決戦(1)
「セックス、ですか……そのような事が……」
神妙な面持ちのアンヘルの唇から紡がれたため息交じりの言葉にレイジはがっくりと肩を落とした。もうその四文字にも大分慣れてきたが、どう考えても会話の中に飛び交っているのはおかしいとしか思えなかった。
浴場での一件から三日が経った。といってもあくまでもザナドゥの中での時間であり、恐らく現実世界の時間ではまだ“翌日”には至っていないだろう。
オルヴェンブルム城の裏手にある墓地。その芝生の隅を借りて仰向けに寝転がるレイジの隣にアンヘルは腰を下ろしていた。本来ならば三時間しか降り立つ事を許されないはずのこの大地において、こうしてただ成す術もなく時を見送る事は若干の苦痛を伴っていた。出来るだけ身体も心もからっぽにしたままで青空を見上げていると、アンヘルは同じように顔を上げ目を細める。
「マスターはこの世界を、どのような結末で締めくくるおつもりでございますか?」
「え……? 結末?」
「魔王となったミサキを取り戻し、この世界の神となり全ての過ちを正す……マスターはそう仰いましたね。しかし、正すべき過ちとはどこまでで、その過ちを正したのち、貴方様がどうなさるおつもりなのか……それをまだ聞いていないのでございます」
ミサキを取り戻し。とんとん拍子に全てが帳消しになったとして。このザナドゥという異世界とのつながりはそこで断ち切られてしまうのだろうか。
レイジ達勇者はこの世界に様々な影響を齎してきた。その結果この世界の停滞していた時間はゆっくりと流れ始めている。時の流れの影響には個体差があるものの、NPCは歳を取り老いはじめた。この世界において老いと死が同義とは限らない。だがもしそうだとするならば、世界の死のトリガーを引いてしまったのはレイジ達に他ならないだろう。
「オリヴィアがマスターとのセックスに固執するのは、この世界の生存本能ではないでしょうか。理屈ではなく生物として、存続を求めるが故にマスターを欲しているのです」
「それにしたってあれはいきすぎだよ。ちょっとどうしたらいいのか困る」
あれからというもの、オリヴィアはレイジを捕捉するとすぐにセックスの話をするようになってしまった。それだけならまだよいのだが、さっきは突然全裸になり猛然と駆け寄ってきたのだ。慌てて逃げ出した結果ここに来たら、偶然アンヘルと鉢合わせたというわけだ。
「あの子もいい加減年頃だからなぁ……正直目に毒だよ。いやもう、あの子って歳でもないか。同い年ぐらい……だもんな」
オリヴィアの裸体を思い出し顔を赤らめるレイジ。それからすぐに思い当たったようにアンヘルへと目を向ける。
「そういえば、アンヘルは歳を取らないの?」
「はい。“天使”は歳をとりません。その存在は生み出された瞬間から停止したままで、進む事も戻る事も決してないのでございます」
「でも、生体的な構造は人間と同じなんだろ? グリゼルダはギドの子供を妊娠したって話じゃないか」
「全く新規で人間と異なる、しかし人間に限りなく近いモノを作り出すのは神としても面倒だったのでしょう。そういう意味で天使は人間の構造を踏襲していますから。グリゼルダが妊娠したという話は、正直わたくしには眉唾に感じられますね。少なくともわたくしは、自分が出来るとは思えませんから」
先日の戦いでハイネに負わされた肩の傷、そこへ服の上から手を当てる。もう傷は殆ど塞がっていた。アンヘルは“回復の力は自分自身には使えない”と言ったが、まったく効果を及ぼさないわけではなかった。少なくとも傷をふさいだように見せかけるだけならば、時間をかければ可能な事だ。尤も、天使の能力の本質は“回復”ではないのだが。
「わたくし達天使は、神であるロギア……つまり異世界人の生体構造をベースにした模造品です。そういう視点から見れば、確かに同じ異世界人……勇者との間に子を成せる可能性があるのかもしれませんが。どちらにせよ、それが事実なのだとしたら興味深いです。しかしマスターは、わたくしとセックスをするつもりはないのでございましょう?」
「あ、当たり前だろ!? アンヘル相手だとマジでシャレになってないよ! 完全にやばいよ!」
「なにがやばいのでございますか?」
「何がって……もう全部やばいの! 君、やるって言ったら本気でやりそうだしな……とにかくオリヴィアもそうだけど、そんな簡単にするもんじゃないよ……!」
「口答えをするようで申し訳ないのですが、別にシャレで言っているわけではございません。オリヴィアはこの世界の存続の為に、そしてわたくしは己の存在証明の為に言っているのです。軽率な考えでマスターをセックスの対象にしているわけではございません」
「あーもう、その説明がもうアウトなんだよ! この話はもう終わりっ、終わり!」
顔を真っ赤にして手を振るレイジ。しかしレイジにも事の本質は理解できていた。これは性的な問題というよりは、生物存続を賭けた問題なのだ。もしこのままこの世界の人間が誰も子をなさないまま年老いて死んでゆくとしたら、それは世界の滅亡に直結してしまう。だから誰かがこの世界で子を成さねばならない。それは決して笑いごとでも冗談でもない、れっきとした現実であった。
「今はそこまで考えられないよ。別に俺じゃなきゃいけないってわけでもないだろうし」
「では、マスターはオリヴィアが見知らぬどこかの勇者とセックスをして妊娠しても構わないというわけでございますね?」
げんなりした表情で顔を上げるレイジ。そこでアンヘルは腕を組み頷く。
「確かにマスター以外でも可能であれば、それも手ではあります。わたくしも出来ればマスターがよいというだけであって、マスターに限定しなければならないわけでは……」
「なんでそういう事を言うんだ……。もうどっちに転んでも俺が悪じゃないか……」
「悪……? 善悪論の問題なのでございますか?」
「俺達の世界ではそういう事は倫理的な問題で……ってまあ、そうだよなあ。別にセックスしなきゃ世界が滅ぶわけじゃないから倫理とか言ってられるんだよな。なりふり構わなきゃ、そういう事にもなるか……」
そう考えればアンヘルもオリヴィアも決していやらしい意味で言っているわけではないのだ。邪な先入観を抱いてしまっているのはレイジの方である。そう思えばソレもコレも全て慈善事業というか、むしろ世の為人の為なのだが、そこですっぱり割り切れないのもレイジであった。そんなあまりにもおいしすぎる据え膳に乗り切れないヘタレであるという自覚は散々あったが、そこは簡単には譲れない。だがそれで放置した結果、おいしい条件に飛びつく勇者がいたらと思うとモヤモヤしてしまうお年頃であった。
一人真剣に考え込むレイジ。アンヘルはその横に立ち、背後で手を組みながら微笑む。そんな優しい視線に気づき、レイジはふと顔を上げた。
「……ん? どうかした?」
「どうもしないのでございます。ただ……マスターはいつも本当に一生懸命で、何に対しても全力だなと、そう思っただけです」
レイジは感情的な少年だ。アンヘルはそう思う。
いつも燃え盛るような激情を原動力に、常に体当たりで目の前の障害に挑んできた。それはある意味幼く愚かで、未成熟であると言える。実際レイジの行動なんてほとんどが運だ。運よく、たまたま、それでもここまでこられた。本来感情なんてものは命がけの戦いには不要とされる要素だろう。
「わたくしはマスターのそういう所を、とても愛しく思います」
「……そういうアンヘルこそ、最初に比べたら随分こう……感情っぽく……」
「人間らしくなった、でございますか?」
「そんな事言うなよ。アンヘルは最初から人間だよ。例えそれが神に作られた命だったとしても、アンヘルは確かに生きてここにいるんだから」
嬉しい言葉だ。だがアンヘルは苦笑を浮かべる。その言葉は、本当にレイジから出てくるものなのか。それともレイジの中にいる彼女がそうさせたのか、判断できなかったから。
「お言葉ですが、わたくしは人間ではございませんでした。人間とは感情を持ち、自分で物を考え選択し、行動し、未来を切り開く者を言うのです。ただ誰かに言われるまま、誰かに決められたままに息をして歩くだけなら、それは人形と同じでございます」
「……それを言われると、俺も痛い。だって俺もそうだったから。この世界に来て……目の前で大切な人を失って……。それまでずっと、俺は自分の人生を生きてなかったから」
未来は誰かの手の中にあって、そいつが決めてくれるものだと信じていた。
自分は普通で、何者にも成れず、何も成せずにただ死んでいくだけだと、諦めていた。
当たり前に日々が過ぎ、当たり前に何もかもが過ぎて、この掌から零れ落ちていく。全てを人のせいにした無責任な顔で、意志のない目で電車の窓に映り込んでいた大嫌いな自分は、それでも今はもういないから。
「自分の為にも言うんだけどさ。失敗して、どうしようもなくて、後悔して……でも、そこからがスタートなんじゃないかな? 人生ってさ、多分最初から何もかも成功し続ける事は難しいんだよ。一度してしまった取り返しのつかない失敗を“取り返す”為に必死になって……一生を費やして。それが生きるって事なんじゃないかな」
アンヘルと正面から向き合い、少年はアンヘルの手を取る。その手は少しだけ冷たく、それでも確かな人のぬくもりに満ちている。この手は決して血の通わない道具ではない。れっきとした、一つの命だと確信するから。
「もしアンヘルが過去を悔やんだり今の自分に満足していないなら……これから幾らでも取り返せるよ。もしも駄目だったとしても、諦めずに願い続けるんだ。生きる事は願う事だと俺は思う。願い続ける限り、君の胸に命は宿る筈だから」
「願う事が……命……」
その言葉を何度も胸の中で反響させた。少年の手を強く握り返し、女は頷く。不思議な感覚だった。レイジの言葉は――ミサキの言葉は。いつもこうして何故か心に響く。
音が響けば響くだけ、胸の奥底から力がわいてくるのを感じた。それはただの力ではなく、暴力的な濁流となって全身を駆け巡るのだ。このままではいけない。変わらなければいけない。そんな激しい衝動を、感情を、しかし天使は表現する事を知らなかった。
「いつか……伝えられるでしょうか」
「え?」
「なんでもございません。ありがとうございます、マスター」
それとなく手を離し背を向けた。怪訝に首を傾げるレイジには見せたくなかったのだ。この困惑と期待に胸を高ぶらせた少女のような表情も、汗ばんだ震える指先も。まるでそれが人間であるかのようにと自己主張する魂をどのように受け入れるべきなのか。その答えを得るまでは、まだ……。
『それじゃあ、レイジは無事だったのね?』
「はい。レイジはまだザナドゥに……あの異世界に囚われているだけです」
ログアウト直後の深夜三時過ぎ、ジュリアが電話をかけたのはレイジの母親の携帯電話だった。レイジ奪還作戦後、まず一番に彼女に報告すべきだと思ったし、したいと思ったのだ。
レイジの母は夜分遅くにも関わらず報告を待ってくれていた。勿論、この時間に連絡すると言う約束はあったのだが、それでも電話をするのには緊張した。しかしやはりというか、あのレイジの母。話しているとすぐに気が落ち着き、しっかりと言葉を紡げるようになってしまった。
「レイジは私が必ず奪い返します。だから、もう少しだけ待っていてください」
『……ありがとうね、ジュリアちゃん。だけどあなたも無理はしないでね? あの子を助ける為にジュリアちゃんがいなくなってしまったら、私すごく悲しいわ……』
「あう……いえ、その、多少の無茶はしないと、たぶん無理です。ごめんなさい……」
『あらあら? まったくもう、正直者ねぇ。うん、少しの無茶は許します。だけど、絶対に無理だけはしないで。あなたがレイジの事を背負う必要はないし、そんな責任を負われてもあの子はきっと喜ばないだろうから』
「……はい。では、また進展があれば連絡しますね」
『進展がなくても連絡してね。ジュリアちゃんの事、待ってるからね』
思わず顔が赤くなる。それから見えもしないのに電話口に何度も頭を下げ電話を切った。今でもまだ胸がどきどきしているが、なんだか悪い緊張感ではなかった。
「あの人なんか……苦手だわ」
心のパーソナルスペースにまで簡単に踏み込んでくるあの無遠慮さも、優しい声も、レイジに本当に良く似ている。だから今更になって思うのだ。織原礼司という少年は、元々優しくて責任感のある少年だったのだ、と。
「あんないい母親がいたくせにぐれてたなんて、あいつ本当に贅沢な奴ね……って、それは私も人の事言えないか。こんなに贅沢させてくれるママもパパもいて、これだもんな」
振り返れば自室には大量のアニメグッズが陳列されている。こんなぐれ方は両親も予想だにしなかっただろうが、ジュリア本人とて予想はしていなかった。
深々と溜息を一つ。まあ、“コレ”から足を洗うのはもはや不可能くさいし、考えるだけ無駄だ。それよりも今は他にやるべき事がある。
続けて呼び出したのはシロウの番号だ。しかしいくらかけてもシロウは電話に出る気配がない。イライラしながら電話を手にしていたジュリアだが、やがて諦めるように呼び出しを終えた。
シロウはあの異世界に置いてずばぬけた戦闘力を持つ勇者の一人だ。あの魔王をレイジ抜きで倒さねばならないとなった場合、どうしたって必要だと思うのが参謀の考えである。そうでなくてもシロウはレイジにとって強い心の支えだった。シロウが傍にいてくれさえすれば、あのパーティーは強く前に踏み出せる。シロウは戦いの要だったのだ。
「ったく……親友とか相棒とか言っといて、こんな時に見捨てるのかよ、あのヘタレ」
シロウはいつもどんな時もレイジの味方だった。何があっても彼を見捨てなかったし疑う事すらしなかった。ただ信じ、前に立ち、時には強くレイジの背中を押してくれた。
そのシロウが何故レイジを見捨てて逃げ出したのか。そこには必ず事情があるはずだ。命のやり取りを恐れたというのはわかる。しかしシロウなら“だからこそ”レイジを助けようとする、そう考えていたのだが……。
「……事情があるなら相談しろよ、バカ。一人で抱え込みやがって……!」
「……お前、いつまでそこに座り込み続けてるつもりなんだ?」
清四郎の住む千葉県のアパート。部屋のベッドでだらけた様子でバイク雑誌を読む清四郎の視線の先にはコタツの傍らに座った未来の姿があった。
未来がこの部屋にやってきてから早くも七時間が経過しようとしていた。この寒空の下外に追い出すわけにもいかず普通に部屋に入れたものの、未来が黙り込んでいるのはかなり居心地が悪かった。さっきから頻繁になりまくっているJJからの電話も気まずさに拍車をかけている。
「シロウが全部話してくれるまで」
「全部話すっつったってなぁ……」
「その電話、出なくていいの?」
「いいんだよ」
「……彼女?」
「ちげーよアホ」
ようやく電話が鳴りやむとほっと胸を撫で下ろした。ジャージ姿で頭にタオルを巻いた清四郎に対し、未来は制服のままだ。学校が終わってすぐここに来て、そのまま座り込みを続けている。当然こんな所に来ているだなんて学校の寮には連絡していないだろうから、思い切り無断外泊になってしまっている事だろう。
「お前、優等生で奨学金も貰って学校通ってんだろ? こういうのはイカンだろう」
「勿論、良くないよ。だけどそれより……シロウの事が心配だから」
ぽりぽりと頬を掻き雑誌を閉じる清四郎。ため息を一つ、重い腰を上げると小さなコタツに入った。ちょいちょいと手招きし未来もコタツに入るように促しつつ、電気コタツのスイッチを入れる。二人は間近で顔を突き合わせる形になり、第二ラウンドが開始された。
「あのな未来。全部話すっつっても、もう特に話す事残ってねぇぞ?」
「シロウはザナドゥっていうゲームの世界で人を殺しちゃったんでしょ? テレビのニュースで見たよ……すごい騒ぎになってる。シロウがその事件に巻き込まれてたなんて驚きだけど、今のシロウを見ればただ事じゃないってことくらいはわかるよ」
「今の俺ってなんやねん」
「……昔に戻っちゃったみたいなシロウ。元気なくて、ふてくされてる」
そういう自覚があるからこそため息が零れた。そう、清四郎は今ふてくされていた。満ち満ちていた活力もどこへやら、最近は仕事にも身が入らない。ザナドゥを巡る一連の事件が今や世間を騒がせている事も知っていたが、それを仕事場の職人たちに話した所で意味は通じないし心配されるだけだ。だから言い訳も出来ず、職場の仲間たちも清四郎のやる気のなさには首をひねっていた。
「ザナドゥってなんなの? そのゲームで人を殺したってどういう事? ちゃんと説明して、お願いだから……私にもわかるように説明して?」
「なんでお前に分かるように説明せにゃならんのじゃ」
唇を噛みしめ、未来は潤んだ瞳で真っ直ぐに清四郎を見つめる。これには弱い。大切な家族がこんな風に問い詰めて来たからこそ、あの時も言うべきではない事を口走ってしまったのだから。
「……ザナドゥは異世界だった……って話は?」
「この間ちょっと聞いたのと、ニュースでそんな事少し言ってたけど……」
「あれはガチだ。俺はただのゲームだと思ってたが、あれは本当に人の生きている世界だったんだ。そこで俺は俺と同じように転移してきていたプレイヤー……要するにこっちの世界の人間を殺しちまったんだ。この手でな」
きつく拳を握り締め思い出す。第二フェイズ、クラガノと呼ばれたプレイヤーの命を奪ったのがこの拳の一撃だった。レイジを守る為だった。勿論それもある。だが清四郎はあの時クラガノに明確な殺意を抱いていた。“こんな奴はいちゃいけない”と、義憤からくるものであったとしても殺意は殺意。清四郎は自らの意志で人を殺傷せしめた。
「よりにもよって、“また”だ。またこの拳で、人を傷つけちまった。自分勝手な感情に任せて……」
「……あの事、まだ気にしてるの?」
「気にするさ。もう取り返しのつかない過去だ。自分の未来を、自分で閉ざしちまった」
清四郎の視線の先には壁にかけられた赤いボクシンググローブがあった。もうずいぶん手入れもしていないそれはぼろぼろで、まるで長い時の流れの中に忘れ去られてしまったかのようだ。だが清四郎は忘れていなかった。忘れなかったからこそ、グローブはそこにある。
――淀川清四郎は孤児だ。幼い頃、両親共に彼の生育を手放してしまった結果である。
母親も父親もろくな人間ではなかった。母は水商売で、父親はよくわからない。少なくともまともに働いている姿を見た記憶はなかった。酒ばかり飲んでいて母にも幼い清四郎にも暴力を振るう、テンプレートを踏襲したようなクズだった。
やがて父は強盗殺人事件を起こし刑務所に入れられた。それからがまた地獄だった。犯罪者の息子というだけで居場所はなくなり、やがてその世間の仕打ちに耐えかねた母は蒸発した。残された清四郎は家の中でずっと親の帰りを待っていたが、餓死寸前の衰弱した身体で近隣住民に助けを求め、施設に入る事が決まった。
「ま、そこまではよかったわな。別に俺のせいじゃねぇしよ。だけど……」
「……ボクシング?」
当然のように荒れた清四郎は不良になった。喧嘩ばかりして問題行動を起こしまくっていた。一通りヤバいと言われる事はやったような気がしたが、犯罪にだけは手を出さなかった。父親と同じ犯罪者になりたくないという心理が彼を踏み止まらせたのだ。
だからこそ、鬱憤を晴らす方法は同じ不良との喧嘩しかなかった。夜になる度に毎日ストリートファイトに明け暮れた清四郎、そんな清四郎が出会ったスポーツこそボクシングであった。ボクシングに出会った清四郎は得意の蹴り技も封印し、喧嘩もやめ真面目に特訓に打ち込んだ。喧嘩は幾らやっても誰も認めてはくれなかったが、ボクシングは正しいルールの上に成り立つスポーツだ。きちんと努力も成果も認められる。そしてその結果には犯罪者の息子だという生い立ちは関係なかった。
楽しかった。ただ楽しくて、必死で打ち込んだ。何もなかった未来に夢も見つかった。しかしその夢は清四郎の拳そのもので打ち砕かれる事になった。
発端は些細な事だった。めきめきと腕を上げる清四郎を妬んだ同じジムの仲間からのやっかみの言葉が清四郎の怒りに触れた。自分自身をバカにされるのは何とも思わなかったし我慢もできた。なにせ事実だ。清四郎は犯罪者の息子で、だから不良のクズだった。当然の事を言われても別にいい。だけど、無関係な未来や孤児院の仲間の事をバカにされるのだけは、大切な家族を踏みにじられるのだけは我慢ならなかった。
一人で八人のボクサーを再起不能にしてしまった。被害者も目撃者もあまりにも多く、そして実際八人の仲間が夢を絶たれてしまった。清四郎の拳は父親と同じく人の未来をはっきりと奪ってしまったのだ。それから清四郎は追放される前に自らの意志でボクシングを捨てた。それがケジメだと思ったからだ。だが……。
「……後悔してるんでしょ? ボクシングをやめた事」
「自業自得だからな。それにあのままプッツンしてたらマジで殺してたかもしれねぇ。そうしたら俺は見事父親の二の舞、殺人者ってわけだ。後悔はしてねぇよ」
だが、同じことだ。仲間を貶され、こいつだけは倒さねばならないとふるった拳。それが人を傷つけ、誰かの未来を奪った事実。あれから何年も経つというのにまた同じことを繰り返した。あまつさえそれに気づかずにのうのうとしていただなんて、頭にくる。
「あのゲームの中で俺は人を殺した。仲間を守る為だった。だけどそうしたのは俺の意志だ。俺は俺の殺意で人を殺した。何の代わりもねぇ」
変わったと思っていた。少なくとも自分もまた、あのゲームに関わる事で変わったのだと、そう思っていた。
打ち込むべきものが見つかったと思った。勿論遊びだ。だが大切な仲間も出来た。一緒に問題を乗り越えて強くなっていく。強くなろうと思える。それが幸せだったのに。
「ザナドゥの世界で死んじゃった人は、本当に死んじゃうんだね?」
「ああ」
「そこでシロウの仲間だった人達は、まだ戦ってるんだよね?」
「……ああ」
「シロウは……本当はそこに戻りたいんじゃないの?」
俯いたままの視線をあげると背筋を伸ばし正座した未来の姿がある。未来はそのまま清四郎の目をまっすぐに見つめ、悲しげに言った。
「どうして自分の願いから目を背けようとするの……? 私たちの為? それともその仲間の為? シロウがお父さんの事、昔やってしまった事、後悔してるのすごくわかるよ。わかるけど……だけど、その失敗は本当に取り返しのつかない事なのかな?」
立ち上がった未来は壁にかけられたグローブを手に取った。もう手入れもしていない。二度と手を通さないと決めたからだ。けれどまだ未練があるからここにぶら下がっている。
JJとの連絡だってそうだ。もう出ないと決めた。けれどまだ未練があるから着信を拒否したりしない。電話番号を変えたりしない。
「そんなの……かっこ悪いよ、シロウ」
グローブを手に清四郎の隣に立つ未来。そして膝をつき、グローブを清四郎の胸に押し付け、肩を掴んで言った。
「――戦ってよ、シロウ。もう一度。誰の為とかじゃないよ。自分の為に戦って」
「未来……だけどよ、俺は……俺はもう、お前たちに迷惑をかけるわけには……」
「ザナドゥ事件に関わってると私達に迷惑がかかると思ってるの?」
「かかるだろ。またマスコミがいっぱいくる。あの時みたいに」
「……違うよ。それは違うよシロウ。迷惑なんかじゃないよ。だって私達家族でしょ? 家族だって言ってくれたのはシロウでしょ? いつも苦しくて寂しくて辛い時に、大丈夫だって、“俺達は家族だ”って背中を押してくれたのはシロウだよ? 迷惑なんかじゃない。そんな風に言われたら……悲しいよ……」
グローブを受け取り、困惑しながらもそれを見つめる清四郎。未来は少しだけ身体を離し、シロウの手を取る。優しく握り締め、そして言った。
「本当はね、シロウに無茶してほしくない。危ない事、してほしくないよ。だけど……凄く心配だけど……それでもシロウは、行っちゃう人なんだって知ってるから。シロウは絶対仲間のピンチを見捨てられないって知ってるから。だから、そんなふうに自分を曲げてしまうくらいなら……嫌だけど。心配だけど……行っていいよ。ね、シロウ?」
「未来……」
決断はまだ出来ない。だが未来が告げてくれた言葉が、中途半端に固まりつつあった決意に亀裂を入れようとしていた。うつむく清四郎、そこへ突然チャイムの音が鳴り響いた。
オンボロアパートの明け方近くに何度も繰り返し鳴らされるチャイムに二人は顔を見合わせる。確かにおかしな時間だが、不審者だとしても清四郎がどうこうされるはずもない。未来をコタツに戻すと清四郎は不快なチャイムの音を止める為、玄関口へ急いだ。




