さよならのかわりに(2)
――今でも時々思い返すのは、彼が最後に見せた表情だ。
私は彼を恨む。憎んでさえいる。何故彼は、私から記憶を奪わなかったのか、と。
彼は、記憶をそのままにしても大丈夫そうな者はそのままにした、と言った。では、私は大丈夫な分類なのか、という話だ。
冗談じゃない。全くもって大丈夫ではなかったのだから。
彼がザナドゥの門を閉じてからというもの、私はずっと部屋に閉じこもって泣いていた。結局私は彼を救えなかったし、彼にとっては切り捨てるべき存在の一つに過ぎなかったのだ。
彼への感情は一言では表せない。淡い恋心であったような気もするし、家族に向けるようなものであったような気もする。
どちらにせよ、あれだけの悲惨な時間を共に乗り越えたのだ。戦友……というのが一番近いのかもしれない。
なんにせよ、私にとって彼はとても大切な存在だった。そんな彼を失ってから、三年の月日が流れた。
あの日、東京の上空に現れた謎の怪物の正体が明かされる事はなかった。
怪奇現象は怪奇現象のまま、日本政府は沈黙を守り、情報規制が秘密裏に行われた。それ以前に、ザナドゥで死を経験した勇者達は記憶を奪われていたのだが。
ある意味ににおいてレイジさんの決断は正しかった。あの世界で一度殺された人々は心に深い傷を追っていた。そんな人達がどのような行動を取ったのかは、私も記憶している。
憎しみの連鎖を断ち切る為に、その想いを忘れる為に、記憶を消すという処置は必要だったのかもしれない。彼はそこまできっと考えていたのだ。
人々の心から闇を、痛みを、憎しみを取り払う優しい嘘。世界はまるで全ての忘却を望むように、ゆっくりとあの事件の事を忘れつつあった。
ザナドゥ事件がその後お茶の間を騒がせたのは数ヶ月の間で、人々が話題に飽きた頃には別の事件が新聞の一面を飾った。
無慈悲に流れていく時の中、その事に憤りを抱いた時期もあった。あれだけの事件を人は簡単に忘れてしまう。
現実の世界では、交通事故等を中心に人々の混乱で少なくない人数の死傷者が出た。あれは紛れも無く人の生命がかかった事件だったのだ。
それなのに……誰もが記憶から追いやってしまう。それがあの世界の出来事を、そして織原礼司という少年の存在を否定しているようで、私は悲しかった。
思い出にすがって枕を濡らす日々が続いた。けれど私はそんな人々の例外に漏れず、徐々に気持ちを落ち着けつつあった。
三年が経った今でも、ふと空を見上げる時がある。だけどもう涙は流れない。胸を締め付けるような寂しさは消えない。けれどいつかは、私もそこから解き放たれるだろう。
「深雪ちゃんもいよいよ大学生ですか~。月日が経つのは早いもんですなあ」
そんな事を言う姉を横目に私は河川敷に並んだ桜に目を向ける。色鮮やかな桃色の花びらは、もう一ヶ月も経てば全て散ってしまうだろう。
三月末日。私は故郷である京都から上京し、姉の住むアパートの近くに住む事になった。何故かと言うと、姉が通ったのと同じ大学に通うことになったからだ。
私はこの春から晴れて大学生ということになる。事件後不登校になったりした高校生活だが、頭の出来はそこそこだったので大学受験はさほど苦労しなかった。
姉はと言えば、例の事件で長時間失踪した為、一年留年し現在大学四年生。ザナドゥ事件の関係者は政府から色々と秘密裏に保障があったので、金銭的にはむしろ得をした。
事件後もしばらくは友人などに詰め寄られたそうだが、マスコミなどが殺到するような事はなかった。
「姉さん、昼間からお酒ですか?」
「そうです、お花見です。深雪ちゃんがこっちにきて、近くで暮らすようになるなんて思いもしなかったから、今日はゴキゲンです」
缶ビールが幾つか放り込まれたビニール袋を片手に姉は芝生に腰を下ろし笑った。
私はまだ未成年なのでお酒には付き合えないけれど、横に座って桜を見る事は出来る。
「深雪ちゃんはよく出来た子だよね。私があんなに苦労した受験をあ~っさりクリアしちゃうし……」
「姉さんと頭の出来を一緒にされるのは不本意ですね……」
「いいですよ~だ。どうせ私は記憶喪失になっちゃうようなあほの子なんだから」
いじけた様子でビールを呷る姉に苦笑を浮かべる。
姉、笹坂美咲は、異世界の事を何も覚えていなかった。
ある日突然目覚め、ザナドゥにまつわる一切の記憶を失っていた彼女は、その空白の時間を飛び越えた自分に随分驚いていたようだった。
しかし持ち前の明るさと前向きさから彼女は直ぐに自分の身に起きた不思議な事件から立ち直り、今では元通りの生活に復帰している。
「あれさえなければ留年する事もなかったのになあ……私が何をしたっていうんですかねー」
「今は元気に過ごしているんだから、いいじゃないですか」
「友達がみんな先に卒業しちゃうのが寂しいんだよー! その分深雪ちゃんに執拗に会いに行くからね! 毎日一緒だからね!」
「私も独自の友達づくりをしたいのですが……」
すると姉は驚いた様子で、少しだけ笑って。
「深雪ちゃん、なんだか変わったよね。あの事件の後は塞ぎこんでたって聞いたけど、ずっと明るくなった」
「そう……かもしれませんね」
「昔は友達なんていらなーいって子だったのに。お姉さんは嬉しいなあ。深雪ちゃんが元気になってくれて」
ビール臭い姉に抱き寄せられながら、私は思い返していた。
もう姉の中にはいないあの人達の事。あの日の事。私を変えてくれた仲間達、大切な友達の事を……。
「よーし、今日はお姉ちゃん何でも好きなもの作ってあげるからねー! 買い物して帰ろうー!」
そんな姉に引っ張られて近所のスーパーで買い物をして、両手に二人では絶対に食べきれない量の食材をぶら下げて部屋に戻る。
引っ越したばかりのアパートの前に、一大の軽自動車が停まっていた。ボンネットにより掛かるようにして腕を組んでいたその背中には見覚えがあった。
「ジュリア?」
「……深雪! 久しぶりね!」
笑顔を浮かべ親しげに歩み寄るのはジュリア・ジョイス。あの頃はJJと呼ばれていた友人だった。
ジュリアは微笑みながら私に近づくとおもむろに抱きしめ頬に軽くキスをした。小さくて可愛い軽自動車も派手な服装も含め、いかにもジュリアらしい。
「あれ、ジュリアちゃん? もしかして深雪ちゃんに会いにきたの?」
「ハーイ、美咲! 深雪がこっちに引っ越してきたのは聞いてたんだけど、あんまり暇がなくって。今日時間が開いたから顔を見ようかと思ってね」
姉はジュリアの事を覚えていない。姉の中のジュリアの記憶は、塞ぎこんでいた私を訪ねてやってきた二人が京都で鉢合わせした時のものだ。
美咲にとってジュリアは妹の友達であって、自分にとって親しい存在ではない。それでもこうして仲良く挨拶を交わす程度ではあるようだが。
「ジュリアちゃんも今日はご飯食べてきなよ! いっぱい買い込みすぎてちょっと処理に困ってたんだ~」
「それならご相伴に預かろうかしら」
ジュリアはハツラツとした笑顔で、姉に苦悩を悟らせない。少なくともジュリアは姉の記憶を取り戻そうとは考えていなかった。
姉が料理の支度をしている間、私はジュリアと二人で近所を散歩する事になった。二人きりでなければ出来ない会話もたくさんあったから。
「美咲は相変わらずねぇ。あんたも元気そうで安心したわ」
「ジュリアは少し変わりましたね。なんというか、明るくなりました」
「それはお互い様でしょ? もうグチグチ細かいことで悩んでるのがバカらしくなっちゃって。他にもっと大きい悩みがあったものね」
やや大げさに肩を竦める動きで彼女は溜息をこぼした。
最近は両親の仕事に付き合って海外に行くことも増えたらしいジュリアは、ちょっと見た目通りの感じになりつつあるような気がする。
「あんたの偏差値ならもっといい大学も狙えたろうに、そんなに姉が心配だったの?」
「心配というか……折角姉と過ごせる今があるのですから。そうしたものをもう少し大事にしようかと思っただけです」
「そうね。今目の前にある現実はとても尊いものだわ。決しておざなりにしていい未来なんてないものね」
少し寂しげにそう言って彼女は笑った。私はうつむきがちに問う。
「あれから……彼の事は進展はないんですよね」
「ないわね。あっち側とこっち側の扉は完全に閉ざされたってメリーベルも言ってたし。本当、あのバカは」
メリーベルとはもう随分長い間会っていない。ジュリアの方は少し関わりがあるみたいで、たまに話を聞く機会があるようだった。
みんなのその後も、少しだけ聞いた。
清四郎さんはあれからボクシングに復帰……と思いきや、メリーベルのツテでバテンカイトスに就職したらしい。
マトイは記憶を消されていたけれど、前向きな気持ちだけは忘れていなかった。元々引っ込み思案を直せば美人そのものだったので、今はモデルの仕事をしながらいい大学に通っていると聞いた。
クラガノ、ハイネといった連中も記憶を消されて元の生活に収まった。クラガノはザナドゥ事件以外にも色々犯罪行為が発覚して逮捕。ハイネはその後どうしたのかは知らない。
勇者連盟の皆は社会人が多かったから、それぞれ元の生活に戻った。遠藤さんは瑞樹さんと案の定結婚して、葵を養子にしたらしい。探偵家業からは足を洗って、やっぱりメリーベルのツテで公安警察になったとか……。
記憶を失った人達との接点はなくなってしまった。私達はザナドゥというゲームを介して知り合ったに過ぎなかったから。
あの世界での思い出が失われれば絆も失われる。それは寂しいことだけれど、仕方がないのかもしれない。
私達はそれぞれ自分の人生を歩き始めた。もう過去へ戻る事は出来ない。後悔しても仕方がないのなら、明日に向かうしかないのだ。
「あんたさ。礼司の事好きだったんでしょ?」
「そういうジュリアもでしょう」
「どうだったのかな? あたしにとってあいつは……うん、確かに特別。だけど、今はなんとも言えない。あいつは結局戻ってこなかった、約束破りの最低野郎だから」
「そうですね。あの人はほんっと、最低です」
異世界へ通じる道は閉ざされ、XANADUと呼ばれたゲームは終わった。
後に残されたものは何もない。私達の胸の中にある思い出だけ。これが本当に輝かしい未来なのかどうか、私にはわからない。
「だけどね。あたしは今でも時々思うのよ。あいつがフラっと、当たり前みたいに帰ってくるんじゃないか、って」
「……ジュリア」
「皆がわーっと集まって、何やってんだ馬鹿野郎ってあいつを袋叩きにしてさ。そんで、おかえりって……。そういう都合よすぎる未来を期待している自分がいるのよね」
背後で手を組みながら苦笑を浮かべるジュリアの横顔を私は笑えなかった。
何故ならば私も全く同じだったから。彼が何事もなかったかのように、この世界に戻ってくる時が来るのではないか。そう、信じたかったから。
今もこの世界ではあの事件で生命を落とすはずだった人達が生き続けている。それはもう決して届くことのない遠い遠い異世界で、まだ彼が生きている事を意味している。
彼は毎日毎日、この世界に無数の魂と肉体を逆召喚し続けているのだ。それがいつまで続くのかはわからない。或いは彼らが死に絶えるまでずっと続くのかもしれない。
それはすなわち、私達が死ぬまで彼がこの世界に戻ってくる事はないという事で。私が彼に、おかえりって言ってあげる事はできないって事で。
それを思うと無性に悲しくなって、やりきれない気持ちになって……。胸が張り裂けそうになる。
どうしてあの時私は、彼を止めることができなかったんだろう。そんな後悔がまた首をもたげてくる。
見上げた空はもうあの世界には通じていない。ふと足を止めた私につられ、ジュリアも空を見上げた。
「……戻りましょうか」
それ以上彼女は何も言おうとしなかった。私はゆっくりと踵を返す。
何度目かわからないほど繰り返された決別の言葉を胸に。私はまた、彼の居ない未来へと歩み始めた。




