別れの舞踏会
アイヴァンは舞踏会の喧騒から離れ、静かな場所を求めてバルコニーに足を運んだ。
夜の涼しい風が顔に当たり、彼は深く息を吸い込んだ。広がる夜景と静かな空気が、心を少しだけ落ち着かせてくれる。
落ち着くと、先程のエセルに対して、後悔の念が湧き上がる。
「礼儀を欠いたな……一方的に詰るなど、申し訳なかった」
アイヴァンはため息を吐き、手すりにもたれた。愛情が無くても、婚約者としての礼節を守るべきだった。それを思うと、アイヴァンは自身の未熟さを痛感せざるを得なかった。
「ここにいたんですね」
柔らかい声が背後から響き、アイヴァンは振り返った。そこにはスズが立っていた。
彼女は鬼燈国の正装に身を包んでおり、そのあまりの美しさにアイヴァンは思わず言葉を失った。
淡い薄紅色から下に向かって濃い紅色へと変わり、袖口や襟元には繊細な金糸の刺繍が輝いている。ふんわりと広がる裾はスズが動く度に優美に揺れた。髪にも美しい装飾が施されていて、全てが彼女の美しさを一層引き立てているのは間違いなかった。
「どうしてここに……?」
スズの登場に驚いたアイヴァンは思わず後ずさりしてしまった。彼女への想いがこれ以上募るのを避けたかった。
「貴方を探していたのです」
「私を?」
「えぇ。少し話をしたくて……」
スズの真剣な目を見て、アイヴァンは躊躇いながらもスズの言葉に耳を傾けた。
「私、明日帰国するんです」
「あぁ……」
随行員であるスズは、リンレイ王女の帰国と共に鬼燈国に帰るのは当然のことである。日程も最初から決まっている。わざわざ口に出さなくても、アイヴァンも知っているのだ。
「ヴェリアスタでの日々は、貴方のお陰でとても楽しかった。色々な場所に案内してもらって、とても有意義に過ごせました」
スズの言葉に、アイヴァンは胸が締め付けられる思いだった。
親善訪問の日程やもてなしなどは、最適解を事務的に選んだものでしかなかった。言われるがままに仕事を片付けただけで、王女一行が喜ぶだろうだとか、そんなことは一切考えもしなかった。アイヴァンはスズの真摯な言葉に心が痛み、自らの誠意の無さを悔やんだ。
「申し訳ない……」
「どうして謝るんですか?」
彼女の穏やかな問いかけに、アイヴァンは一瞬言葉に詰まった。その純粋な瞳に見つめられると、更に心が重くなる。
「私は、ただ仕事を熟しただけなんだ。心を込めて、王女殿下や鬼燈国の方々をもてなそうなどとは考えもしなかった。それなのに、君にとって楽しい時間になったと言われると……申し訳なく思う」
罪悪感に打ちひしがれるアイヴァンだったが、彼の言葉を聞いたスズは小さく笑った。どうして今笑われたのか分からず、アイヴァンは戸惑いを隠せない。
「どうして笑うんだ?」
「だって謝る必要などありませんのに、本当に律儀な方ですね。そこがまたアイヴァンさんの素敵なところなのですが……」
クスクスと可愛らしく笑うスズの様子に、アイヴァンも次第に肩の力が抜けていくのを感じた。
「貴方は職務を全うしただけ。それ以上でもそれ以下でもありません。私はアイヴァンさんのお陰で、ヴェリアスタでの日々は本当に特別なものになりました。とても大切な思い出になりました」
スズはそう言って微笑んだが、その表情には少し寂しさが漂っていた。こうして話せるのも今夜が最後だと感じているのだろう。アイヴァンもスズとの別れを思うと胸が痛んだ。
「スズ……」
アイヴァンが言葉を探していると、スズが静かに口を開いた。
「アイヴァンさん、最後にお願いがあります」
「お願い……?」
スズが一歩アイヴァンに近づき、優雅に礼をすると彼の手を取った。
「最後に、一曲だけ私と踊っていただけませんか?」
彼女の真剣な瞳に見つめられ、アイヴァンは一瞬戸惑ったが、すぐにその手を優しく握り返した。
「もちろん、喜んで」
アイヴァンはスズの手を引き、二人はバルコニーの中央に立つ。二人は室内から微かに聞こえる演奏に合わせ、静かに踊り始めた。スズの美しい衣装が夜風に揺れて一層優雅であった。
「本当にありがとうございました。貴方との時間は、私にとって生涯の宝物です」
「私の方こそ――。過ごした時間は短くとも、君との出会いはかけがえのないものだった」
踊りながら互いの温もりを感じ合う。別れの寂しさを胸に抱きながらも、この瞬間が永遠に続いて欲しいと二人は強く願った。けれど現実は厳しく、音楽は終わった。
二人の手は離れる。スズはもう一度アイヴァンに微笑み、深く礼をした。
「ありがとう、アイヴァンさん。どうか、お健やかに」
「君も、どうか元気で」
アイヴァンも深く礼を返し、スズの手を最後に軽く握った。離れがたい思いであったが、スズはアイヴァンの手を離し、静かにバルコニーを後にしたのだった。




