ローブの頭部が少し傾く。浩介越しに奥の扉を見たのがなんとなく分かった。
「無駄だ。俺が来た以上、もう何もできない。させやしない。分かってるだろう?」
「……」
黒ローブの男から返答はない。何を考えているのか分からない。
だが、関係なかった。浩介達もまた分かっていたから。
「そろそろ、その鬱陶しいフードを取って顔を見せたらどうだ? 意味がないって、それも分かってるはずだ」
「……」
浩介は目を細め、どこからともなく小太刀を抜いた。その切っ先を黒ローブの男に突きつける。チェックメイトだと宣言するように。
そうして、その名を口にした。
「そうだろう? ――リチャード警部」
僅かな静寂の後、溜息が一つ。
「いつから気づいてやがった?」
黒ローブの男は、どこか疲れたような、それでいて狂気が滲む声音でそう問いながら、そっとフードを取り払った。
現れたのは確かに、見知った顔――リチャード警部その人だった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
感想・意見・誤字脱字報告もありがとうございます。
「閑話 その頃、地球では②」にて、旅行に行くのは分身体という部分を訂正しました。普通に本体のつもりで書いていたので(汗)感想欄にてご指摘くださった方、ありがとうございました!
というか、よく考えると、せっかくの旅行なのに本体がお留守番って可哀想が過ぎますよね……白米はなんてことを。
あと、時間なくて真言とか割と適当なので後で訂正するかもです。




