天竜界編 今、緊急で記憶見てるんですけど~マジヤバイ
「うそ、だろ……おい、マジかよ」
「あ、ありえねぇ……」
「前世でいったい、どれだけの徳を積んだっていうんだ!?」
龍太郎、淳史、そして昇の三人が激しく動揺していた。否、それは奈々達も同じだ。なんならシア達だって驚いている。
その視線の先には、地上に引き上げられ寝かされている青年がいた。
黒ずんだセミロングの金髪を後ろで短く結った髪型に、地球の神父服に似た衣装を着ている彼の名は、ヒッグス・ベントン。
そう、かつて天竜界に迷い込んだばかりのハジメとティオを襲った空戦機部隊のパイロットである。
胸元には心配そうにピーッピーッと鳴いて縋り付く赤ちゃん竜もいて、クワイベルが「心配ないよ、大丈夫。……だと思うよ」と不安しか感じない声をかけている。
無理もない。ハジメを見た途端に発狂死したのだ。いろんな意味でこぇよ。ホラーだよ……と思うのは当然だ。
しかも、一応、蘇生には成功したのに目を覚まさないし……
まるで、生存本能が「ダメだ! 奴はまだ近くにいる! 今、目を覚ますのは自殺行為だぞ!」と訴えているかのよう。なんかずっと激しくうなされてるし。
「南雲っちと敵対して生き残ったとか……これが異能生存体ってやつ?」
「異世界だけど、彼には固有魔法的なものが備わってるのかもしれないね……」
「あまいお姉さんと一緒なの!」
奈々と妙子が珍獣を見るような目を向け、ミュウが例のバスガイドさんの同類かも! と青年の頬を突く。
シアが、少しの不快さを滲ませつつも思案顔で口を開けば、
「あるいは、保安局強襲課隊長さんですかね? 特別な加護でも持っているのかもしれませんよ」
「過去映像の中の彼とは随分と変わったようですけれど……」
レミアが苦笑気味にローゼ達を見やった。
事前に彼の存在を伝えていなかったのは、魔神様から保護していたからなのかしらん? という意味を含む視線だったが、ローゼ達は気が付かない。
何やら彼女達は彼女達で、動揺激しく視線を交わし合っている。
実は、突然発狂死したヒッグス君の謎に迫るため、というかハジメが弁明のため、ヒッグスの空戦機部隊と初遭遇した時の様子を、羅針盤と空間魔法の併用で小窓ゲートを開いて過去視したのだが……
どうやら、ローゼ達からしてもヒッグスとハジメ&ティオの関係は予想外だったらしい。
「おい、どうすんだよ。やべぇだろ。ヒッグスにあんな過去があったなんてよぉ」
ハジメに対する殺意と、ティオに対する下卑た欲望。アウトオブアウトだ。
ほら、正妻様が未だに「処す? 処す?」とか呟いているし。龍神様どうにかなだめてくれてるけど……と、冷や汗を流しながらボーヴィッドがコソコソ言えば、ローゼが頭を抱えてヒソヒソと返す。
「空母艦オスティナートの生き残りとは聞いていましたが、よりにもよってハジメさん達があの場にやって来た原因だったなんて……」
「その可能性を考慮して調査しなかったのは、こちらの落ち度ですな……」
『でもさ、彼、魔神様の話が出る度に悲鳴あげて気絶するから、そもそも助祭の任命面接だって大変だったって聞いてるんだけど?』
どうやら、そういう理由でヒッグス君の詳細な過去を知らなかったらしい。人格が変わるほどのトラウマ……魔法でもない限り、確かに聞き取り調査は難しいか。
何はともあれ、だ。
「まさか、よりにもよってあの時の奴が生き残っていたとはな」
これにはハジメさんもびっくり。ハジメの呟きにローゼ達が揃ってビクッと肩を震わせ、慌てた様子で口を挟んだ。
「あの、ハジメ様! 隠していたわけではないのです! まさか、彼とそんな因縁があったとは知らず……」
「ご存じの通り、我が国では元神国の者であっても竜王国の法に従う者は受け入れていますので……」
『あ、あのね、魔神様。ヒッグス助祭は変わったんだ。竜族への贖罪を誓って、人と竜の共存の未来に少しでも役立てればって……』
だから、処刑は勘弁してあげて! みたいな視線がサバスとクワイベルからも、否、竜王国の皆さんからも。
ヒッグス助祭に縋り付いていた赤ちゃん竜が、精一杯翼を広げて立ち塞がっている。涙目で。
端から見ると、魔神を前に倒れた聖職者を守らんとする女王達と赤子、みたいな図だ。
なので、
「ククッ。さて、どうしたものかな?」
めっちゃ魔神ムーブしてみた。歯を剥くようにして笑い、目を嗜虐的に細める。すごくヴィラン顔だ。
ローゼ達&赤ちゃん竜がビックゥッと震える……いや、ローゼだけは少し頬が赤い?
「ご主人様よ、そう意地悪をするでないよ。妾は気にしておらんし、ご主人様も今の今まで忘れておったじゃろうに」
ティオが苦笑しながらハジメの頬を突く。まぁ、ティオがいいならいいか、とハジメも肩を竦め――
「う、うぅ~ん、私はいったい……」
ヒッグス君が目を覚ました。上体を起こし、困惑した様子で周囲を見回し、女王陛下達に囲まれていることにギョッとして――
当然、行き着く。魔神のもとに。目が合う。合っちゃう。
「くぁwせdrftgyふじこlp!!!」
ぐりんっと白目を剥く目。そのままバタンッと倒れ、後頭部を激しく強打するヒッグス君。
いっそ見事な発狂死(二回目)だった。
「ご主人様よ、そう意地悪をするでないよ」
「なんもしてないが?」
「そんなこと言ってる場合じゃ――ああ、また魂が抜けて!? てぇいっ!!」
愛子の手がキラキラ輝く! 見事なフォームでジャンピングスパイク! バレーボールの如く、天に召されかけたヒッグス君(魂)が肉体に叩き戻される。
ついでに、香織もなんとも言えない表情ながら、後頭部からダクダクと流れる血で血だまりを広げていくヒッグス君に癒やしの光を注ぐ。
そして、
「ハッ!? 私はいったい!? ここはど――ЖЙЙЙЗЍЪШФφ⁂⁂⁂⁂Ω⁉⁉」
やっぱり発狂死(三回目)した。
「な、なに、今の悲鳴……悲鳴? なんか、こう、ゾワッとしたんだけど」
優花ちゃんが自分を抱き締めるようにして鳥肌の立った腕をさすっている。どうやら、それは他の者達も同感らしい。
「というか声もおかしくなかったかしら? こうやけに甲高いというか、虫の鳴き声みたいというか……」
「人間が発した声とは思えませんでした。いったい、どんな経験をすれば人ってここまでおかしくなれるんでしょう……」
雫とリリアーナもドン引きした様子で一歩後退っている。
「愛子、キリがないから蘇生と同時に目覚めないようにできるか?」
「ちょうど、そうしようと思っていたところです」
愛子からなんとも言えない眼差しが届く。その目が何より雄弁に問うていた。リリアーナと同じく、いったい何をしたらここまでになるのか、と。
処す? 処す? と真っ黒な暗黒お目々で虫を見るような眼差しをしていたユエさえも、「あ~、うん、まぁ、十分な罰を受けているっぽい?」と、いつもの雰囲気に戻っているくらいだ。
「パパ、話には聞いていたけど……〝おれ、まおうさん。今、お前の後ろにいるの〟ってそんなにヤバイの?」
「メリーさんをちょっとアレンジしただけなんだが」
こういう時、だいたい〝ちょっと〟ではないのがハジメクオリティー。
怖い物見たさか。気になったらしい香織が提案を口にした。
「……記憶、覗いてみる?」
空母艦オスティナートが撃沈される様子、つまり魔王式嫌がらせ百八式が一つ〝おれ、まおうさん。今、お前の後ろにいるの〟の効果のほどは、特に過去視ツアーの予定には含まれていなかった。
過去視は、その〝場〟を起点に過去を映し出す。なので、高速で移動中の現象を継続的に過去視するのは、不可能ではないもののかなり面倒なのだ。
しかし、ここには奇跡的なことに当事者がいる。彼の一人称視点になってしまうが、魂魄魔法を使えば記憶を投影できないことはない。
「何も自ら地獄の釜の蓋を開けんでもよいじゃろう――」
「……確かめないわけにはいかないっ。ティオを汚さんとした者に相応しい罰は下ったのか!」
「ユ、ユエよ……」
目をギンッとさせて前に進み出るユエ様。
相応以上の罰を受けたことは連続発狂死で十分に証明されていると思うが、怒りの理由がティオを想ってのことなので強くは引き留められない。むしろ、嬉し恥ずかしでモジモジしちゃうティオ。
その間にもユエが率先して記憶を抽出し空中に投影してしまった。かつて、氷雪洞窟の深奥でハジメの記憶を見た時のように、黄金の魔力光をスクリーン代わりにして映像が見えてくる……
『これか!? これがいいのか!? ケツ穴クソザコ駄竜がっ』
『んほぉ!? らめぇ!? 超えちゃう! 妾、いっちゃいけない頂の向こうへいっちゃうぅ~~~っ』
『いやぁーーーーーーっ、変態よぉーーーーーっ!!』
誰もが思った。早速、地獄みたいな映像が来やがった、と。特に、ティオを清廉潔白かつ勇壮な聖母の如き偉大な竜と信じていた竜王国の一部の人達が「え……?」と目を見開いている。
というか、初めて黒龍神化した時にハァハァを聞いていたけれど、きっと気のせいに違いないと記憶を美化した者達(クロー姉弟を含む)も、「ち、違う……そんなはずはない……ヒッグスが現実逃避して記憶を変えたんだっ。このクソ野郎!」とブーメランを投げている。
「ママ。ティオお姉ちゃんの痴態くらい今更だと思うの」
目元を覆うママの手を微動だにせず受け入れながらも、一応、抗議するミュウ。
「どちらかというと、ノリノリなパパの姿を見せたくないのよ?」
「レミア……なんかごめん……」
「今更だと思うの」
「ミュウッ、なんかごめんっ」
嬉々として鞭を振るう過去のパパ。今のパパが羞恥心からか両手で顔を覆う。
奈々&妙子が「時々見せる妙っちの表情そっくりじゃんね? 心から楽しんでるよ」「いえいえ、奈々さんや。私なんてこの方に比べたらまだまだ……」なんて会話も追い打ちをかける。
「おいおい、これ……マッハ3くらい出てないか?」
「計器の見方が分からんけど、周囲の雲海のぶっ飛び具合がすげぇしな」
淳史が引き攣り顔で、昇が確かめるようにボーヴィッドを見やる。
うわぁ……とドン引き顔だったボーヴィッドが視線に気が付き、パニック寸前なのか極度に荒い呼吸で揺れる&涙目で滲むヒッグス君の視界を注視し、頷いた。
「マッハ3.2ってところだな。カタログスペックだとマッハ4を超える機体だが、通常の運用でもまず出さない速度だ」
計器を見れば刻一刻と速度は上がっていた。この世界の飛行機械の技術力の高さに地球組が思わず感心の声を上げるが……
「それについてくるティオお姉ちゃん、すごいの!」
「いえ、普通に怖いですが? 見てください、私のウサミミ。こんなにウサ毛が逆立って……」
「確かに、これはトラウマになりそうよね。徐々に距離を詰めてくるところとか特に」
自然と一歩後退った雫。
ヒッグス君の視界なので、嬌声を上げる黒竜の姿が徐々に徐々に大きくなってくるのだ。それだけでも十分に怖いが、これが漆黒のオーラと竜巻を纏いながら追いかけてくるのである。
まるであれだ。某魔法使い映画の〝名前を言ってはいけない例のあの人〟や闇の陣営が使う飛行術のよう、と言えば想像がつくか。
しかも、風の抵抗なにそれ美味しいの? と言わんばかりに物理法則を無視して仁王立ちしながら高笑いしている男の姿まである。
例のあの人より、あの人している。確かに恐怖の一言だ。
その恐怖が遂に並び立つ。
『んんっっほぉーーーーっ!! 妾、限界の先へ今、れでぃごぉーーなのじゃーーっ!!』
『すごいぞ、ティオ! 記録更新だ! お前は世界最高のド変態だ!!』
計器が示すはマッハ3.9。ほぼ音速の四倍。まさに世界最速のドラゴン。
ヒッグス君、もはや言葉もない。キャノピー越しに見えるのは、あまりにも非現実的な光景だ。
なんだ、あの輝く黄金の瞳は。どうして♡マークが浮かんでいるように見える?
なんなんだ、あのだらしなく歪んだ口元は。凶悪な牙に普通なら恐怖するだろうに、でろんっと飛び出た舌や垂れるヨダレが恐怖以上に気持ち悪さを掻き立ててる。
というか、音速の四倍に届こうかという速度なのに、なぜ真っ白な吐息がモワァッと広がって見えるんだ? ハァハァという息づかいがキャノピー越しなのに耳にこびりついて離れない!
そもそも、あの男はなぜ立っていられる? 俺でもドン引きするくらい暴力を振るっておいて、どうして、そんな慈しみの表情を?
分からない。何も分からない! 俺はいったい、何に追いかけられているんだ!?
『あ、うぁ……あ……』
言葉にならない恐怖で視界が揺れている。その視界に、勇壮な竜の容貌なのに一目で分かる恍惚顔が、ゆっくりとこっちに向くのが映って、
『お~い~つ~い~た~の~じゃ~~~♡』
艶やかで、ご機嫌で、だらしのない声音が脳内に響いた。
『……はは』
黒いオーラと共に超音速でどこまでも追いかけてくる変態……
いきすぎた恐怖心は、逆に笑顔をもたらすのか。乾ききった笑い声を響かせた直後、ヒッグス君の視界は暗転した。
「あ、気絶しました……ね?」
愛子の言う通りなのだろう。どうやらヒッグス君の心は己を守るため、意識を飛ばすという選択をしたらしい。
「この後も増速を続けて、結局、俺達は振り切られたんだが……まさか気絶していたとはな」
「あの領域に到達できたのは一瞬じゃったしな。今ならもっといけるじゃろうが……中々、悔しかったのぅ。しかし……ふむ」
少しだけ晴れやかな表情で、ティオは言った。
「確か、ブラックアウトと言ったかの? どうやら、あの速度には体がついていかんかったようじゃな。これは実質引き分けとみても良いかもしれん♪」
機体のスペックには負けたが、空を飛ぶ者としては決して負けておらんな! と少し誇らしげに、かつ確かめるようにとボーヴィッドを見やる。
こっち見ないで……と言わんばかりに視線を逸らすボーヴィッド&パイロット組。
ブラックアウトは、重力加速度の負荷により脳への血流が不足し、視界が暗くなる現象だ。更に負荷がかかれば気絶もする。
だが、それは急旋回などで急激に負荷がかかった場合の話。
ただ増速しているだけなら、この世界の耐Gスーツが優秀なのもあってブラックアウトなどしない。つまり、気絶理由は明らか。
天空の覇者たるティオなら、それくらい知っていそうなものだ。なので、
「ハハッ、中々のブラックジョークですね! 心のブラックアウトだけに」
「何を言うとるんじゃ?」
真顔で首を傾げるティオに、ボーヴィッドはいろんな意味で耐えられず両手で顔を覆った。パイロット仲間が隊長の肩を叩いて慰めている。
「……ん~、ここで意識を取り戻して……ん、このあたり?」
早送りのように記憶を精査し先へ進めていたユエの声で、再び視線が記憶映像へ向く。
視界は暗転したままだった。
「あ、いえ、これ……うずくまってる、わよね?」
一瞬、気絶したままなのでは? と思った優花だが、直ぐに勘違いに気が付く。
滲んでいるし暗いが、意識は確かにあった。隙間からコックピットの足下や計器がチラチラ見えているので、おそらく操縦席で膝を抱えているのだろう。
更に言えば、キャノピーをバンバンッと叩く音に合わせ、
『おいっ、ヒッグス! 何してやがる!』
『お前、ふざけてんのか! さっさとキャノピーを開けろ!!』
『っていうかクレメンス隊長は? 他のグローサー隊はどこだ?』
なんて複数の怒声も聞こえる。
「……あの後しばらくして意識を取り戻したんだけど、特に何もなかったから母艦に帰還したところまで飛ばした」
ユエの説明を聞いて、ローゼ達がなんとも複雑な表情で子供のようにうずくまるヒッグス君を見つめる。
「無事に帰還できて安堵したんでしょうね……」
『加えて、改めて隊が全滅した現実を実感したんだろうね……』
「ついでに、あの悪夢――ごほんっ。逃走劇が悪夢でなく現実だったことも実感したんでしょうなぁ」
悪夢って言うてもうてる……とローゼ達は思ったが、サバスの所感に異論はなかった。
と、そこで痺れを切らした乗員達がヒッグスを引きずり出しにかかった。
キャノピーの開閉スイッチは外部にもあるようだが、起動させるや否や、ヒッグス君が無言&素早い動きで閉め直すので、彼等の額の青筋は今やくっきりはっきり状態だ。
工具も使って開けられるキャノピー。チョークスリーパーでもするみたいに首に腕を回され、そのまま複数人がかりで引きずり出されるヒッグス。
暴れるかと思えば、意外にもヒッグスは無抵抗だった。
面倒かけやがって、と怒り心頭だった他の兵士達もこれには少し困惑だ。
広大な駐機場の乗員達やスクランブル待機していた他のパイロット達が喧噪を聞きつけ集まってきている。グローサー隊と連絡が付かないことは確認したのだろう。報告を求めて、将校らしき者まで駆け寄ってきていた。
『おい、ヒッグス。いい加減にしろ。さっさと報告せんか!』
上官がヒッグスの胸ぐらを掴んで強引に立たせる。そして、その表情を見てギョッとする。元々粗野で野性味溢れる生意気な男という印象だったヒッグスが、まるで雨に濡れた子犬のような有様だ。
『ヒッ、あ、いや、イ、イエッサー! あの、あいつが! いきなり跳んできて! 変な武器で……そしたらみんな死んで……俺、必死に逃げて、なのに! ああっ、あの黒い竜巻の変態が! こっちに来る! 近づいてくるぅ!』
支離滅裂だ。本来なら叱責なり殴打なり浴びせるところだが、明らかに尋常でない精神状態を不気味に思ったのか、将校は思わず手を離した。
ただ、ドサリッと力なく座り込むヒッグスを見れば、少なくとも部隊が全滅したということだけは分かる。
『ええいっ、わけが分からん! 貴様等、こいつを尋問室に連れて行け! 敵の正体をなんとしても聞き出せ! 手段は問わん!』
『『イ、イエッサー!!』』
両脇を抱えられ、駐機場から引きずられていくヒッグス君。
「まぁ、生身で戦闘機を撃墜する男も、超音速ド変態ドラゴンも、普通に考えてあり得ないもんなぁ。頭がおかしいかふざけてるとしか普通は思わねぇよ」
「だよねぇ。冷静に説明すればするほど現実離れしていくって、もうどうしろってんだよってなっちゃうよねぇ」
尋問室に連行され、少しは冷静さを取り戻したのか。必死に報告するヒッグス君。
しかし、だからこそ報告は混迷を深めた。微に入り細を穿つ報告をするほど、龍太郎と鈴の言う通り、周囲の目は冷たくなっていくのだ。
怒声を浴びるくらいならまだマシ。遂には殴打もされ、椅子から転げ落ちるヒッグス君。
『ほ、本当なんだよぉ~、信じてくれよぉ~』
と泣きながら訴えるが、遂には〝敵を庇っている? つまり、スパイでは?〟みたな疑いの目まで向けられ……
「さ、流石にちょっと哀れになってきたんだが……」
「そうだね……罰としては十分な気が……」
クロー姉弟も、拷問器具が用意され始めた尋問室と、真っ青になって真実を訴えるヒッグス君の姿に、罰としては十分かも……みたいな雰囲気になるが、忘れてはならない。
本当の悪夢は、ここからだということを。
艦全体に放送がかかる。ローゼ達の飛空艦の発見と戦闘配備を伝える知らせだ。
アラートが響き、兵士達が慌ただしく動き出す。ヒッグスはひとまず尋問室に幽閉だ。
そうして始まる激しい戦闘音。
そして、聞こえる、あの声。
『ええ、皆さん。突然ですが、自分達は決して怪しい者ではありません。ここは平和的に、文化的に、人間らしく、コミュニケーションをもって相互理解を図りませんかぁっ』
「イヤァーーーーーッ!!?」
平和的で文化的で人間らしいコミュニケーションに、ヒッグス君は絶叫した。いっそ見事なほどのムンクの〝叫び〟顔だ。
そこからはもう、ヒッグス君必死だ。尋問室内の通信機を使って必死に艦長へ呼びかける。
ちょうど、グローサー4に備え付けのカメラ映像がフェイク動画ではないと解析され、報告が真実だと証明されたこともあって、尋問室から解放されたヒッグス。
艦橋に呼ばれるや否や、個人に向けて戦艦の主砲を撃てと血走った目で主張し、必死に目の前の悪夢を消し去ろうと艦長に訴える。
だが、その主砲も効かず。
『艦長ぉ~、もう逃げましょう!』
と進言するも、艦長はハジメと言葉を交わしちゃい、しかも、神国に仇をなす敵として絶対に殺す宣言まで。
ヒッグス君、艦長に掴みかかろうとする。『おまっ、マジふざけんなよおい!』と。警戒していたクルーに取り押さえられるが。
そうして、
『最後通告だ。今すぐ、引け』
『イヤァーーーーーッ!!? お願い待ってぇええええっ』
『怯むな! 釘付けに――』
『イヤァーーーーーッ!!? なんで応じるの!? 馬鹿なの!? ばか! もうこんな船に乗っていられるか! 俺はお家に帰るぞぉっ』
ヒッグス君は押さえ込んでくるクルーを火事場の馬鹿力ではね除け、脱兎の如く艦橋から走り去った。そのまま泣きべそをかきながら必死に駐機場へ向かう。
そこからは、なんというか凄かった。ハジメ達も予想しない、一つの映画を見ているかのようだった。ホラーパニック系の映画だ。
愛機たるグローサー4を無断で出そうとするも、当然、止められる。もはや脱出することしか頭にないヒッグス君は、制止してくる者すべてを殴り倒し、奪い取った銃で武装し、一応、急所は外したものの仲間さえ撃って突き進んだ。
だが、撃ち合いは悪手だ。銃撃戦になれば空戦機を離陸させるどころの話ではない。
時間を無駄にした結果、オスティナートはヒュベリオンにより大破し、あえなく反転・撤退。
そして、それは始まった。
スクワーム・シェル。アラクネゴーレムを詰め込んだ砲弾だ。何十何百という小型の蜘蛛がわしゃわしゃと艦内に這い出ていき、〝おれ、まおうさん。いま、お前の後ろにいるよ〟が実行される。
阿鼻叫喚と化す艦内。誰もが疑心暗鬼に陥り、鬼の形相で味方を撃ち合う。
もう飛び立つことはできないと判断して駐機場から逃げ出したヒッグス君が、通路の角からそろりと顔を出す。向かいの窓に映った彼の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。ハッハッハッと過呼吸気味の息遣いも感じられる。
無理もない。艦内の明かりが消えて、レッドアラートだけが点滅し鳴り響く薄暗い通路は実に不気味だ。聞こえてくる怒号と銃声、そして悲鳴がガリガリと精神を削る。
まるでエイリアンに侵入された宇宙船のようで、優花と奈々、それに妙子がいつの間にか手を繋ぎ合っていた。そういう系が苦手な香織やレミアもハジメの背中に隠れるようにして肩越しに覗き見ている。
ローゼ達も、話にだけは聞いていたあの日のオスティナートの艦内の様子を見て、青ざめながら固唾を呑んでいる。
『どうして、どうしてこんなことに……』
その声に反応したのか。背後から唸り声が聞こえた。ヒッと声を上げて振り返るヒッグス。その視界に、半ば白目を剥いているような悪鬼もかくやの形相をした上官の姿が。
どう見ても正気じゃない。ヒッグスを見つけるや否や、殺される前に殺す! と言わんばかりに、ヨダレを撒き散らして何事か叫びながら襲いかかってくる。
『う、うわぁああああああっ!!』
戦うこともせず逃げ出すヒッグス。追ってくる上官。手元の銃はとっくに撃ち尽くしているが、それだけが心の寄る辺と言わんばかりに握り締める。
『ヒッグスゥ!! お前が、お前があれらを呼び込んだ元凶だぁっ』
『知らない! 俺は何も知らない!』
がむしゃらに逃げて、飛び込んだのは厨房だった。他に誰もおらず、目に付いた包丁を手に取り構える。
だが、入口から上官が飛び込んでくることはなかった。それどころか、妙に静かだった。
困惑しながらもそぉ~っと通路から顔を覗かせるヒッグス。
そして、見た。
『あ、ぁあああっ』
『!!?』
蜘蛛の糸でぐるぐる巻きにされ、逆さで宙づりになっている上官の姿を。今度こそ完全に白目を剥いていてビクンッビクンッと痙攣までしている。
天井には当然、真紅の八つ目を光らせる蜘蛛の姿が。
その蜘蛛の目が、ギンッとこちらを向いて――
『!!!? フゥーッフゥーッ!!』
間一髪、身を引っ込めるヒッグス。飛び出しかけた悲鳴を両手で押さえ込む。そのまま地を這うようにして厨房の奥へ進み、そっと音を立てないよう大型冷蔵庫を開いた。
中の食材を必死に掻き出し、身を潜める。だが、閉め切る寸前で真紅の光が見えて、咄嗟に手を止める。
指一本も入らないような隙間から外が見えた。ついでに、カサカサと蜘蛛が這う音も。
叫び出したい。絶叫しながら飛び出して、逃げてしまいたい。
でも、それをしたら本当に最後だ。堪えろ! 堪えろぉっ。と必死に自分に言い聞かせる。銃はいつの間にかなくなっていて、両手で包丁を握り締め、額に押し当てるようにして祈る。
カサカサ。カサカサカサッ。
どうか、どうか見つかりませんように……
カサカサカサカサカサカサ――
耳朶を打つ、何かを探すような蜘蛛の足音がピタリッと止まった。無意識に呼吸を止めて、文字通り息を殺すヒッグス。
永遠にも等しい時間。実際には数秒だろうが、それが過ぎた後、遠ざかっていく足音が聞こえてきた。
『ぶはぁっ、た、たすか、助かった……?』
必死に息を吸い、しばらくじっと外の気配を探る。怒号や悲鳴は相変わらずだが、遠い。カサカサも聞こえない。
体がすっかり冷えていた。恐怖にプラスで冷蔵庫の冷気が加わったせいで震えが止まらない。
それでも、なんとかやり過ごせた安堵に少し心を緩ませ、そっと冷蔵庫の扉を開いて這い出る――
『……え?』
その肩にポタリッと水滴が落ちてきた。なんだ? と思いながら頭上を仰ぐ。
目が合った。真紅の八つ目と。
まるで獲物を前にヨダレを垂らす獣のように、口元から正体不明の液体を垂らす異形の蜘蛛がジッとヒッグスを見下ろしていた。
『ЖЙЙЙЗЍЪШФφ⁂⁂⁂⁂Ω⁉⁉』
「「「「「「「きゃぁーーーーっっ!!?」」」」」」」
再び暗転する視界。そして、響き渡る優花、奈々、妙子、そして香織&レミアの悲鳴。に加え、更にローゼと、意外にもオルガ近衛隊長まで。
アラクネをよく知っている優花達すら悲鳴をあげずにはいられないホラー映像だったのだから無理もない。サバス達でさえも顔色が悪いし。
ご丁寧にも、ヒッグスがしっかり罰を受けたのかチェックするため、氷雪洞窟の時のハジメ同様に、その時の感情まで伝わるように調整されているので尚更である。
「南雲……流石だぜ」
「ああ、えぐいにもほどがある」
「ね、ねぇ、ハジメさん。それにユエさんも。罰としては十分じゃないですか?」
淳史と昇がドン引き顔で、リリアーナが苦笑気味に問う。
「しかも、この後、爆破したんですよね?」
ローゼが、もう十分でしょう!? お願いですっ、見逃してあげてください! と懇願するような目を向けてくる。
「お、おう、まぁ元々だな、あそこまでやってなお生き残れたなら、それはそれでいいかとは思っていたから」
「確かに、オスティナートのその後を羅針盤で確かめたりはせんかったな」
爆破の一番の目的は、あくまでアラクネを回収させないため。
この世界のこともよく分かっていなかったハジメ達である。絶対に殺す宣言されたから撃退しただけだ。
墜落した方が神国が事態を知るタイミングを遅らせられるし、〝おれ、まおうさん〟も墜落しようがしまいが生き残りがいれば、しっかり恐怖を伝えてくれるだろうと思ってのことだ。そうすれば、流石に神国も動きが慎重になるだろうと。
そこまで長居するつもりはなかったので、帰るまでの間、足を竦ませられれば十分だったのだ。
「というか、むしろ生き残りがヒッグスだけとは思わなかった。恐怖煽りは爆破と同時に解けるし、地上で黒い雨に晒されるとしても、空母の中だぞ? 救助が迅速なら浴びる前に助け出されるはずだ」
つまり、疑心暗鬼の殺し合いと墜落の衝撃で全滅した? と首を傾げるハジメ。
「そうですね。オスティナートの残骸は私達も確認しましたが、損壊状態から見ても辛うじて不時着したようです。かなり墜落に近い形だったでしょうから、死傷者がゼロとは思いませんが……」
ローゼが答え、同じく小首を傾げる。てっきり、ハジメの仕業でヒッグス以外は全滅したと思っていたが、今の様子からするにもっと生き残っていてもおかしくない。
と、そこで、その疑問には、
「……んっ、待って。救助されるまでの記憶もあるみたい。必死に忘れようとしていたのか、奥底に沈んでるというか、ノイズも酷いけれど」
ユエが答えをもたらしてくれた。
『うっ、ここは……どうなって……っ、さむい……』
ヒッグスが目を覚ました。真っ暗な中、適当に壁を押すと一方が開いた。どうやら冷蔵庫の中らしい。
歯をガチガチと鳴らし、自分を抱き締めるようにして這い出る。全身が痛いのだろう。少し動く度に顔をしかめている。額からも血が出ているようだ。冷蔵庫の中で随分とシェイクされたのだろう。
しばらく蹲って痛みと寒さに耐え、やがて厨房を見回す。
非常灯が明滅している。酷い有様だった。何もかもが散乱している。壁には亀裂も入っていた。床も微妙に傾斜になっているようだ。艦自体が傾いているらしい。
白い息を吐きながら、四つん這いで通路まで進み、慎重に顔を覗かせる。
レッドアラートも、もはや点灯していない。代わりにバチバチッと火花がそこかしこで散っていた。
天井が大きく割れていて、そこからチョロチョロと水が浸水してきている。火花が、その水の異常性を照らしてくれた。
『なん、だ? 黒い、みず? ……っ、墜落した? ここは地上か?』
慌てて黒い水から距離を取るヒッグス。
火花と、水の滴る音以外、何も聞こえない。非常灯の届かない歪な通路は、まるで人を呑み込まんとする巨大な獣の顎門のようだ。
急激に心細くなる。誰かいないのか? 本当に墜落したのなら、自分が生き残っているのはおかしい。きっと、どうにか不時着したんだ。なら、絶対に生き残りがいる。
そう自分に言い聞かせ、通路に出る。壁を支えに曲がり角までどうにか歩く。
『だ、誰かっ、誰かいないのか!? 助けて――』
『……ぁ、うあぁ』
『!?』
微かな呻き声が聞こえた。少し先の十字路、その右側からだ。ヒッグスの表情が少し晴れる。
「なんでしょうね、この展開。嫌な予感しかしないのだけど」
「ホラーあるあるですね……」
雫の勘は実に的を射ていた。愛子が、震える竜王国の皆さんを横目に精神安定の準備を始める。
『よ、良かった! 生き残ってる奴が――』
通路の角から顔を覗かせるヒッグス。
『だ、だだ、だづ、げてててて』
『……』
固まるヒッグスの視界に、それは映った。黒いヘドロの竜の顎門に下半身を呑み込まれている最中の兵士の姿を。
そう、ここは地上。黒い雨により長時間の滞在など不可能な場所。
だが、それでも命を捨てる覚悟で居続けたなら、何が起きるのか。今なら誰もが知っている。
「で、泥獣っ」
「そうかっ、オスティナートの生き残りはみんなこいつらに!」
ジャンとサバスが納得半分恐怖半分の表情で答えを口にした。
直後、ぐじゅりっと音が響いた。ヒッグスの背後から。
ギギギギッと油を差し忘れたブリキ人形みたいなぎこちなさで振り返るヒッグスの視線の先に、案の定、泥の竜がいた。
奈々達から「ひぃ~」とおぞましさに震える声が漏れ出る、誰もがヒッグスの絶体絶命を確信する中、奇想天外な出来事が。
『も』
見下ろす泥竜。それを見上げるヒッグス君。
泥竜の顎門がガパリッと開いた。全てを侵蝕し腐食させる泥のブレスが、ヒッグスを呑み込む――
『申し訳ございませんでしたぁーーーーーっ!!』
寸前に、ヒッグス君、何を思ったのかヘッドスライディングからの土下座を敢行した!
その頭上を通り過ぎる泥のブレス。
思わず「うそぉーーっ!?」と声が重なる中、泥竜の足下で土下座するヒッグス君は言い募る。
『俺が、いえ、わたくしめが間違っておりましたぁっ。竜の皆様への数々の蛮行ッ、どうか、どうかぁっ、お許しを!』
どうやら、今までの行いの結果、竜に恨まれてこんな事態になっていると思ったらしい。というか、ティオのことも竜の恨み辛みが具現化した存在と理解(誤解)したようだ。
薄暗い通路の中だとヘドロの体は普通に黒竜に見えて、墜落してなお追ってきたと思ったのだろう。で、進退窮まった今、命乞いに全てを賭けたらしい。
あるいは、単に錯乱しているだけかもしれないが……
ともあれ、ヒッグス君、必死である。
泥竜が前脚を僅かに上げた。強靱な爪などないが、直撃を受ければ当然、侵蝕されて死は免れない。
だが、ここでも奇跡。ガバッと顔を上げた直後、直前まで頭部があった位置に前脚がグシャッと。
『今後は心を入れ替えますっ。竜の皆様に尽くしますぅっ。どうか贖罪のチャンスを!』
涙と鼻水を洪水のように流し、喉を枯らさんばかりに叫ぶヒッグス君。自分が今、グシャッされる寸前だったとは気が付いていないらしい。
ハジメさんが「やはり土下座。土下座は全てを解決するんだ……」とか呟いているが、なにやらヒッグス君の様子がおかしいので、誰もツッコミは入れない。
『ああっ、どうして今まで気が付かなかったのか! 竜とはこんなにも畏るべき存在だったというのに!』
いや、命乞いというか、神の降臨でも目撃して天啓を得た聖職者みたいな、むしろ、狂信者に堕ちたような雰囲気というべきか。
恐怖の涙ではなく、恍惚の表情と相まって感涙に見える。凄く狂気。
魂などないはずの泥獣が、心なしか「な、なんだこの生き物」とドン引きでもしているみたいに身を引いたような……
全ての生き物は、泥獣に忌避感を抱く。逃げることはあっても、自らグイッグイッと迫ってくることなどあり得ない。
魂はなくとも生前の本能が残っているなら、それは思わず引いてしまう……なんてこともあるのかもしれない。本能的に、なんかキモイッと。
結果的に、その僅か数秒の停滞がヒッグスを救った。
『おいっ、誰かいるのか! 生き残りは――あ』
背後の通路の奥から、片腕を布で吊り下げた将校服の男が駆けてきた。ヒッグスの声を聞きつけたらしい。
で、薄暗いが故に十字路の手前くらいまで来て、ようやく泥獣に気が付く。
『ば、化け物っ。死ねぇ!!』
『き、貴様ぁ! 竜様を傷つけようとは何事――』
将校はヒッグスのことなどお構いなしに、短機関銃の引き金を引いた。しかし、片手かつ満身創痍なのもあって狙いなどつけられず、銃弾はピンボールのようにあちこちへ。
そして、ヒッグス君はヒッグス君で、やはり精神的におかしくなっていたのだろう。あろうことか、将校を止めようと飛び出し……
「パパ、やっぱりこの人、あまいお姉さんと同じタイプじゃ?」
「ハジメさん、この人、やっぱりバーナードさんと同タイプでは?」
「う、う~ん。確かに、やらせかと思うほどの幸運だなぁ」
思わず、ミュウもシアも記憶映像を指さしながらハジメを見ちゃう。
弾丸は散らばったが故にヒッグス君には当たらず。数発ほど当たりそうだったのだが、振り返る動きのおかげで偶然にも神回避。
加えて、飛び出した直後に足下の瓦礫に躓いて派手に顔面からずっこけたが故に、将校に向けて突進した泥竜を頭上すれすれでやり過ごすことに成功しちゃう。
先程から、いったい何度奇跡的な回避を成功させているのか。これにはユエ達も、そしてローゼ達も驚愕半分感嘆半分といった表情だ。
『……え? 竜様、じゃ……ない?』
ぎぃやぁあああああっと断末魔の悲鳴が響く。将校さんが泥竜に、否、人食いスライムのように形態変化し覆い被さった泥獣の中で必死にもがいている。
それを見て、ティオじゃないと理解したヒッグス君の顔色は一気に青へ変化した。
『竜様じゃないぃいいいいいいっっ』
脱兎の如く逃げる。一目散に、脇目も振らず元来た道を駆ける。
辿り着いたのは、先程までいた厨房。
冷蔵庫さんが「おかえり」と言わんばかりにドアを開いて待ってくれていた。「お外は怖かったよぉ、冷蔵庫ママン!」と言わんばかりに泣きながら飛び込むヒッグス君。
しっかり扉を閉める。真っ暗で狭くて冷気漂う空間で、ヒッグス君は泣きべそを掻きながら膝を抱え、目を閉じた。
もう、現実なんて何も見たくない。何も考えたくない……と言わんばかりに。
「……ん~、この後、結局凍死の危機を感じて、どうにか自力で脱出したみたい。その時には既に泥獣もいなかったみたいだから」
「ふむ……あれかのぅ? 泥獣に見つからなかったのは低体温状態だったからかのぅ?」
「いや、泥獣は正のエネルギーを感知するから……ああ、いや、体の熱量が下がれば正のエネルギーも小さくなると考えれば、あり得るか?」
何はともあれ、だ。
ヒッグス君の一連の体験は、まさにホラーパニック映画。時間的にはそれほど経っていないはずだが、最初から最後までフルスロットルかつ濃密な一本分の短編映画を見たような心地になって、誰もが「ふぅっ」と吐息を漏らした。
そして一斉に、
「「「「「十分では?」」」」」
「「「「『お許し願えませんか?』」」」」
罪に見合う罰だったのでは? と龍太郎達&ローゼ達がユエ様の様子を窺う。
直前の記憶を精査すれば、避難せず寺院内部にいたのも、避難先の艦にあの赤ちゃん竜がいないことに気が付き一人飛び出して捜しに来た結果だったようなので、改心したのも本当なのだろう。
というわけで、
「……ん、んぅ。まぁ……いいでしょう!」
これにはユエ様も納得らしい。もちろん、ハジメやティオ、シア達も肩を竦めたり苦笑したりしつつも頷きを返す。
やった! ヒッグス助祭はまた生き残った! おめでとう! おめでとう!
ローゼ達の歓声が、テミス・モシュネーの空に木霊した。
安堵のあまり、そして数々の恐怖体験を乗り越えた称賛を込めて、気絶したままの彼を担ぎ上げ胴上げだってしちゃう。
白眼を剥いたまま何度も宙に跳ね上げられるヒッグス助祭。ピクリとも反応せず、脱力したままグニャンッグニャンッと宙を舞う姿は、まるで壊れた人形のよう。
その様子を遠目に見ていた、テミス・モシュネー保護部隊の兵士達や、上空を旋回していた黒竜&竜騎士達は……
「あ、あいつら、助祭様にいったい何をっ」
「ま、魔神様の不興を買ったんじゃ……」
「竜王国の民に、自らの手で助祭様を玩具にしろ、と!?」
「陛下にまであんな仕打ちをさせるなんて……なんという非道っ。流石は魔神様だ……」
揃って、畏怖の眼差しをハジメに向けたのだった。
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