プロローグ(5)
「……にわかには信じがたい話ですね。まさか、“異世界”とは……」
――秋ももうすぐ終わりを迎えようとしていた。
ザナドゥの世界の全てが終わりに向かって収束を開始した頃、現実世界でもまた一つの節目を迎えようとしている。笹坂深雪が眠り続けている病院の中庭で二人の男が向かい合っていた。片方は派手な柄のコートを着た細身の男。もう片方はこの病院の院長でもある、笹坂の父親であった。
男が尋ねてきた時、笹坂は藁にも縋る思いでそれを受け入れた。医学的には原因不明な娘の昏睡状態に対し、父はなす術もなかったのだから当然の事だろう。“娘の身に何が起きたのかを知っている”……そう語りかける不審な電話での呼びかけに応じたのは、ほんの僅かでも解決への糸口を手にしたかったからに他ならない。
男の話は実に荒唐無稽であった。だがどうにも信じないわけにも行かない。この男は娘と自分しか知らないような情報をあまりにも多く知りすぎている。それもそのはず、彼は娘と……その“異世界”で言葉を交わし、メッセンジャーとしての役割を背負ってこの場所に立っているというのだから。
「私自身、突拍子もない話をしているという自覚はあるわ。でもこれは事実……。あなたの娘さんは今もあの異世界で自由を勝ち取る為に戦い続けているわ」
「信じない……というわけにはいかないでしょうね。風変わりなペットの名前に、これまで起きた彼女の半生……笹坂の家の事。特に知らない人物に口外する事は良しとしない子でしたから、それらプライベートな情報を証拠として持ち出す事自体、深雪らしい考え方だと思います」
深くついた溜息は白く空に上っていく。白衣に両手を突っ込んだまま笹坂は目を細めた。
「人の意識を異世界に取り込むゲーム……そんなものがまさか実在するなんて……。忍野さん。あなたもその、ザナドゥというゲームに参加しているのでしたね?」
「ええ。といっても、私は彼女達程強くはないから……正直な話、娘さんのお手伝いをする事くらいしかできないけれど……」
「娘は……その……大丈夫なのでしょうか? 命がけの……戦いなのでしょう?」
「残念だけど、それは私たちにもわからないの。ただ私は彼女の意志を汲んでここに来ただけだから……。たぶん、もうじきこの事実は公になり、日本に……そして世界中に暴露される。“異世界”の存在と、黒須惣介という一人の男が生み出したこの非人道的な実験は決して少なくない数の人間を傷つけた。もう、何もかもを隠し通していられる状況じゃないわ」
「多くの人々は信じないでしょうね。そんな事実は……」
「それならそれでいいのよ。ただ……私はわかっていてほしかっただけだから。あの世界でまだ命がけで戦っている人がいるって事。その人の大切な人たちに……」
さびしげに笑みを浮かべ、それから男は名刺を取り出し笹坂に手渡す。そこには彼の職業と住所と連絡先、そして忍野静という名前が記されていた。
「これからもこまめに連絡を取り合いましょう。私“たち”はあなた達の味方よ」
「……驚きましたね。まさか大手広告代理店の……。しかし、私……達、とは?」
「異世界に取り込まれた“彼ら”を救う為に集った仲間たちよ。“りんくる!”を中心にネットで繋がって、被害者の情報を共有したり“異世界”に対抗する方法を探しているの。大丈夫だなんて無責任な事は言えない。でも……あなたたちも、私たちも、そして深雪さんも決して一人ではないわ。彼女はみんなの思いの中にいる。決していなくなったわけではないから」
名刺を手にきつく目を瞑る笹坂。その肩を叩いて静は病院を後にした。
「どうだ? 何か見つかったか?」
「いえ……それらしい手がかりは何も……」
トリニティ・テックユニオンに警察が踏み込んだのは、匿名の通報が相次いだのがきっかけであった。そのどれもがまるで口裏を合わせたかのようにある一つの事実……“異世界”の存在と“黒須の作ったゲームが人を殺している”というものを示唆していた。
日本各地で存在が発覚した失踪者、その詳細を匿名の通報者達は事細かに物語ってくれた。ザナドゥというゲームを騙った異世界で起こる命懸けのゲーム……それは現在もまだ継続しており、その中でまだ数名のプレイヤーが戦いを繰り広げているという。
勿論、簡単に信じられるような話ではない。だが度重なる失踪事件と不可解な黒須惣介の噂は高柳の“勘”に鋭く訴えかけていた。この事件を解き明かす為には、常識的な考えなど取り払わなければ到底不可能だ、と――。
「まいったねぇ。なんの成果もなしとなりゃあ、逆にトリニティ・テックユニオンのほうが黙ってねぇぞ。こちとらほぼ無理矢理調査のメスを入れてんだからな。むこうが痛くもない腹を探られたと文句を垂れてきたら跳ね返すのが面倒だぜ」
「そもそもこの事件、本当にトリニティ社は関与しているんでしょうか? 調査によれば確かに過去にザナドゥプロジェクトというゲーム製作チームがあったという事は認めているようですが……」
「まあ、トリニティ社は関係ねぇのかもな。となりゃあこれは黒須惣介個人の……いや、個人でどうにかできるような規模の話じゃねぇわな。絶対に居るはずだ……こんなばかげた話を現実に落とし込んだサイコ野郎がな」
警察署でカップ麺にお湯を注ぎながら高柳は頭を掻いた。これまでもごくまれにこういった奇奇怪怪な事件にめぐり合っては来たが、その多くがわけもわからぬままに煙か霞のように消えてしまう。“解決”したわけではない。ただ収まり、ほとぼりが冷めて誰の記憶からも薄れてしまう……そんな結末を知っているからこそ、この事件の難しさもかみ締めていた。
「報告に上がっている被害者が全て嘘でなければ、失踪者……というより、殺害された人数は五十名を超えます。これは近代稀に見る凶悪な大量殺人事件です。“異世界”どうたらというのは妄言に過ぎないと思いますが、人間の脳を外部から機械的に操作し死に至らしめる……そんなシステムを黒須が作ったのだとすれば、これは新たな大量殺戮兵器になりかねません。この男は危険です」
「んなこたわーってるよ。ただなぁ、こりゃどうにも普通に追いかけても解決できねぇにおいがプンプンしやがるんだ。どう動くべきかはじっくり考えねぇと……」
「高柳警部! 大変です、テレビをっ!!」
三分待たずにあけたカップ麺の蓋から上る湯気が高柳の顔にかかるとほぼ同時に扉が開き、一人の若い刑事が駆け込んでくる。高柳は面倒そうに割り箸を片手にテレビのリモコンを取り、その電源ボタンを押し込んだ。
「今日はありがとね、シロウ。久しぶりに一緒に出かけて楽しかった」
「おう。まあなんだ、お前も最近色々がんばってるみたいだしな。たまにはこれくらい……な」
両手をズボンのポケットにねじ込みながら前のめりな姿勢で道を歩く清四郎。その隣を歩いているのは彼とは似つかない清楚な雰囲気の少女だった。二人は同じ孤児院の出身であり、清四郎と彼女……未来は言わば兄妹のような関係にあった。
施設の子供達は誰もが心に傷を抱えていた。清四郎はいつもそんな子供達に対しまっすぐに、誠実に、明るさと笑顔を振りまいてきた。同世代の子供達に馴染めずに悩んでいた未来を遊びに連れ出したのもそんな行動の一環……清四郎本人は、少なくともそう考えていた。
「……ねぇ、シロウ? 最近よく施設に顔出してるみたいだけど……仕事とか大丈夫? ちゃんと休まずにやってる?」
「あ? んなもん当たり前だろ? 親父さんは俺みたいなどうしようもねぇクズを拾って一人前に育ててくれた恩人だ。仕事だけは手を抜くなんてありえねぇよ。まあ、親父さんに言わせりゃ俺なんかまだまだ半人前なんだろうけどよ」
「シロウの事を大切に思ってるからだよ。本当、仲がいいんだから」
口元に手を当てて微笑む未来。だがその表情もすぐに翳ってしまう。
「……何か……悩んでる事があるんじゃない?」
ぴたりと足を止め、ゆっくりと視線を向ける。そんな清四郎に少女は向き合い顔を覗き込む。
「今日のシロウ、なんかちょっとヘン。なんだかずっと何かを我慢してるみたい」
「我慢って……クソはちゃんとしたぞ」
「そういう事じゃなくて……。ねぇシロウ、なんだか最近のシロウ……ずっと元気ないみたい。ここ一ヶ月くらいかな……。なんだか無理して明るく振舞ってるみたい。何か……あった?」
冷や汗を流しながら視線を逸らす清四郎。未来はその視線に先回りして悲しげな目をする。だからこれは逃げ切れないとあきらめ、男はわしわしと髪を乱しながら息を吐いた。
「……はあ~、お前に心配されてるようじゃ俺もどうしようもねぇなあ……」
「シロウ……やっぱり何かあったの?」
「何かっつーか……何っつーか……。あったような、なかったような……」
「らしくないよ。どうしてそんなに煮え切らない言い方なの?」
「言えねぇんだ。つか、お前は信じねぇよ……。お前だけじゃねぇ、誰も信じるわけがねぇ」
「そんなの話してみなきゃわからないよ? ねぇ、ためしに話してみてよ」
「話せねぇ」
「…………どうして? 私じゃ……頼りないから?」
少女はうつむき、それから意を決したように顔を上げる。そうして清四郎に近づいて彼のシャツをそっとつまみながら言う。
「シロウ、いつもみんなの為にがんばって、誰かの為に傷ついて……そういう人なの、私知ってるよ。だから私もシロウの為に何かをしたいの。少しでもいい……大切な人の力になりたい。そういう風に思うのって、おかしい事かな?」
「いや……そのぉ……だな……」
「私たちは家族だ……血のつながりはなくてもずっと一緒だ。困った時、苦しい時悲しい時……いつでも俺を頼れって言ってくれたよね? でも私、それは家族とは違うと思う。ただ助けられるだけの一方通行な関係なんて……そんなの本当の家族じゃないよ」
「家族……。家族……か……」
ばつの悪い表情で歩き出す清四郎を未来が追いかける。夕暮れ時、寂れたゲームセンターの前からモールを歩きつつ、清四郎は自らの過去に思いを馳せていた。こんな時に思い返すのは、いつだって“本当の家族”の事だ。
「自分の家族がバラバラになっちまった時……誓ったんだ。俺はもう、絶対に過ちを繰り返さないと。大切な物を守るために強くなりたくて、力が欲しくて自分を鍛えた。けど大事なもんはいつもこの手じゃ守れない……。俺は今でも、ガキの頃と何も変わっちゃいねぇ。それどころか……」
「……どころか?」
「俺は……親父と同じ過ちを繰り返しちまったかもしれねぇ」
再び足が止まった時、未来の瞳にはただ驚きだけがあった。ゆっくりと振り返った清四郎が力なく浮かべた笑みも、少女にとっては間違いなく衝撃的で。
「――俺、人を殺しちまった。親父と同じ……誰かを傷つけて悲しませる人間になっちまったんだ」
冷たい風が吹き抜けて二人の足を凍てつかせる。いつもその重苦しい罪の意識は青年の心に深く鋭く絡みつき、幸福な未来から遠ざけようと軋むような音を立て続けていた。




