悪評の裏側
夜会に不在だったアイヴァンとフリーダはどこにいるのか。
家にいるのか。
それとも遊び歩いているのか。
いいや、王宮にいた。サディアス王子の執務室に二人はいたのだった。
アイヴァンは机に向かって羽ペンを持ち、書類を書き続けている。その表情は集中しているようだが、同時に疲れと焦りもうかがえた。一方のフリーダは真剣な眼差しで文書を読み込んでいたが、時折小さな溜息をが漏れる。
静かな執務室の中で、仕事は着実に片付いていく。しかし、二人の表情からは仕事からの解放は感じられず、何かが重く圧し掛かっているような雰囲気が漂っていた。
「アイヴァン、フリーダ嬢。進捗はどうだ?」
執務室のドアが突然開き、不躾に声をかけて来たのはサディアス王子の最も近しい側近であり、宰相の息子である侯爵令息だった。
「9割ほど終わっていますが、1割ほどがまだ残っています」
アイヴァンは机に向かいながら、疲れた表情で侯爵令息に答える。
「まだ1割も残っているのか。貴方達のペースが遅いのか、それとも単に能力不足なのか、よく分からないな」
軽蔑の念が込められた言葉は、どちらもアイヴァンとフリーダを貶めるものだった。酷い侮辱だったが、二人は口を閉ざして異議を唱えることはない。
ちなみに残り1割の仕事は、サディアス王子の直筆のサインが必要なものばかり。二人の落ち度ではない。
「今夜は帰ってももう良い」
侯爵令息は既に二人を見ていなかった。彼の指示に従い、文官達がアイヴァン達が作った資料を外に運び出し、そして新しい書類がワゴンに乗って運ばれてくる。
疲れ果てた表情のまま、兄妹は帰途に就いたのだった。
アイヴァンとフリーダの日常は、毎日がこの繰り返しだった。
朝早くから夜遅くまでサディアス王子の執務室に閉じ込められ、彼の公務を肩代わりさせられているのだ。フリーダは妃教育で抜けることはあるが、アイヴァンは訓練に赴くことも許されず、許可がなければ中座することも許されない。
王子の騎士に就任した当初は、アイヴァンは騎士団の訓練に参加していたのだ。
けれど、ある時、サディアス王子や側近達の書類の間違いを指摘したことから、運命は変わってしまった。
『貴様は主の危険に目を配るよりも、この程度の些事の方が気にかかるようだな』
サディアス王子が冷淡に嘲笑う。
それ以来、アイヴァンは一日の殆どを王子の代わりに仕事をさせられることになったのだった。曰く、『私よりも仕事ができると思ったから口を出したのだろう?お前の望みを叶えてやろう』と。
巷では慈悲深い王子と言われているがとんでもない。
美しい外見に騙されるだけで、本性は傲慢で怠惰。そして自己中心的な人間だ。自分の仕事を他人に押し付けて、夜会に顔を出して遊んでいるのだ。そしてアイヴァンの悪評を拡散させて、同情を買うことも忘れない。アイヴァンの婚約者と同種の人間だった。
サディアス王子に尽くすために生きろと育てられてきたアイヴァンだが、流石に問題があるのではないかと父親に訴えた。国王が任せた仕事を自分のような者が関わって良いのかと。あくまでも自らを下げた上で陳情したのだった。
普通の親ならば自分の子供が理不尽な目に遭っていたら放っておかないだろうが、彼らの父親は残念ながら普通ではなかった。
『お前のような凡人が、殿下の御力になれたのだ。喜ばしいことではないか』
と、一蹴されただけだった。
父である騎士団長から抗議が無いと分かると、サディアス王子はますますアイヴァンに押し付けるようになった。
再び陳情したが、口答えするなと顔を殴られて終わった。
このまま使い潰されて終わるのだとアイヴァンは己の人生を一度諦めた。
自分一人が死んだところで妹一人が嘆くくらいだと思っていた。母親はとうの昔に王妃を狂信する夫に愛想を尽かし、家を出ている。体面があるので離婚はしていないが、別邸で愛人を囲っているとか。
しかし、事態は大きく変わることになった。妹のフリーダがサディアス王子の婚約者に選ばれたのだ。
もちろんフリーダが望んだことではない。またしても父親が無理やり押し込んだのだとすぐに分かった。
婚約の話を聞いた時、アイヴァンは心の底から愕然とした。彼にとってフリーダは唯一の希望であり、家族の中で唯一心を通わせることが出来る存在だ。そのフリーダがサディアス王子の犠牲になるなどアイヴァンにとって耐え難いことだった。
フリーダは兄アイヴァン同様、執務能力が高かった。それを王子が見逃すはずがなかった。
婚約を機にサディアス王子はフリーダにも公務を押し付けるようになった。彼女の妃教育の合間に次々と書類の山を積み上げていく。
『私のために働くことができて幸せだろう』
サディアス王子は皮肉げに嗤った。そしていつの間にか公務以外にも、側近達の仕事まで回されるようになったのだった。完全な嫌がらせだった。
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「ふぅ……」
向かいに座るフリーダが憂いた表情で息を吐く。心底疲れ切っているのが見て取れた。
アイヴァン同様に厳しく教育されてきたとはいえ、男と女では体力も違う。朝から晩まで同じ作業をしていても、疲労度はフリーダの方が強いのは当然のことだった。
アイヴァンは内心で歯噛みした。現状を打破する手段が見つからず、彼は絶望するしかなかった。
どうすれば自分たちの状況を変えることができるのか。しかし、どの道も閉ざされているように感じた。王族の絶対的な権力と父親の無理解、そして自分の無力さにアイヴァンは押し潰されそうだった。




