大切な君へ(3)
――仮に、全てが最早取り返しのつかない事だったとする。
笹坂美咲がもう死んでいて、この世界のどこにも存在していないのだとする。
織原礼司の戦いは、結局の所自らの罪を償う為の戦いであった。いつかはその罪を挽回出来ると信じていたからこそ、どこまでもひたむきに戦う事が出来た。
いつかどこかで手に入るであろうその希望を手に、レイジは仲間たちを一つに纏めてきた。これまでの彼の行動の全て、根本にはこの希望があった。もしも希望がなかったならば、こんな風に戦い続ける事は出来なかっただろうし、仲間との絆も結べなかっただろう。
――仮に、全てが最早取り返しのつかない事だったとする。
ならばフェーズ2で殺したクラガノの事はどうなる? 彼の命が間違いなく絶たれてしまったというのなら、それは人を殺めてしまったという事に他ならないではないか。
――仮に、全てが最早取り返しのつかない事だったとする。
ならばこれまでの戦いで散っていったNPCの命はどうなる? 彼らがもしただのデジタル上に存在する、プログラム仕掛けの人形ではなく。自分たちと同じ重さを持った血の通った命だったとしたら。自分たちの戦いにつき合わせて死んで行った彼らの命はどうなる?
――仮に、全てが最早取り返しのつかない事だったとして。
一体それらの、無知であるが故に犯した罪の数々を――どのようにして償えるというのか。
薄々気付いていたのだ。この世界はただのゲームではないと。だからこんな突拍子も無いような、誰が聞いても笑い話にしかならないようなセリフに心を惑わされてしまう。
もしこの世界で散った命が一つ残らずかけがえの無いものだったとしたら、その悲しみはいかほどだろうか。その絶望はいかほどだろうか。何もかもがひっくりかえってしまう。ゲームだから……その一言で無理矢理成り立たせていた全ての事が崩れ去ってしまう。最早勇気も、嘆きも、絶望すらも意味をなさない。圧倒的な虚無……それがレイジの胸中に渦巻く感情の正体であった。
最早思考はストップしていた。何か考える余裕はなかった。考え始めたら何もかも終わってしまう気がしたからだ。終らせる事が怖くて、自らの命すら投げ出そうとした緩やかな自殺の中、それでも彼を守ろうとする意志があった。
「――立って、レイジ君! お願いだからっ、しっかりしてっ!!」
膝を着いたレイジの前、ハイネの刃を弾いた者が居た。黒いマントを靡かせマトイはハイネを睨み付ける。声をかけても立ち上がらないレイジを背に、彼女はここで命を投げ打っても構わないと覚悟を決めた。
「なんだお前? バカか?」
「バカ……かもね。うん……多分、バカなんだと思う」
ハイネの言った事が嘘か本当かわからない。もしもそれが本当だったとしたら、この状況が何を意味しているのか……それも理解している。理解した上で。死んでもいいと決めたのだ。
「俺は嘘は吐いてねぇぞ。つまりお前みたいなザコでも俺が攻撃したら死ぬ。で、お前の人生は本当の意味でゲームオーバーを迎える。それ分かってそこに割り込んでんのか?」
「……わかってるよ。わかった上でここに居る。自分の命がここで終わってしまうかもしれないと、理解した上で立っている。だから私は――それでも自分の気持ちに従うと決めた」
鎌を振り下ろすハイネ。その一撃はレイジやシロウでさえ受け止めるのに苦労する強烈な一撃だ。しかしマトイはマントを躍らせるようにして受けると、あっさりと攻撃を逸らしてしまう。外された攻撃力はあらぬ方向に炸裂し大地を吹き飛ばす。驚くハイネを横目にマトイはレイジを抱え、大きく背後へと跳んだ。
「レイジ君しっかりして! ログアウトまでもう少しだから……逃げれば多分、間に合うと思う。だから……走って逃げて! ここは私がなんとかするから!」
「なんとか……なるわきゃああねぇだろうがよぉおおお!! カスがぁああああッ!!」
槍のように鋭く形状を変化させた無数の闇がマトイを襲う。それに対しマトイは身体に纏っていたマントを剥ぎ取ると形状を変化させていく。自らの腕に巻きつけるようにして巨大な爪を作ると、それを振るって無数の槍を一つ残らず弾き飛ばした。続けて帽子を脱いで両足に纏わせると、黒いブーツの形状を構築して行く。
「……なんだ? 精霊器の形が変わった?」
「私の精霊器は影。この力は私を光から遠ざける為の物。私はずっと怖かったんだ。人生のスポットライトを自分に当てられるのが。だからずっと逃げてきた。誰にも見つけてほしくなかった。ずっと闇の中にいたかった……だけど、今は違う。今は――そんな風には思わない!」
精霊器は心の形を反映させる。所有者の意志が、魂が、“願い”が形作る物。だからこそ能力は不変なようでいて融通が利く。マトイの纏う“影”は彼女を守る為にある。自分に向けられた視線を逸らし、自らに害する存在を逸らす為にある。“身を守る力”それがマントであろうがブーツであろうが、特に性能に違いは無い。あるとすれば――能力の志向性の違いだ。
ハイネが放った赤い三日月が迫る。マトイはレイジを担いだまま、黒いブーツで大地を蹴った。本来ならば力は均等に分散され身体を弾く。だがその力の方向性をブーツは制御する。
小さな脚力をブーツの周辺で何度も加速させ、加速させ、収束させ、大地を穿つ――。攻撃したのではない。ただ足元に衝撃を“逸らした”だけ。能力のルールを破ったわけでないのなら、マトイがそれを行えないはずも無い。一息に急加速し、大地に爪を引っ掛けて停止するのもお手の物。出来ないはずはない。最初からそういう能力だった。
「――そう、思い込め……!」
この力は祈りから来るものだ。ならば祈れ。疑わずに祈れ。ただ己の中にある力を信じればいい。それが何よりも力になる。“否定”を“肯定”に向かって逸らせ。ベクトルを支配しろ。何もかも力を振り絞り、無茶を成さなければ――この敵には勝てないのだから。
「なんだ今の動き……マトイにあんな機動力が……!?」
「お願いカーミラ! 助けたい人が居るの……! 大好きな人がいるの! だから……だからっ! 場違いでもいい! 主人公になれなくてもいい! 誰かを救う力を……私に!」
突き出した影を纏い巨大化した右腕を左腕で押さえながら叫ぶ。掌の中に何かが収束していくのがハイネにもイオにも明らかにわかった。最初は何だかわからなかったそれも、自分たちの周囲の大気が蠢いているのを見れば理解する。
『風を……集めているのか……!?』
掌で掴むように、中央に向かって大気を収束させる。逸らして逸らして逸らして、渦を成す。別にやってみれば難しい事ではない。そうして収束させた大気の塊をどの方向に逸らすのかだって自由自在だ。だから腕を振るい、思い切り真正面に全てを放り投げる。
大地を抉りながら暴風が意志を持って放たれた。嵐は本来在り得ない形を成してハイネに突き進む。それを受け止めるのは不可能だと判断し、ハイネは大きく横に向かって回避する。
「……攻撃能力はないんじゃなかったのかよ」
『……ハイネ、いい加減にしろ! 秘密をバラしやがって! どう責任取るつもりだ!?』
「だったら二人ともぶっ殺せばいいんだろ? 誰にも情報が漏れる前によ……!」
再び三日月を放つハイネ。マトイはこれを正面から右腕で受け止めた。掌の中で破裂しようと暴れまわる衝撃を逸らし、逸らし、逸らして形を固定して行く。三日月はぐにゃりと湾曲し、一瞬で剣の形状を成した。びっしょりと汗をかき、肩で呼吸をしながらマトイはその剣を手に前に踏み出す。
「俺の攻撃を受け止めて制御した……!?」
「うわああああああっ!」
真正面からハイネと刃を打ち合うマトイ。ハイネの攻撃にマトイではついていくだけでやっとだが、それでもなんとか渡り合っている。その事実にハイネは驚くと同時に僅かな感動を覚えていた。決して口には出さなかった。だが今必死で戦うマトイが以前とはまるで別人なのは明らかで。自分の力で過去を乗り越え強くなろうとしている今のマトイに何も感じないという事は出来なかったのだ。
「雑魚がきばってんじゃねぇよ! 見ろ! 俺が何もしなくても既にボロボロじゃねえか!」
この状態での指向性操作は莫大な魔力を消費し続ける。マトイは元々魔力総量が低く、戦闘向きではなかったのだ。幾ら渡り合えると言っても一時的な物。こうしてただ立っているだけでマトイの体力も精神力も加速度的に消耗して行く。
「今を凌げれば……それで、いい! この身体がどうなっても……構うもんか!」
握り締めていた三日月を放出エネルギーに変えてハイネに叩き付ける。その光に目がくらんだ一瞬を狙い、マトイは腕をマントの形状に戻してレイジを抱き抱えた。相手の意識を逸らし、目で見ても耳で聞いてもその存在を隠蔽する能力。マトイはレイジを抱えてこの場から逃れるように走り出していたが、ハイネにその姿を認識する事は出来なかった。
「消えやがったか……面倒くせぇな!」
水平に、腰為に鎌を構えるハイネ。全ての闇と魔力を刀身に込め、それを周囲に向かって振り放った。自らの周囲、全方向をくまなく薙ぎ払う斬撃波。慌てて飛翔したイオだが、消えていたマトイに攻撃を避ける事はかなわなかった。何とかマントで弾くが、吹き飛ばされると同時に迷彩を掻き消されてしまう。
「テメェなんかが俺様をどうにか出来ると思ってんじゃねえぞ、カスッ!!」
「確かに私はカスだけど……! そのままでいいだなんて、今はもう思わない! 私はっ!」
再び腕に影を纏い、ハイネの一撃を弾き返す。それでもハイネは交代せず連続で容赦なく攻撃を繰り出すが、マトイはなんとかその猛攻を凌いでいた。
「私は……ずっと変わりたかった! そんな私をレイジ君が変えてくれたから……だからもう、私はただのカスじゃない! 私は……私だからっ!」
「意味のわかんねぇ事ほざいてんじゃねえぇよッ!」
鎌を腕でガードした所へ蹴りを放つハイネ。靴底がマトイの鳩尾に減り込み、口からは血が吹き出した。ただの蹴りでもバウンサーの一撃は重い。元々ハイネは基礎戦闘力の高いプレイヤーだったのだ。バウンサー化した今、彼はただの蹴りでも軽く岩を砕ける。
マトイの身体がくの字に折れ曲がると同時、ハイネは胸倉を掴み、手繰り寄せると同時に膝を顔面に向けて叩き付けた。そのまま思い切り投げつけるとマトイの身体は大地を跳ね、血を撒き散らしながら無様に地べたを走った。
胃液と血の混じった液体をぶちまけながら激痛に悶えるマトイ。ハイネは鎌を引き摺りながらゆっくりと近づいてくる。
「所詮女だよなぁマトイ。キック一発でゲロ吐いてたらキリねぇぞ? 鼻も歯も折れてみっともねぇなあ。そんな無様晒してまで守る価値あんのか? そいつ」
「ある、よ……。私の人生……変えてくれた……人だから……」
平々凡々な人生だった。別にそれが嫌だったわけじゃない。今でも凡庸で、特別な事なんか起こらない人生。それでも想い一つで、気持ち一つで世界は変えられる。
誰かに愛想笑いをしてただ時間が過ぎるのを待っていた。この世界の誰にも必要とされなくて、緩やかに死んでいくだけの世界。なんの光も見えない人生。退屈で、でもその責任を他人に求めていた。誰かの所為にして、誰かの決定に身を委ねて、それが楽に生きる事だと身体にも心にも……魂にも染み付いていた。
「一生懸命やっても、ダメかもしれない……。全部……無駄かもしれない。何も取り戻せないのかもしれない。それでも私、自分で選んだから……。自分でこの世界で戦う事を選んだから……! 私はもう、誰かに決められた人生を生きてない……!」
口元を拭い、震える足で立ち上がる。背後に倒れたレイジは相変わらずピクリとも動かない。それでも守る。守ると決めたのは他の誰でもない自分。その決断を下した事を何よりも誇らしく思う。自分の意志で決めた事を守ろうとしている事を素晴らしく思う。逃げ出す事は楽だけれど。何もかも人の所為にしていれば楽だけれど。きっとそれだけじゃこの暖かい気持ちを味わう事は出来ないだろう。
「ここにいる私は私自身が決めたんだ。私は私の意思で……レイジ君を好きになった。だから一生懸命やるよ。ゲームとか現実とかそんなの関係ない。自分が決めた事に命を賭ける。そうやって得た物じゃなきゃ……自分が必死で掴み取った物じゃなきゃ……意味なんかない」
無様に血を流しながらハイネを指差し笑う。そうして少女は告げた。
「――私は強い。少なくとも、誰かの力に縋って……自分の弱さから逃げているあなたよりは」
無表情に目を瞑り、頭を掻く。それからハイネは無造作に攻撃を繰り出した。マトイは腕でそれを振り払うが、何か言いようの無い違和感が身体に走る。ハイネはそれを指差して諭した。
「……“デスカウンター”。お前の頭の上に乗ってるやつだ」
慌てて視線を上に向けると、そこにはつい先ほどまでは存在しなかった筈の数字が浮かび上がっていた。赤黒い光で数字の“5”が揺らめいている。意味不明な攻撃から逃れようとしてみるが、何をしたところで数字が消える事はなかった。
「俺の精霊が元々持っていた能力だ。攻撃するごとに相手のカウンターを削り……ゼロになると同時に俺の攻撃は“一撃必殺”になる。相手がなんであろうと一刀両断出来る威力だ。恐らくあの魔王でさえな。今お前の上にあるカウントは5……つまり、あと五回俺の攻撃を受けたら、お前は死ぬってわけだ」
目を見開き慌てるマトイをすかさず鎌で打つ。攻撃は確かに逸らした。だがカウンターは“4”に減っている。
「逸らしても無駄だ。接触がある以上はヒットと判定される。残り四回……死からは逃れられない」
更に一撃。何とか攻撃は防げるが、とても避けられるようなものではない。肩を上下させながら震える腕をじっと見つめるマトイ。深呼吸を一つ、まるで覚悟を固めるように顔を上げた。
「残り三回……それでお前は死ぬ。どうだ? レイジを俺に引き渡せばお前だけは見逃してやるよ。レイジを抱えて逃げるのは無理でも、一人だったら消えればなんとかなるだろ?」
「……嫌だよ」
衝撃が走った。攻撃を確かに逸らしたはずなのに、逸らしきれなかった力でマトイの身体は吹き飛んだ。魔力が枯渇しはじめ、能力を正常にコントロールできなくなりつつあるのだ。それでもまた立ち上がり、ハイネに飛び掛る。それもあっさり吹き飛ばされ、頭の上のカウントは残り“1”になった。
「見えるか? 俺の鎌に尋常じゃねぇ魔力が収束してるのが。カウントをゼロにする一撃は100%クリティカルヒットになる。お前の逸らす能力もぶっちぎってお前の身体を一刀両断に出来る」
ゆっくりと身体を動かし鎌を繰り出す姿勢を取るハイネ。その一撃は彼の渾身。恐らく偽りではなく、マトイの力ではそれを受け止める事は叶わないだろう。それはわかっている。それでもマトイはレイジの前から退こうとはしなかった。
「死ぬぞ?」
マトイは何も言葉を返さず、儚く笑顔を作った。ハイネは眉を顰め、袈裟に刃を振り下ろす。その一撃は空を裂き、大地を穿つ文字通り必殺の一撃。防ごうとしたマトイの腕を精霊ごと両断し、少女の身体を斜めに引き裂くのであった。
斬撃はマトイの身体を貫通し、彼女の遥か後方にあった結晶樹林さえも粉々に吹き飛ばした。舞い上げられた結晶樹の破片が光る塵となって降り注ぐ中、マトイは血を流しながら倒れる。見れば右腕は既に無く、右肩から腹部までごっそりと刃で焼ききられていた。
「レイ……ジ……君……」
最早痛みはなかった。この仮初の身体は直ぐに消えてしまうだろう。それでもマトイは片方しかない腕で大地を這い、レイジへと近づいて行く。そうして血塗れの手でレイジの左手を掴み、強く掴んで引き寄せた。
「マトイ……?」
虚ろな目で大地に膝を着いていたレイジはそこで初めてマトイを目にした。最早助けようのないその傷を見ても感情は動かなかったが、マトイはそれでも少年の手を握りしめた。血でぬめるその手を掴み、精一杯の虚勢で笑ってみせる。
「ごめん、ね……。私……やっぱり……ミサキさんには……なれなかった、みたい……」
無意識にマトイの手を握り返し、その瞬間レイジの瞳に光が戻った。目の前で何が起きているのかを把握し、慌ててマトイに縋りつく。しかし時間は無慈悲に彼女に死を告げ、マトイの身体は徐々に光に変わろうとしていた。それが何を意味するのか、レイジは気付いて絶叫する。
「マトイ……いやだ、消えないで! もうこれ以上……だめだ……やめてよっ!」
首を横に振り、それから険しい表情を見せて。
「私は……君の所為で死んだんじゃない、よ。私は、自分で選んだんだ……。その選択を……君なんかに横取りされてたまるか。だからレイジ君……君は……君も、選んで? 自分が、どうしたいのか……。何をするべきなのか……。こんな時に、こんな事言って……ごめん、ね? 私を、嫌ってもいいよ。だから……ね? 自分の、人生を……」
――人任せにしないで。
そう言って、少し微笑んで、マトイは目を閉じた。それきりもう彼女は動かなかった。力が抜け落ちたマトイの手を放したくなくて慌てて引き寄せるレイジにもわかった。もう体温は冷え切って、身体の中身は溶け切って。あとは光になって消えて行くだけなのだと。
精霊器状態から精霊に戻ったカーミラが蝙蝠の姿でマトイの傍に落ちていた。そこへどこからかひょっこりと現れたミミスケが嬉しそうに跳ね近づいて行く。あんぐりと口を開いてカーミラを食べようとするのを目撃し、レイジは思わず絶叫した。
「やめろっ! マトイが死んじゃうじゃないか! やめろ……まだ彼女は死んでない!」
「いや、死んでっぞ?」
顔を上げるとそこには苦笑を浮かべるハイネの姿があった。目を見開いたまま、驚きの表情のまま、視線を落としてマトイの死に顔を見つめる。うっすらと目と口をひらいたまま、涙と血を伝わせている。
「嘘だ……」
震える声で呟く。脳裏にはマトイの姿が、言葉が、そして温もりが蘇る。
思えば彼女はいつでも自分の為を思ってくれていた。出会い方は確かにお世辞にも良くはなかった。最悪の部類と言ってもいい。それでも今は大切な仲間で、そしてかけがえの無い人だった。その事に今更気付くなんて、本当にどうかしている――。
「嘘だ……っ」
自分の手を取って、大丈夫だよって笑ってくれたのに。
数日前まで一緒に居て、あんなに暖かかったのに。
まだろくにお礼も伝えられていないのに。ただ呆然とここで彼女の死を見届ける事しか出来ない。あの日あの時、ミサキの死を見ていることしか出来なかったのと何もかもが同じだ。一切進歩なんかしていない。
「無駄……だったんだ……」
これまで必死でやってきたつもりで、結局何も変わっちゃいなかった。
「無駄だったんだ……!」
肝心な時に見ているだけ。肝心な時に動けません。そんなんでまた大事な人を失って、後悔して泣いて。何度も同じ事繰り返すなんて、本当にバカみたい。
「無駄――だったんだっ!!」
まるで幼い子供のように泣きじゃくり、嗚咽を零しながら叫んだ。消えて行くマトイの身体を抱き締めながら、ただ只管に祈った。この現実を否定したかった。何一つ取り戻せないというのなら、せめて自分も共に消えてしまいたかった。激しい自己否定は祈りを成し、その願望は確かに世界へ響き渡った。“響き渡って、しまった”。
「ハッ、ざまぁねぇなあ……。女殺されて泣くだけかよ………………あ?」
きょとんと目を丸くするハイネ。見ればミミスケはとっくにカーミラを貪り食い尽くした後で、今は転がっているマトイの腕にありついているところであった。丸く愛らしい姿をした精霊が無造作に人間の死体を食い荒らしている――それがハイネには意外だったのだ。やがてその精霊はぴょこぴょこ跳ねた後、一瞬で大口を開き、地面の上に膝を着いていた自らの主と、主が抱き抱えていたマトイを纏めて飲み込んでしまった。すべては一瞬の出来事。ハイネもイオも止める事は愚か反応する事も出来なかった。だが何か異様な気配だけを感じとり、ハイネは直感に従って後退する。
「……!? なん……だ……!?」
「うギぅユぐぅギるゆ……ユぎあぐルルル……」
丸っこく愛らしかったウサギの身体はぐねぐねと蠢いていた。まるで身体の内側で何かが暴れまわっているかのようだ。ごくりと生唾を飲み込むハイネ、次の瞬間精霊は大口を開き、耳を劈くような音量で雄叫びを上げた。叫び――奇声、と呼ぶ方が正しいだろうか。本能的に人の恐怖を煽る、狂気染みた叫び声だ。背筋がゾクゾクするのはただわけがわからないからというだけではない。精霊を伝い、“世界”が直接語りかけてくる。自分が対峙しているモノがなんなのか――どれほど危険で、おぞましい存在なのかを。
「なん……だ……こいつ……!?」
ミミスケと呼ばれた精霊は形状を変えていた。二本の足で立ち、二本の腕を持つ人型。それがぐねぐねと蠢きながら近づいてくるのだ。移動しながらも次々に形状を変化させ、顔と呼ぶべき部位が獣の牙のような形を作り、無数の赤い眼球が浮かび上がる。それらはすべてハイネを凝視し、発生した顎と呼ぶべき器官から細長い舌を伸ばし、ぼたぼたと黒い液体を零しながら身体を揺らしている。
『……精霊……精霊器……魔物……? どれだ……どれでもないぞ、こいつ……!? ハイネ、わけがわからない! こんなの聞いてない! 一度クロスに報告すべきだ!』
「うるせぇ! 俺がこんな奴に負けるわけねェだろ!」
鎌に魔力を込めて襲い掛かるハイネ。その一撃は確かに怪物の首を捕らえていたが、ぬるりとした感触に刃は滑って傷を与える事は叶わなかった。代わりに怪物が軽く腕を振るうと、ハイネの体ははるか後方にまで吹っ飛んで行く。
吹っ飛ばされたハイネも、上空から見ていたイオもわけがわからなかった。ただハイネだけは痛みで理解した。突き飛ばされたような気がしたが、あの一撃で自分の腹に穴が開いており、既に自分が死に瀕しているという事実を――。
「がっ、あ……あぁああああっ!? 何ィイイイイイイイッ!?」
『るるるルル……ル……オォオオオオオオオッ!!』
人とも獣とも取れぬ咆哮を上げ、怪物は突進してくる。ハイネは自らの傷を闇で何とか塞ぎ、斬撃を放出して迎撃した。しかしその一撃も全く通用していない。猛然と迫る得体の知れない怪物に対し、ハイネの心の中に既に失った筈の恐怖が蘇ってくる。慌てて逃げ出そうとするが、その身体に一瞬で怪物が飛びついてくる。そうして怪物は真っ先にハイネの右腕を掴み上げるとそれをあっさりと捻るようにして引きちぎった。
「があああああああああ!? あぁあああ!? なんなんだよぉおおおおおおおっ!?」
奪い取った右腕から滴る血を啜るようにして飲み干すと、ばりばりと音を立てて怪物はハイネの腕を食べ始めた。自分の腕を目の前で食い散らかされるという常軌を逸した状況にハイネの心臓は高鳴り、恐怖は絶叫として吐き出された。バウンサーとしての力を全てを振り絞り、怪物を跳ね飛ばそうと蹴り上げる。が、微動だにしない。ならばと大地から闇の槍を出現させ怪物を串刺しにしようとするが、槍は片っ端から拉げるようにしてあらぬ方向を向いてしまう。それどころか捻じ曲げられた槍の切っ先が自分に刺さってしまう始末であった。
「ハアッ、ハアッ、ハアッ! なんだよこいつ……イオ! イオ!! 助けてくれ!!」
『言われなくてもやってる!』
イオは上空で胸部からガトリング砲を出現させ、怪物の背中に向かって掃射していた。しかし弾丸はすべて弾き飛ばされてしまう。その感覚にイオは覚えがあった。
「ちょっとまて……この能力って、さっきのマトイって女の……!?」
怪物はハイネから退くと、雄叫びを上げて空を見上げた。すると全身から無数の触手が空へ向かって伸びて行く。イオは歯軋りしつつ最大加速でこれから逃れようとするが、どこまで逃げても触手はしつこく付き纏い、やがて足を捉えられてしまう。そうなれば引っ張り寄せられるのは自明の理で、引き寄せたイオの精霊器……ロボットの足を怪物は噛み付いて引きちぎった。着地と同時に噛みつかれたイオはデタラメな姿勢で墜落し、それだけで失神しつつあった。そこへ怪物は触手を通じて強烈な電撃を流し込んでいく。
「う……が、いやあああああっ!? やめ……が……あああああっ!?」
装甲をバリバリと音を立てて咀嚼し飲み込むとゆっくり振り返る異形。その視線の先、墜落したイオはロボットの装甲の中で完全に気を失っていた。白目を剥いて、びくびくと痙攣するその身体を手繰り寄せると、怪物はロボットの頭を鷲づかみにし、みしみしと力を込めて砕いて行く。
「あ、あ……あああっ!? いやあっ、いたい……痛い痛い痛い痛い痛い! やめてやめてやめて……お願いやめてぇ……いたいの、精霊器と痛覚がリンクしてるから……やめて……やめ……やめてぇええええええええっ!」
激痛に喘ぎながら意識を取り戻し、何とか逃れようともがくイオ。鼻血と共に涙を流しながら、恐怖に駆られるままに精霊器を動かす。右腕からビームブレートを出現させ怪物に叩き込むが、ビーム自体があらぬ方向に曲がっている――否。“逸らされている”。
「なんで……なんで効かないの!? やだ……やだぁああ! 痛いのやだぁあああっ!」
「お……おぉおおおおおおおっ!」
立ち上がり片腕で襲い掛かるハイネ。その攻撃を振り返りもせず怪物は触手で薙ぎ払う。すかさず別の触手でハイネの身体を串刺しにし、串刺しにし、何本も何本も荊で串刺しにし、中空にぶら提げてからゆっくりと振り返った。
「ハアッ、ハアッ……! 死ぬ……!? 殺される……!? 俺が……!? 強くなったのに……!? 折角……ハアッ! 強くなったのに……死ぬ……!?」
歯はかみ合わず、カタカタとマヌケな音を立てている。死ぬ。死ぬ。殺される。自らの命がここで潰えてしまう、その確実なイメージが恐怖としてハイネの全身を支配していた。最早身体を満足に動かす事すら叶わない。自分で言ったばかりではないか。この世界での死は現実の死と同義だと。その言葉の意味を――彼は自らの痛みと絶望で思い知る事になった。
「し、死にたくねぇ……死にたく……死にたくねぇよぉ……っ」
きつく目を瞑り泣きながら祈った。死にたくない。誰か助けて。死にたくない。誰か助けて。繰り返し繰り返し同じ言葉をバカみたいに祈り続けた。目の前で怪物が口を開いているのが分かった。あの大口なら首から上を丸ごと食い千切られるだろう。想像するだけで恐ろしく気が触れそうだった。じたばたと両足を動かし、片方しかなくなった腕を動かし、最早声なのかうめいているのかさえ分からない音を口から出しながら、只管に己の生を祈り願った。
『死ヌノハ恐ロシイカ……?』
生臭く、暖かい吐息が顔にかかるのを感じた。そこでゆっくり目を開き、ハイネは後悔した。
怪物の口の中から、人間の腕と思しきものが無数に伸び、自分の顔に指を這わせている。そんな異常な事実に気付いてしまった。その瞬間ハイネは白目を剥き、小さく笑みを浮かべたまま気を失ってしまった。
『我ヲ……恐レヨ……』
ぐるりと首を回転させ、今度はイオへ目を向ける。イオは穴という穴から水をたらしながら、半開きになった口でひゅうひゅうと息を漏らしながら、瞳だけは見開いて獣を見ていた。
『我ヲ……恐レヨォオオオオオオオオオオオッ!!』
――それがイオの記憶している怪物の最後の言葉だった。
完全に死を覚悟して目を瞑った後、彼女の目の前に怪物の姿はなかった。
暫くの間放心状態を続けた後、恐る恐る時計に目をやり、あの怪物がログアウト時間の制限を食らってこの世界から弾き出されたのだと知った。




