深淵卿の夏休み編 ヴァンウィッチの真実
「いやぁ、中々の強敵でしたね!」
快活な声が響いた。パンツだけでなく、しっかり服を着込んだ浩介だった。
満面の笑みだが……実に痛々しい。無理に笑っているのが、そして必死に〝なかったこと〟にしようとしているのが誰の目にも明らかだった。
「おいたわしや、愛しの君」
緋月が口元に袖を添えて、言葉だけは気遣わしげに声をかける。そう、言葉だけは。目がめっちゃニンマリしている。良い物を見たと言わんばかりに。だから無視する。
いつもならこういう時、一生懸命にフォローしてくれる陽晴は……
「……浩様の浩様が……あわわわっ……ぶらんっぶらんって……」
「忘れろ、藤原陽晴! あんな汚らわしいもの、お前が記憶する必要はない! なんなら忘却の術をかけてやる――なぜ印を結ぶ!? あっ、簡易結界!?」
朱さん、やっぱり陽晴のことを相当気に入っているのではないだろうか? もはや変態から妹を守らんとする姉にしか見えない。
浩介をキッと睨んでいるし。……ほんのり頬は染まっているけれど。
もちろん、身内の方々の視線は大変厳しい。
「おのれ、浩介君め……君には失望した! とまでは言わないがな? 流石に大晴叔父上には報告させてもらうぞ!」
「不可抗力な部分はあったけれどね……だがしかし、お姫様がいると分かっているのだから、もう少し配慮が欲しかったよ。あんなわざわざ見せつけるかのような……わざとじゃないだろうね?」
もちろん、わざとじゃない。が、浩介的にぐぅの音も出ない。
だって、最後に見せつけるかのようなポージングをする必要がなかったのは、まったくその通りだから。もう深淵卿のテンションそのままに深淵卿しちゃったとしか言えない。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
なので、すがるような視線を朱に向けてみる。
ねぇ、朱さん。一生のお願いがある。その忘却の術とやらしてくれない? この場の全員に! せめて陽晴ちゃんだけでも!
え? なに? 陽晴ちゃんが無効化してる? 陽晴ちゃんなんでぇ!? 君はそんな子じゃなかったはずだ! ミュウちゃんとは違う! そうだろう!?
いや、そうだ、混乱してるんだ。だから無意識に術を防いで……
情けないぞ、朱! 陽晴ちゃんのライバルのくせに、お前の実力はそんなものか!
が~んばれ! まけ~んな! ち~からの限り――陽晴ちゃんの記憶を消すんだよぉ!! 陽晴ちゃんの清楚はあんたが守るんだよ!!
血走った目で心の中の叫びを伝えてくる浩介に、朱は普通に引いた。なんかこわっと。
流石にそこまで内心なんて読み取れないから、端から見れば血走った目で凝視されているだけだし当然と言えば当然である。
「な、なんだその強烈なまでに何かを求める目は……ハッ!? ま、まさか、私に欲情を!? このド変態――いや、けだものめっ」
「ぜんっぜん伝わってなかった!! 凝視してごめんね!!」
慌てて視線を逸らす浩介。その先に、
「うぅ、酷い。私のスマホになんの恨みが……」
完全に破壊されたスマホの残骸を手に、女の子座りで悲しんでいるヴァネッサがいたが、もちろん無視でいい。
「浩介様、お疲れ様でした。その……真実さんやアジズには内緒にしておきますから、ね?」
「クレア……この場で俺の癒しはもう……クレアだけだよ……」
クラウディアが頬を染めつつも浩介を慰めるように頭をヨシヨシした。その優しさに思わず涙ぐむ浩介。
「アビスゲート化のせいで精神的に疲弊していますでしょう? で、ですから、その……ギュッ」
「おっふ」
儚い雰囲気の浩介にキュンッと来たのか、クラウディアは思わずといった様子で浩介を抱き寄せた。
大きなお胸の谷間に埋もれて、その包容力に思わず力が抜ける……
まさに聖女、否、もはや浩介を掻き抱くクラウディアの慈愛に満ちた表情からすれば聖母というべきか。
「ごほんっ。そろそろ良いだろうか?」
「あ、すんません」
気まずそうな声をかけられて跳ね起きる浩介。勢いが良すぎてお胸がぶるんっした。ついでにクラウディアからも「んんっ」と艶めかしい声が。
思わず反応しそうになるが、これ以上、陽晴ちゃんの前であられもない息子の姿は晒せないので努めて無視する。なんなら、もう既に幻滅されているのでは? と不安なくらいだし。
「まずは……その、なんだ。凄まじい戦いだった、な。ああ、凄まじい、そう、まさに超常的な戦い……だった」
エージェントJがつっかえつっかえ話す。言葉を選ぶというより、一語一語を探しているというべきたどたどしさ。
無理もない。それほどに、目の前で起きた戦いは常識から逸脱していた。
その衝撃はいかほどか。
こうやって直ぐに話しかけられているエージェントJは、やはり特務機関のエージェントに選ばれるだけの優秀な男なのだろう。
その証拠に、エージェントではあるが未だ若いKはへたり込んだまま呆然自失といった様子だし、リチャード警部も尻餅をついたまま「あり得ない……あり得ない……」とひたすらリピートしている。
「あれは……まさかと思うが……ブラックホールのような……いや、そんなはずは……そうだ。あの獣はどうなって……どこへ?」
必死に現実を受け入れ呑み込もうとしているエージェントJに、浩介は安心させるようにゆっくりと言葉を返す。
「まぁ、似たようなものと思っていただければ。呑み込まれると最後、一緒に消滅する魔法です。もちろん、内部に鋭角は存在しない。だから、あの獣も脱出はできない。滅んだはずです」
「……そうか。ひとまず、脅威は去ったということだけ理解しておこう」
そんな馬鹿なと言いたいのだろう。エージェントJは何度も深呼吸している。
大規模な設備もなく個人でブラックホールを生成する……理解できないし、理解したくもない。獣の怪物より、目の前の真っ裸でそれを成した青年にこそ恐怖を覚える。
(しかも、これで〝右腕〟だと? ははっ、強硬派連中こそ見るべきだ。彼等を! その力を! どうにかできるなんて馬鹿な考えだ! こんなもの、もはや戦略級兵器と変わらんだろうが! いや、即応性という点では比較にすら……)
「あ~、エージェントJ?」
「! す、すまない。少し考えごとをな」
「いえ、まぁ、俺が言うのもなんですが心中お察しします」
苦笑する浩介。エージェントJの内心が手に取るように分かるから。逃げ出したりパニックになったりせず相対しているだけ、むしろ感心しているくらいである。
エージェントJも見抜かれたことに気が付いたようだ。むしろ、それで少し心が落ち着いたのか、誤魔化すように咳払いを一つ。
「ごほんっ。結局、あの獣はなんだったのだろう……」
幾分か落ち着いた声音で疑問を口にしながら、今は更地となった教会跡地を見やる。浩介は首を振った。
「分かりません。クレア、緋月、悪魔や妖魔にああいうのは?」
「見たことも聞いたこともないのです」
「わっちも知りんせん。あのような不愉快な存在、見かけたなら真っ先に潰していんす」
少なくとも再生魔法と空間魔法に通じる力を持っていたのは確か。悪魔や妖魔の中でも強力な存在は神代魔法と同種同位の力を、あるいはその一端を行使できる者もいるので、もしやと思ったが空振りらしい。
「陽晴ちゃんはどう思う?」
「……」
常識外れの直感力を持つ陽晴だ。おそらくこの場の誰よりも、あの存在に忌避感や違和感を抱いたことだろう。その所感を改めて知りたくて尋ねてみるが……
おや……? 返事がない。
朱は既に目も耳も塞いでいないのだが、何やらぼへぇ~っとしている。
「陽晴ちゃん?」
「! は、はひぃっ、な、なんでしょうか、こ、こここ、浩様……うぅ」
顔を真っ赤にして後退ってしまう陽晴ちゃん。さもありなん。まだ心のダメージ(?)から回復していなかったらしい。
距離を取られたことで、浩介の心にも甚大なダメージが入った。「うぅ」と胸元を押さえて思わず片膝をついてしまう。
「なんかいろいろごめんね。それで、申し訳ないんだけど、あれのことどう思ったか聞かせてほし――」
「あ、あれのこと!? そんな……わたくし、答えられませんっ」
「一回、そこから離れようか! お願いだから!!」
頼むから清楚力を取り戻して! いや、清楚だからこそここまで動揺しちゃってるのか? いずれにしろ忘れてくださいお願いしますっ。と心から願う浩介氏。
「十歳の少女が全裸を見せつけられたんだ。動揺するのは当たり前だろ。わ、私だって……恥を知れ! 恥を!」
「ほんとごめんね!!」
朱も思い出してしまったのか。顔を真っ赤にしながら糾弾する。
「まぁ、客観的に見ると普通に事案だしな。おひぃ様が落ち着くまでは、甘んじて受け入れることだ、浩介君」
「ごもっとも。反論の余地もないっす」
「とはいえ、お姫様も、いや、陽晴もそろそろ落ち着きなさい。藤原家の淑女たる者~と千景さんなら注意するかもしれないよ?」
「あぅ……そうですね、叔父様。浩様も、その、失礼しました」
叔父の顔になって諫める健比古に、陽晴もようやく意識をリアルに戻せたらしい。のぼせていたような雰囲気も少しずつ落ち着いてゆく。
「ええっと、そう、あの怪物のことでしたね」
「うん。陽晴ちゃんはどう感じた?」
深呼吸を数回。頬はまだ少し赤いが、陰陽師の顔付きになって虚空に視線を彷徨わせる陽晴。しかし、それも直ぐに困り顔に変わった。緩やかに首を振る。
「申し訳ございません、浩様。どう、と問われましても、やはり咄嗟に叫んだ以上の所感は……」
「そっか……」
「はい。ただ、本当に強烈な違和感がございました。妖魔や悪魔に感じる人外の気配とも違う、何かがずれているような……在るべき場所にいない……何かを間違えているような……許されない……存在……?」
途中からまた虚空に視線を彷徨わせ、陽晴は半ば独り言のように話す。必死に適切な表現を手繰り寄せようとするが、深い霧の中に埋もれて見つけられない……そんな印象だ。
「……うん、そうだな。俺もそんな感覚だった……かも?」
「あとは、見た目に反して美食家でありんしたな?」
緋月がクククッと笑いながら補足する。え? と浩介以外の全員が目を点にして緋月へ視線を向けた。
「最初に狙ったのは健比古。そして、次は愛しの君。共通点は、集団の中で一番〝良質な力〟あるいは〝大きな力〟を持っていたから……だと、わっちは推測しんす」
飢餓感に突き動かされた思考しない獣。なるほど、ならば最も美味そうな獲物に執着するのは当然だ。
最初の襲撃では、土御門家の当主たる健比古が集団の中で一番強く、洗練された氣力を持っていただろう。浩介については言わずもがな。
「あるいは……〝力〟というより〝魂〟に反応していたのかもしれませんね」
クラウディアも考え込むように推測を口にする。強力な悪魔は魂を見る。良質な魂ほど狙われやすい。あの獣もその類いでは? と。
そう考えた理由はシンプルだ。
「ああ、だから分身体には目もくれなかったわけだ」
「はいなのです、浩介様。わざわざ食い千切った分身体の腕を吐き出したのも、だからなのでは? あの獣にとって、魔力で編まれた腕は食べ物になり得なかったのです」
分身体は魔力で作られた魔力体だ。単純にエネルギーを得たいだけなら、同質で大きなエネルギーを保有する分身体をあそこまで無視するのは少し不自然だ。
だが、本体を看破していたのも、分身体の腕を吐き出したのも、浩介の魂を狙っていたからと推測すれば、確かに辻褄が合う。
いつの間にかスマホ破壊のショックから何事もなかったように立ち直っていたヴァネッサが、眉間にシワを寄せた。
「そうしますと……あの獣、コウスケさん達が行使する神代魔法のうち三つも干渉できるということに? 本当に、いったい何者なんでしょうね……」
神代魔法そのものではなかった。見せた力はその一端に過ぎない。
だが、それでもだ。思考せず、意志もない、ただただ飢餓感に突き動かされる獣に、そんな力があるのは……あまりにも危険だ。
「逃がさず討伐できたのは良かったけど……唯一個体だと願いたいな」
浩介は思わず溜息を吐いた。わざと泳がせて素性を探るという方法を取らなかったことは果たして正解だったのか……
「まぁ、なぜかは知らないけど、あの教会モドキの敷地内でしか実体化できないみたいだったから、後を追うのも難しかっただろうけど」
結果論ではあるが、正解だったと思いたい。そう言って肩を竦める浩介。クラウディア達も揃って苦笑を浮かべる。
「あんなのが何体もいるとは思いたくないな……」
エージェントJも深く溜息を吐きながら独り言ちた。上への報告を思うと、今から胃がシクシクしてくる。彼もそのうち立派な胃薬愛好家になりそうだ。服部さんと胃薬トークで盛り上がりそうである。
一方、エージェントKは未だにへたり込んだまま。忙しなく周囲に視線を向けている。銀色の魔法銃を握る手は小刻みに震えていた。
その姿にも溜息を一つ。いつまで腰を抜かしていると叱責して引っ張り上げつつ、視線は別の方向へ。
「警部……大丈夫か?」
浩介達が考察している間もずっと魂が抜けたように俯いて無言だったリチャード警部へ、エージェントJは気遣う声音で声をかけた。
それで、浩介達も一旦考察を止めて警部に視線を向ける。
「……」
ぴくりっと反応する警部。だが、未だに呆然自失といった有様だ。その茫洋とした目が何もなくなった教会跡地を見やる。
(これ〝鎮魂〟かけた方がいいかな?)
(いえ、浩様。しばらく様子をみましょう)
(ですね。今、コウスケさんに魔法をかけられたら、それこそパニックにもなりそうですし)
こっそり念話で話しているうちに、警部の視線が仮称グールの穴へ、そして浩介へと順に流れてきた。ぼうっとしていた視線が一気に変化する。キッと、まるで犯罪者を睨み付けるかのように。
「お前が――」
「はい?」
「……いや、お前は……お前達は……いったいなんなんだ?」
立ち上がったリチャード警部の目は、もう刑事の目だった。
その目には、絶対的な力を見せつけた浩介への警戒はあっても怯えは見えない。それどころか、またも腰のホルスターに手を伸ばしかけ、舌打ちする余裕も取り戻していた。
優秀な数ある候補者の中から、更に超常現象に対する精神的耐性があると判断されて選抜されたはずのエージェントKが未だに震えて、落ち着きなく周囲へ視線を彷徨わせていることを考えれば大した精神力と言えるだろう。
「なんなんだ、と言われましても……う~ん」
「警部。教会のエクソシストなんかは耳慣れているだろう? 世界の裏には、そういった常識では図れない力が実在するんだ。さっき説明したようにな。ミスター・エンドウも、そのうちの一人で――」
「馬鹿野郎。そういうことを聞いてんじゃねぇ」
エージェントJの執り成しを、しかし、リチャード警部は吐き捨てるように遮った。
「超常の存在、力……ああ、認めてやる。確かに実在するんだろうよ。だがよ、そいつはなんだ? あの力は? 超常現象で片付けていいレベルじゃねぇだろうが! とんでも兵器を搭載したターミ○ーターだって言われた方がよっぽど納得できるぜ!」
「「「「「確かに」」」」」
健比古と清武、それにクラウディアとヴァネッサ、それに朱から同意の呟きが。陽晴は苦笑しているが否定できない……と思っていそうな雰囲気だ。緋月だけ首を傾げている。
エージェントJも内心では同意だったのだろう。ちょっと目を逸らしてしまった。
「俺、なんですぐ人外と思われてしまうん?」
浩介氏は訝しんだ……いや、普通に悲しんだ。
「と、とにかくだ! 警部! 彼の身元はこちらが把握している。悪いが、貴方には彼を取り調べる権利はないし、それを認めることもできない。これは国家の判断だと思ってくれていい」
それはそうだ。あんな力を持った存在への詮索を、国が一警官ごときに許すはずがない。
それはリチャード警部にも分かるのだろう。
「……チッ」
しばらくエージェントJと睨み合っていたが、舌打ちで不満を表明しつつも引き下がった。服の埃を払い除け、乱暴にタバコを取り出して火を付ける。もう、陽晴に気を遣う気はなくなったらしい。
「で、スーパーマンと愉快な仲間共を引き連れて、あんたらはこれからどうすんだ」
「もちろん調査する。消えた村人達とエージェントH&Mの手がかりを得るために来たのだからな」
そう言って、その視線を教会跡地へ向けるエージェントJ。
シリアスな雰囲気に反し、浩介達は思った。なんかファッションブランド名みたいなコンビ名だな、と。
加えて、あれ? そう言えばMIBの最新作のコンビも同じコードネーム……まさか南雲の奴……やったか? とも。
(いえ、コウスケさん。流石に細かな人事まで口を出したりはしないのでは?)
(それもそうか。でも、JとKに、MとHだぞ?)
(答えは一つです。MCBの局長も案外ノリノリ)
(なんか嫌だなぁ)
(絶対にZと名乗っているとみました!)
(なんか嫌だなぁ!)
なんてやり取りをヴァネッサと小声でしていると、エージェントJが教会から視線を戻し溜息を零した。
「とはいえ……」
必要だったのだろうと理解はするが、あれほどの怪物が、まるで守護獣の如く存在した教会モドキは村で一番怪しい。その手がかりが丸ごと消えてしまって、さてどうしよう……みたいな、なんとも言えない表情だ。
もちろん、再生のアーティファクトを使えば教会モドキは復元できる。
だが、おそらく必要ないだろうと浩介は思った。
「あ~、エージェントJ。取り敢えず、ちょっと調べても?」
「? ああ、もちろん構わないが……」
更地の何を調べるんだ? と小首を傾げるエージェントJを置いて、浩介はさっさと歩き出した。
他の者達もぞろぞろと後に続く。
「あ~、やっぱり」
調べる必要もなかった。〝黒天窮〟により石畳を剥がされ、全てが剥き出しになっている地面だ。教会の一番奥、祭壇があった場所に地下扉が見えた。金属製の重厚な扉だ。古めかしく大きい、そして頑丈そうな南京錠が扉の取っ手部分にかけられている。
おそらくマンホールのように持ち上げられるようにした石畳の下に隠してあったのだろう。
「地下への隠し扉か!」
エージェントJが目を見開いて声を張り上げた。
「あの獣の怪物が一瞬、こっちを見たんですよ。撤退を決めた時にね」
本能的に選んだのだろう。実体化できなくなる数歩先の外か、実体化は維持できるが距離のある地下、どちらの生存率が高いか。
「しかし……そうなると〝出向員〟はこれを見逃したのか?」
「まぁ……何かと〝楽しみ〟を優先する連中ですし……」
中身が悪魔の出向員が、一度、この村の調査に来ている。彼等が気が付かないものだろうか? 当然の疑問だ。
「浩介様、見てください。扉には何か紋様が彫り込まれているのです。これは……エクソシズムで言うところの魔除けのそれに似ているのです」
「微弱だが……錠にも何か感じるものがあるな。微細な装飾だが、これも何か術的な意味合いがあるんじゃないか? なんとなく触れ難い気持ちにさせられるぞ」
クラウディアと朱が専門家としての意見を口にする。なるほど、悪魔だからこそ意識を逸らされたということなのかもしれない。
仮に捜査官が見つけていても鍵がないと言われれば、貴重そうなものだから下手に触れないでおこうと引き下がったかもしれない。
「古い村だ。信心深い奴もいるだろうよ。まじないの類いなんて珍しくもねぇ」
リチャード警部がエージェントJや近くにいた健比古を押しのけるようにして前に出てくる。そして、南京錠を蹴り飛ばし、またも舌打ちを一つ。
「頑丈だな。鍵がいるぞ」
「いやまぁ、そこはね」
どこからともなく小太刀を取り出し、赤熱化させる浩介。もちろん、ヴォンッと心をくすぐる音が鳴る。ちょっとドヤ顔。
「ラ、ライトセ○バーだと!?」
エージェントJの目が輝いた。いちいちなんて良いリアクションをしてくれるのだろうか。彼は浩介の期待を裏切らない! リチャード警部はもう皮肉を言うのも疲れたのか目を眇めただけだったが。
ちょっと得意げにヴォンッと一振りしつつ、暗黒ならぬ深淵の卿に相応しい赤く光る小太刀を南京錠に突き込む――寸前で、
「何をしとるんね」
バキャッとな。緋月さんが普通に南京錠を引き千切った。まるで粘土細工の取っ手を毟り取るような容易さだ。
きっと何百年とこの地下を守ってきたであろう大きく頑丈な錠が一瞬でゴミクズに成り果て、その辺にペイッと投げ捨てられる。
浩介達は自然と地面を転がる錠だったものを目で追った。
「俺の相棒みたいだな」
リチャード警部が少し口元を引き攣らせながら言う。まだ根に持っているらしい。
「緋月、先程も言いましたが――」
バギャッとな。今度はあれだ。金属製の扉を開いた勢いそのままに、蝶番を粉砕した音だ。〝扉〟が〝蓋〟になった。それもまた邪魔だと言わんばかりに放り投げられる。
「ん? 陽晴、何か言いんしたか?」
陽晴はもはや何も言うまいと頭を振った。それどころではなかったからというのもあるが。
「……」
「ひっ」
沈黙は浩介。否、他の者達も。小さな悲鳴はエージェントKだ。
見えたのは急勾配な石造りの階段。
一見特に変わった様子はない。が、誰もが感じていた。何か得体の知れない不気味さを。背筋を虫が這っているような怖気を。陰気で、どこかねっとりとした澱んだ空気感を。
「まるで地獄へ続く階段のようなのです……」
クラウディアの表現は言い得て妙だった。まさに、そんな感覚を誰もが覚えていた。
「エージェントK、君はここに残れ」
「え?」
「念のためだ。ミスター・エンドウ達がいる限り万に一つも起こらないとは思うが、一時間以内に私が戻らなければ本部へ戻れ」
「し、しかし……」
「これは命令だ」
きっぱりと告げられ、エージェントKは「……はい」と小さな声音で返事をした。怯えて挙動不審だった表情に少し悔しさが宿る。
Jの指示が、半分はKの精神状態を考えてのことと察したからに違いない。気遣いと言えば聞こえはいいが、エージェントとして見れば不甲斐ないことこの上ない。と思ったのだろう。
「退路の確保は重要ですよ。グールのこともありますし。俺も分身体を残していくつもりだったので」
「なら俺も念のために残ろう。分身体が維持できない状況も想定しておいた方がいいだろう?」
清武の方は実に的確な判断から居残り組を申し出てくれた。確かにその通りなので異論なく頷く浩介。
「先頭は俺が行くよ。緋月、後ろを頼めるか?」
「ふふ、愛しの君の頼みとあれば喜んで♪」
エージェントJとリチャード警部を真ん中にする形で隊列を組み、浩介達は足を踏み入れた。不気味な気配が漂う謎多き村の隠れされた地下へと。
コツコツと石畳を踏み締める足音が木霊する。
狭い階段だった。人一人が通れる程度の広さしかない。おまけに随分と深かった。
圧迫感が強く、急勾配なのもあって深い闇の中へ落ちていくような感覚に囚われる。湿度が急に高くなっているのか。肌にへばりつくような空気が不快極まりなかった。
浩介が魔法で明かりを灯す。光球が少し前に浮遊する。真ん中辺りにいるクラウディアも首から提げた十字架に何事か唱え輝きを点らせた。
エージェントJは流石に準備が良く小型のライトを取り出し、ヴァネッサと健比古、それにリチャード警部もスマホのライトを点灯する。
「それにしても酷い匂いだな……おい、藤原陽晴、気を付けろ」
「あら、気遣ってくれるのですか、シウさん。まったく問題ありませんが、一応、お礼を申し上げます」
「気遣ってなどいない! 倒れられたら面倒だから言っただけだ!」
鼻を突く表現し難い悪臭。澱んだ空気は低い位置に溜まりやすい。一番身長の低い陽晴を案じて――ではなく、本人曰く迷惑だからと朱が声をかける。
それに対して、他の者には滅多に見せない態度で応じる陽晴。友人に軽口を叩く感じというか、幼稚な対抗心が滲んでいるというか……
優秀すぎて腹立たしいのだけどなんだかんだ妹を気に掛けてしまう姉と、なんだかんだ優秀な姉に負けじと張り合う生意気な妹……やはり、そんな感じだ。
この半年と少しの間に、随分と仲良くなったものである。本人達は否定するだろうが。
「お姫様。僭越ながら私がお運びしましょうか?」
「……叔父様。ご厚意には感謝しますが結構ですっ」
抱っこしましょうか? という提案に一瞬浩介を見て恥ずかしそうに首を振る陽晴。それに健比古は微笑ましそうに相好を崩す。
そんな姉分と妹分、そして叔父と姪のやり取りが、少しばかり陰鬱とした雰囲気を払ってくれたようだった。緊張に顔を強張らせていたエージェントJの表情が綻び、リチャード警部さえも目元を緩めている。
「でも朱さんの懸念はもっともだな。ナイス! というわけで陽晴ちゃん、念のため、これを持っておいて」
「ネックレス、ですか?」
「うん。空気清浄機、みたいなもんかな」
地獄へ行く必要が出た場合に備えてハジメが関係者に支給したアーティファクトだ。地獄の住人以外の命ある全てを蝕む〝地獄の血風〟を無効化する結界である。
振り返り様に差し出されネックレスに、陽晴は「なるほど」と頷き受け取ろうとして……ふと気が付く。
ここは急勾配の階段。先頭を行く浩介の後ろ、二段ほど高い位置に陽晴はいる。つまり、顔の高さが同じだった。大変珍しいことに。
視線が浩介の瞳とネックレスを高速で行き交った。
そして、ポッと頬を染めて「……お願いいたします」と、まるでカーテシーでもするみたいに少し膝を曲げて、そっと目を閉じた。
もちろん、付けてくださいという意味だろう。発動には浩介の魔力が必要だろうし。
けれど、端から見ると完全にキス待ち顔で……
「……違います。誤解しないでくださいよ」
エージェントJと警部の目が大変厳しい。少女の前で全裸になった男だ。前科がある。もし不埒な真似をしようものなら……と冷たい目をしている。
あれだけの力を見せた浩介を前に、少女を守るためなら捜査官の顔になれる二人は実に大したものである。
あと、健比古おじさん、流石に泣きますよ。その指の間に挟んだ呪符で何をするつもり? ニコニコ顔なのに目の奥に凍えるような殺気が宿ってますよ?
信用のなさに、浩介は心の中で泣いた。全裸の代償は想像以上に大きかった……
さっさとネックレスをかけてあげて、急いで更に二段ほど降りる。
「……まぁ! 悪臭が消えました! 清浄な空気です……浩様、ありがとうございます」
悪臭から解放されたこと以上に、浩介が手ずからネックレスをかけてくれたことが嬉しいのだろう。頬を染めてはにかむ陽晴は大変可愛らしかった。
「俺等にはねぇのかよ?」
警部が鼻をヒクヒクさせ、顔をしかめながら言う。
「あるっちゃありますけど、臭いも情報ですからね。有害物質でもない限り、大人組は我慢で」
「ふんっ」
鼻を鳴らしつつも言い分には納得なのだろう。リチャード警部も食い下がりはしなかった。
そうして特に何事もなく階段を下りきる浩介達。
「五メートルはあったかな?」
「深いな……ますます怪しい」
エージェントJが周囲を見回す。階段は狭かったが、降りた先にあった奥へと続く通路はそれなりに広かった。
歴史を感じさせるが、朽ちた様子はなくしっかりした作りだ。壁、床にも綺麗に切り出された石のブロックが敷き詰められている。天井はアーチ状で、やはり石造りだ。
横幅は大人が三人並んでも少し余裕があるくらい。高さはアーチの頂点で二メートルほど。壁際には金属製のランプが壁に打ち付けられている。
エージェントJが奥にライトを向けると、五十メートルほど先に金属製の扉が見えた。
警戒しつつ先へと進み、扉の前へやってくる。
「これまた嫌に頑丈な扉だな……」
太い金属製の閂があり、そこにも当然のように南京錠がかかっていた。やはりアンティーク調の大きく頑丈そうな錠だ。
出番とばかりに緋月が踏み出しかけたので、慌てて小太刀を抜く浩介。
頑丈そうな地下道だが古いのだ。緋月の膂力で鋼鉄の扉を丸ごと外されたら、その衝撃でどうなるか分からない。
今度は赤熱化させてライトセ○バーモードを見せびらかすようなこともせず、普通に空間切断機能を発動して手早く南京錠と閂を一緒くたに斬り裂く。
「おい、お前。今のは……いや、なんでもねぇ」
金属が紙でも切るみたいに切断されたことにリチャード警部が思わず声を荒げるが、直ぐに頭を振った。どこか疲れた様子だ。
それに苦笑しつつ、金属扉を開ける。ギィッと微かな音が響いた。
直後、
「「「「「うっ」」」」」
先程までとは比べものにならないほどの悪臭が鼻を突いた。
「なんとまぁ、久々に感じるでありんすなぁ。ここまで濃厚な――死の臭いは」
凄絶な笑みを浮かべる緋月。
その言葉で誰もが理解した。そう、この本能的な恐怖と忌避感を呼び起こす臭いは死臭だと。
それも一般的な死体の腐敗から発生する臭いという意味だけではない。
緋月の言うそれは〝死の気配〟だ。
言葉で表現するのは難しい。けれど、本能的に分かる。言うなれば、歴史に語られる合戦跡地、虐殺が行われた悲劇の現場、あるいは処刑場……
何百何千と積み重なった数多の死が作り上げる一種異様な雰囲気。
それが、ここにはあった。
エージェントJが思わず後退っている。青ざめ、小刻みに震えてしまっている。これが仕事でなければ全力で逃げ帰っていたに違いない。
「一応、何かが潜んでいる気配はないようだけど……ん?」
例の獣の怪物と同種の何かがいやしないか、少し集中して気配を探る浩介。あの怪物の神出鬼没ぶりからすれば気配を掴むのは容易ではない。というか実体化していなければ無理だろう。
だが、仮称グールを含め怪物らしい気配は掴めずとも、集中したおかげで代わりに引っかかるものがあった。
「これは……めちゃ微弱だけど……人の気配?」
「なに? この事件の黒幕か!?」
「いや、だとするとおかしいかな? 凄く弱ってる感じ……しかも、二人?」
「! まさか……」
エージェントJが目を見開く。その瞳に恐怖以外の感情が宿った。半ば諦めていたこと。それでも諦めきれなかったが故の希望の光が。
後退っていた足が力強く一歩、前に出る。
「とはいえ、あの怪物の仲間がいないとも限りません。慎重に行きましょう」
「ああ、もちろんだ」
「陽晴ちゃん、俺の手を掴んでおいて。直感力を頼りにしてる。何かあったら掴む力を強くしてくれるだけでいい。言葉より速い」
「承知しました、浩様」
警戒度を更に高め、金属扉の奥へ進む。ライトは三メートルほど先で壁を照らしており、直ぐに曲がり角があるのが分かった。
「その先は……地上だと教会の裏手を東に行った先にある墓地の下に行き着くな」
健比古が小声で報告した直後、角を曲がった先にそれは見えた。
「これは……まるでカタコンベなのです。清められているあそことは違い、ここには不浄な気配しか感じませんが」
クラウディアが剣呑に目を細めている。
そう、曲がり角の先は様相を一変させていた。地下道の四面が全て人骨に代わっていたのだ。数多の頭蓋骨が仄暗い眼窩を覗かせている。
おそらく更に拡張した石造りの壁などに骨で棚を作り、そこに敷き詰めてきたのだろう。元の通路より少し狭くなっている。
「まさに地獄への道ですね……」
「……地上にはちゃんと墓地があるんだろう? 古い村だという話だが、まさか埋葬場所に困るなんてことはないはずだ。だとすれば、この人骨は……」
これにはヴァネッサや朱の表情も歪む。
この村に行くとメモを残して行方不明になった教授やエージェント達を思えば……
古き村ヴァンウィッチの陰惨な歴史が感じられるというものだ。
浩介達は顔を見合わせた。なんとなく予感めいたものが共有されるようだった。そう、村人達の真実に関する嫌な予感が。
無言のうちに頷き合い、更に進む。だが、行き着く先は見えていた。随分と広い空間が広がっているようだ。
地面が見えず天井だけが見えていることからすれば、人骨通路の先は階段になっているのだろう。
意を決するようにして人骨の床を踏み締め進む。
それはまるで毒沼に身を浸して渡るような名状し難い気持ち悪さを進む者達に与えた。毎日この上を歩いていたなら、自分の中の大事な部分が削り落とされるような、そんな恐ろしい感覚があった。
吐き気を堪え、どうにか渡りきる。
案の定、通路の切れ目から先は更に三メートルほど下る階段になっていた。
「まじでカルトだな」
中央付近の天井に魔法の光球を先行させる。それで暗闇に包まれていた空間の全容があらわになった。
再び石造りになっていて、広さはテニスコート四面ほど。高さは五メートルくらい。何本かの石柱を支点に天井を支えている。
最奥には、元々地中に埋まっていた岩だろうか? 壁際に半分埋もれた巨大な岩を彫って作ったと思われる例の奇怪な像の巨大版があり、ロウソクが幾つも飾られた如何にも祭壇というべき場所があった。
中央の石畳だけ酷く黒ずんでいる。まるで黒いインクの入ったバケツをひっくり返したみたいに。その黒色がインクでないことはなんとなく分かった。黒ずんだ石畳には魔法陣らしきものも彫り込まれているようだ。
そんな空間の一角、壁際には鳥かごの如き形状の鉄製の檻がずらりと並んでいる。
そちらを見た瞬間エージェントJが叫んだ。
「モニカ!! ハワード!!」
思わず駆け出そうとするエージェントJを浩介が片腕を広げて制止する。
「落ち着いてください、エージェントJ。薄くだけど、何かの煙が漂ってる」
「!」
浩介の言う通りだった。暗闇を照らすのは天井の光源と各自のライトだけ。薄暗いことに変わりはなく、気が付かなかったのも無理はない。
「浩様、あの煙……何か嫌な感じがします」
陽晴の直感も囁いているのなら、制止したのはきっと正解だろう。
モニカとハワード。彼等がエージェントMとHだろう。Mの方は若い黒人の女性で、Hの方は三十代くらいの白人男性だ。
二人共、上着を着ておらず、その白いシャツは血に染まっていた。酷く痛めつけられたようだ。鳥かご型の檻の天井から伸びる鎖と手錠で拘束され、エージェントJの呼び掛けにも膝立ちの状態で項垂れたままピクリとも動かない。
「大丈夫。酷く弱ってますけど、まだ生きてます」
「っ、そうか」
「マジかよ……」
これにはリチャード警部も目を見開いていた。この怪物だらけの村で、誰が二人を捕らえたのは分からないが、まさか一週間近く生き延びていたなんて……
エージェントJには申し訳ないが、ヴァネッサ達も驚きを隠せていない。
「今、危険がないか調べます。もう少し堪えてください」
「ああ、すまない。頼むっ」
分身体を呼び出し部屋の中央まで行かせる。魔法陣にも踏み込んでみる。
(特に問題はなし、と)
獣の怪物が襲ってくることも、何かの罠が発動することもなかった。
だが、分身体からのフィードバックが酷く気持ち悪い感覚を微かに伝えてくる。まるで、肌から酷く冷たい液体が染みこんでくるような、それが体を侵蝕していくような、そんな感覚。
(空気自体も澱んでる。これだけの地下なら通気孔があるはずだけど……空気の流れがない。この煙を滞留させるために塞いでいるのか? ――っ、なんだありゃ)
通気孔を探して、ふと天井を見上げて気が付いた。
そこにはびっしりと紋様が刻まれていた。それも古今東西のあらゆる紋様を集めて書き殴ったみたいに様々な種類のものが。漢字や象形文字のようなものまである。
その中には地下扉の魔除けの紋様に似た、しかし、もっと精緻かつ複雑で巨大な紋様もあった。
まるで、世界中のありとあらゆる存在を寄せ付けないために、そういう類いの〝まじない〟を片っ端から刻み込んだ、みたいな天井だ。
(生きた人間がいるのに見逃すなんて、地下扉の魔除けだけじゃ説明がつかない。マジで悪魔共さぼったんじゃ? と思っていたけど……)
本当に悪魔の感覚を欺いたというのなら、ここは……本物だ。ただのカルト集団のアジトじゃない。本物の術者が存在した場所だ。
「っと、調査も考察も後だな」
通気孔も空気の流れも感じない以上、〝絶禍〟で空気を吸い込んで浄化するのは少々危険かもしれない。そう思って例の空気清浄ネックレスを起動してみると、こちらは問題なく。
情報共有を終えて、分身体はエージェント二人のもとへ、本体は例の空気清浄ネックレスを〝宝物庫〟から取り出し全員に配った。
小走りでエージェント二人のもとへ向かう浩介達。
到着と同時に分身体が消える。エージェント二人は、既に斬り裂かれた鉄格子の奥から外に出され寝かされていた。
近くで見れば、その重傷具合がよく分かる。グールや獣に襲われたような傷ではない。殴打の痕はもちろん、細かな傷が無数にある。爪も剥がされている。
「拷問か……」
エージェントJが歯噛みしている。陽晴やクラウディアも顔をしかめずにはいられなかった。
「気の毒だが……それよりも、私は彼等の肌色が気になる。ところどころ変色しているぞ。見たことがある色にな」
朱が警戒するようにエージェント達を見下ろしながら指摘する通り、胸部を中心に肌の変色が見られた。
その色は紛れもなく、
「グールの色……ですね」
ヴァネッサが抑揚のない声音で言う。反論はなかった。先程の予感が確信へと変わっていく。
「……二人の容態は?」
「大丈夫。ギリギリ間に合いました。十分に治療可能っすよ。あれのおかげでもあるんでしょうね」
「それは……ああ、そういうことか」
この明らかに人体に有害な煙が、その変色の原因であることは明白。
正直、脱水状態も外傷も十分に不味いが、それで死ぬ前に煙の影響が出る方が遥かに早かったに違いない。
ろくなことにならなかったに違いないその影響から、二人が辛うじて逃れられていた要因は、檻の中に落ちている物――MCBのエージェントであることを示すバッジだった。
「魔法的効果から守ってくれるアーティファクト。防弾チョッキのようなものだと聞いていたが……そうか、本当に効果があったんだな」
エージェントJがボソッと呟く。安堵と感謝の混じる声音で。
その通りだった。米国のエージェントに支給されたアーティファクトは魔法銃とNRL以外にもう一つあった。
魔法的攻撃、特に呪術的な目に見えない攻撃に対し無防備なエージェント達を守る防具である。
捜査官が常に身につけていて不自然でないもの、かつ傍目には敢えて奪うほどの価値がないもの。警官バッジならぬエージェントバッジこそが、この煙の影響から二人を守っていたのだ。
空気として吸い込む以上、完全に防げていたわけではないようだが、彼等を閉じ込めた者の思惑を外すには十分だったらしい。
今は空気清浄ネックレスもかけてあげているので万全だろう。
「没収されていなかったのは不幸中の幸いだな。銃やNRLは見当たらないが……流石に奪われたか?」
「それならそれで好都合なんですけどね。どうせセーフティーでエージェント以外は使えないだろうし、南雲に頼めばらしん――ごほん。どこにあっても発見できるし。持ち去られたなら黒幕も突き止められるかも?」
取り敢えず、緊急性の高かったエージェント達の保護はできたのだ。捜査協力自体を願うにしても旅行から帰ったらでいいだろう。と思いつつ再生アーティファクトの手袋をはめて二人を癒やしにかかる浩介。
「それより、遠藤君。そのバッジが魔法的効果から二人を守っていたということは、この煙はやはり……」
「はい、健比古さん。中央の魔法陣といい、ここはただのカルトじゃなくて、覚醒者の――いや、村の古さからすれば魔術師的な血筋の隠れ里だった、のかもしれません」
「くそがっ。異常者共の村かよっ。ふざけやがって!」
リチャード警部が苛立たしげに足を踏みならした。そして、切断された鉄格子の一部である鉄棒を武器代わりに拾い上げ、祭壇の方へ歩いて行った。
エージェント達は大丈夫だと理解して、見ているだけなのも時間の無駄と勝手に捜査することにしたのだろう。
気味が悪そうにしながらも鋭い視線をキョロキョロと周囲に配っている。
浩介達は顔を見合わせ、ついで肩を竦めた。好きにさせておこうと。
それから少しして。
「……うっ……」
「モニカ! じゃなくてM!!」
もうがっつり本名言っちゃてるし良いんじゃない? と浩介達が思っている中、エージェントMが目を覚ました。直ぐにHも呻き声を上げる。
「……J?」
「ああ! 私だ! 助けに来たぞ!!」
ぼやぁっとした表情で周囲を見回し、直ぐ近くにいたエージェントJに気が付くやMの目が大きく見開かれた。
「っ、逃げて! ここは危険よ!! ああっ、あんなっ、あんなっ!! いやぁーーっ!!」
「落ち着け、M! もう安全だ! 君は助かったんだ!」
「分かってないっ。安全なんてどこにもないの!! もう終わり――」
「――〝鎮魂〟」
浩介の放つ鎮静の魔法を受けて、発狂寸前だったエージェントMがスンッとなった。同じく起き上がって、しかし、周囲の状況など目に入らぬ様子で虚空に視線を彷徨わせながら何事かを一心不乱に呟き始めたエージェントHも同じく。
「「J……?」」
「ああ、そうだ。私だ。いいか、もう一度言う。怪物の存在は理解している。有害な煙に関してもだ。だが、その全てをクリアしてここに来た」
「「……」」
「自分の体を見てみろ。傷一つないだろう? それも彼が魔法で治してくれたんだ。大丈夫、君達は――助かったんだ」
ゆっくりと、その言葉と事実が浸透していく様が見て分かった。
信じ難いものを見るように自分の両手を見やり、己の顔を撫でまわし、慌てた様子でシャツをめくる。
そして、本当に無傷と理解するや改めてJを見やり、力強い眼差しと頷きを返され、一度、ぐっと唇を真一文字に引き結んだ。溢れ出しそうになる感情を抑え込んだのだろう。
エージェントMが深い深呼吸を繰り返す。Hは片手で目元を覆って天を仰ぎ、一拍、静かな声音で問うた。
「……奴等は?」
「怪物共なら大半を無力化して捕らえてある。獣の怪物も撃退した」
「無力化!? あの化け物共を!? 本当なのか!?」
「というか……獣の怪物? J、なんなのそれは」
Hは目を見開いて驚きをあらわにし、Mは驚きつつも訝しそうにしている。記憶が飛んだのか、それとも彼等は獣の怪物を見ていないのか。
「それは後で説明する。それより……何があった?」
「「……」」
二人は顔を見合わせ、そして直ぐにしかめた。まるで悪夢を思い出したように青ざめ、震え始める。
それでも、鎮静の魔法を受けた後なら流石はMCBに選抜されただけはあるということか。浩介達に鋭い視線を巡らせた。
素性を訝しんでいるのだ。秘密組織のエージェントとして話していいものかと。
「安心しろ。彼等は予定されていた各国の協力者だ。こちらの救援要請に応え、少し早いが駆けつけてくださったんだ」
「ああ、あの……」
もう一度、顔を見合わせるHとM。そして頷き合う。Hが代表して説明してくれるようだ。ボサボサだった薄い金髪を両手で掻き上げオールバックにすると、溜息を一つ。
「簡潔に言う。あの化け物共……」
「私達は、仮称だがグールと呼んでいる」
「グール……なるほど。言い得て妙だな。そのグールだが……」
一瞬だけ言い淀み、しかし、少したれ気味の目をおぞましそうにしかめつつ、エージェントHは言った。
「ここの住人だ」
驚きは、少なかった。やはり……という思いがあった。
消えた村人、どこから来たのか全く不明の人型の怪物、外部の行方不明者に、心を病んだ地元警官、カルト的地下空間と魔法陣や魔法的効果を備えた煙、そして変色しかけていたエージェント達。
全てが、その事実を指し示していた。
「変わりゆく様を見た。あれは……あんなのは……あまりにおぞましい、冒涜的な光景だった。子供までそれが当然みたいに……」
「H……」
気丈に説明していたが、よほど酷い光景だったのだろう。口元を押させて吐き気を堪えて絶句してしまう。代わりに、Mが引き継いだ。
「連中は〝門の神〟とやらを信仰しているらしいわ」
「〝門の神〟? なんだそれは」
「分からない。ただ、ろくな神じゃないでしょうね。あれのことらしいから」
Mの視線が祭壇の奥の奇怪な石像を一瞬だけ見やる。直ぐに嫌悪に顔を歪め逸らしたが。
「終わりが近いとか、もう時間がないとか、そんな話をしていたわ。だから覚悟を決めないといけないって」
「覚悟……グールになることか?」
「……ええ。ただの人間ではダメらしいわね。来たる日に旅立つ〝門の神〟に随伴するには、人を捨てて彼の者の眷属にならなければならないって」
どうかしてるわ……と呟き己を掻き抱くM。
「この村に来て、ざっと見て回っていた時よ。墓地に踏み込んで直ぐ、地面の下から現れた数体のグールに襲われて……村の連中が悲鳴を上げて助けを求めたから……騙されたわ」
助けようとして、その村人達を背に庇った直後、後ろからやられたらしい。見たこともない怪物を前に、ある意味、初の実戦だ。流石に背後にまで注意を回せなかったのだろう。無理もない話だ。
「くそっ。あいつら、捜査機関の動向を気にして俺達を拷問したんだ」
「最初は何か得体の知れない……そう、それこそ魔法的な何かでしゃべらせようとしたみたいだけど、たぶんバッジのおかげね。私達に影響がなくて、拷問に切り替えたのよ」
「おかげで組織や仲間のことは吐かなくてすんだぜ」
酷い拷問を受けても二人は口を割らなかったらしい。
だが、だからこそ彼等は覚悟を決めたのもしれない。
国土安全保障省の職員を名乗り、拷問に耐える者達。ただ者ではない。明らかに特殊な訓練を積んだエージェントだ。
そんなエージェントが捜査に来たのなら、きっともう村の秘密は隠しきれない。二人を逃せば直ぐに連絡され、村は制圧される。だから、襲って監禁し、そして捜査機関の動向を探ろうとしたのだろう。
少しでも捜査の手が伸びる時間を稼ぎ、同時に村に残された猶予時間を知るために。
「元から近いうちにグール化するつもりだったようね。ただ自我を保てるか否かは成ってみないと分からなかったんだと思うわ。確証はないけれど、言動からすればね。選ばれた者ならば~みたいな話が聞こえたし」
「村を捨てて逃げるなんて選択肢は考えもしていなかったようだぜ? 極まってるよな……」
自我を保てない危険性を理解しながら、人を捨てる……村人達はいったい何を考えていたのか。
逃げて再起を図ることも可能だったろうに、そうしなかったのは〝時間がない〟からなのだろうが、それはいったいなんの時間なのか。
狂気と謎がぬるりっと脳を撫でるようだった。HとMの話を聞いているだけで未知の恐怖が纏わり付いてくるようで。
Mが顔を上げ、鋭い眼差しをJに向ける。
「J、黒いローブの男がいたわ」
「黒いローブの男?」
「ええ。顔は見えなかったし、声音も変声機でも使っているような奇怪な声で身元は不明よ。でも骨格からして間違いないと思う。魔法のような何かを使えたのもそいつ」
「ついでに言えば、カルト組織の教祖……だったのかもな。どいつもこいつも、黒ローブを敬っていた。グール化を扇動したのもそいつだしな」
選ばれし者は神と共に行ける。選ばれずとも大いなる神の糧になれる。それはつまり、選ばれし同胞達のためにもなる。
そんな演説が声高になされていたらしい。村人達は、それに恐怖を感じた様子もなく、むしろ熱狂していたとか。
「どうやら黒ローブの野郎は、普段は村の外で活動しているらしいな。外にも仲間がいるんじゃないか? 何やら計画がある様子だった」
「なるほど……やはり、そいつが――」
「黒幕ってわけだな?」
いつの間にか戻って来ていたらしいリチャード警部が、獲物を前にした猛獣みたいな笑みを浮かべていた。
「俺の相棒を殺したのも、そいつってわけだ? で? エージェントさんよぉ、その黒ローブはどこに行った? まさか一緒に化け物になったわけじゃねぇだろ?」
「あんたは……」
Hが訝しげにJを見やった。Jはなんとも言えない表情になりつつも頷く。
「ああ、そうだ。これ、お前等のだろう? ほらよ」
「あっ、私達の……」
警部が乱暴に投げ渡したのは、銀色の銃二丁と同じく銀色の試験管の如き筒だった。二人の装備だ。
「祭壇の横にあった。ありゃあ、銅製か? とにかく金属の箱に入れられてたぞ。他にも曰くありげな短剣とか、人の皮とか、まぁ、気味の悪いもんオンパレードだったがな」
「一応、発信器を警戒して電波が遮断できる箱に入れたんですかね? にしてはバッジはそのままとか随分とずさん……」
「ああ、いや、バッジに関しては……えっと」
「M、彼はミスター・エンドウだ」
「ありがとう、J。ミスター・エンドウ。バッジに関しては私達が懇願したのよ。どうせ死ぬならエージェントとして死にたい。バッジだけでも傍に置いてくれってね」
「へっ、我ながら中々の泣き落としだったと思うぜ?」
なぜ、黒ローブ達がエージェントHとMをさっさと殺さず、グールにしようとしたのかは不明だ。
神の眷属になるためというなら、グール化は彼等にとって神聖な行いだろう。部外者で信仰心もない者を同族にしようとするのは考え難い。
だが、檻に閉じ込めた上でグール化を良しとしたなら、そして、あたかもドッグタグの如く死後に身元が判明することも良しとしたなら……
「外部で活動している黒幕、か……エージェントJ、たぶんここは」
「ああ、放棄されたんだろう。で、来るだろう捜査機関の意識をここに釘付けにするつもりだったのかもしれない」
健比古がJの推測に同意して頷く。
「だな。もしそうなったら、グールの群れだけでも相当手を焼いたに違いない。そこに、あの獣の怪物だ。Jが独断専行に走り、結果として遠藤君が駆けつける事態にならなければ、相当期間、手をこまねいていたことだろう」
言わずもがな、その全てを突破しても、今度はグール化したエージェントを発見することになるのだ。
彼等への対処に、また時間も労力も使われたに違いない。
だが、だとすれば神を、そして黒ローブを信じていただろう村の人々は捨て駒にされたとも言えるのかもしれない。村人達がどこまで了解していたのかは分からないが。
「だとすれば、ある種の陽動ですね。別の場所で大変なことが起きそうですよ」
「あるいは、もう起きているか、だな」
ヴァネッサと朱が険しい表情になっている。本国に警告を出すべきと考えているのだろう。
「んなことよりだ! おい、てめぇら。せっかく見つけてきてやったんだ。そのおかしな魔法の道具をな。感謝を示してほしいね。質問に答えるって形でな! 言え、黒ローブはどこに行った?」
「悪いけれど知らないわ。そんなことわざわざ教えて行くわけないでしょう?」
「俺もだ。村の連中がグール化していって、俺達もそれから直ぐに気を失っちまった……」
「何か思い当たることくらいあんだろ!」
「「……」」
「チッ、エリートのくせに使えねぇな」
「警部! 流石に言葉が過ぎるぞ!」
エージェントJに鋭い眼差しを向けられ、そしてMとHが自分でも情けないと思っているのか歯がみしている様子を見て、リチャード警部はガリガリッと乱暴に頭を掻き毟った。
「……くそっ。……悪い。いろいろありすぎてよぉ、いい加減、頭がおかしくなりそうなんだ。特にあの像。見ているだけで……」
祭壇の奥の巨大な石像へ、チラッと視線を向ける警部。だが、直ぐに逸らした。
確かに、家の中の小さな彫像だけでも不可思議なほど不快感を覚えたくらいだ。遠目に異常なほど細部に拘っているのが分かる。苦悶に歪む人の顔にも見える、無数の泡立つ気泡や、ただれた皮膚のような表面、今にも動き出して襲いかかってきそうな異様な迫力……
あの石像を丹念に調べていた警部だ。その言葉も頷ける。
「ざっと調べてみたが、さっき言った箱以外特になかった。一応、石像の背後に通路は見つけたが通風口を兼ねてんだろうな。人力の大型ファンが奥に見えた。頑丈そうな扉もあったが開きっぱなしになってたぜ」
「なるほど……そうか。ここは墓地の下あたり。グール達はそこを通って墓地から地上へ出たんだな。おそらく墓の一部が別の出入り口兼通風口になっているんだろう。墓地は、それのカモフラージュでもあったんだ」
「だろうな。通路は調べる必要があるが、それ以外は特に何もなかった。だからよ、一旦外に出ねぇか? そいつらも休んだ方がいいだろう」
エージェントJが「どうする?」と浩介達に視線を巡らせる。
浩介達も顔を見合わせ、一拍。頷き合った。
「ああ、それでいいと思う。最優先目標はクリアしたんだ。ここを詳しく調べるにしても、念のため空気の浄化はしてからの方がいいだろうし。もちろん、分析用に煙の採取はしてからさ」
特に異論はなく、エージェントHとMなんかはあからさまにホッとした表情になった。
そうして、望外にもエージェント二人の保護に成功した浩介達は、恐ろしい村の秘密を手土産に、このおぞましい地下を足早に後にしたのだった。
なぜだか、目など見当たらない石像に見られているような背筋の泡立つ感覚を覚えながら。
いつもお読みいただきありがとうございます。
感想・意見・誤字脱字報告もありがとうございます。
※ネタ紹介
・おいたわしや、愛しの君
『鬼滅の刃』の縁壱さんより。
・が~んばれ! まけ~んな!
『笑う犬』の小須田部長より。「が~んばれ! まけ~んな! 力の限り生きてやれ~!」めっちゃ好きだった。最近、コント番組見てないなぁ…




