虚飾の夜
アイヴァンがスズのことで思い悩んでいる間も時間は過ぎていく。やるべきことは山のようにあり、彼は忙しなく仕事をしていた。王女一行の滞在に関わる書類を整理し、次の準備に奔走している。疲れが見え始めた顔に汗が浮かぶが、彼の手は止まらない。
そんなアイヴァンを尻目に、サディアス王子は側近たちと楽しそうにお喋りをしていた。豪奢な長椅子にくつろぎ、昼からワインを片手に笑い声を上げている。
「殿下、ご存じですか?あの王女、どうやら自国内での婚約が破談になったばかりのようですよ」
側近の一人が話し始めると、王子は興味深そうに眉を上げた。
「それは初耳だな。何故また?」
「詳しいことは分かりませんが、どうやら男の方から断ってきたという話です」
別の側近が下品な笑い声を立てながら口を挟んだ。
「一国の王女ともなれば、いろいろと難儀なことがあるんでしょうな。彼女の美しさも問題になったかもしれませんね」
「美しさ故に、ね。男も慎重になるのも当然だな」
彼らの下品な笑い声が響く中、アイヴァンは黙々と作業を続けていたが、心の中に怒りと嫌悪感が渦巻いていた。リンレイ王女の品位を貶める彼らの言葉に、彼はどうしても耐え難い憤りを感じた。
アイヴァンはふと、リンレイ王女が村人たちに見せた誠実な姿を思い出した。彼女がどれだけ心から人々と交流し、手を汚して働く姿を見せたかを思い返すと、ここで繰り広げられる品性下劣な話に対する怒りが募った。
「なるほど。だから外遊を口実に新しい男を探しているとは、何とも忙しいことだな」
王子がワインを飲み干しながら冷笑するのを見て、アイヴァンは彼らの浅はかな言動に対する嫌悪感を抑えきれず、拳を固く握りしめた。それでも表情には出さず、仕事に集中し続けるしかなかった。
アイヴァンは目を逸らしていたために気づかなかったが、サディアス王子はアイヴァンを見つめていた。その眼差しは何かを企んでいるかのようだった。
+++++
リンレイ王女の帰国前夜に行われる舞踏会の当日。王城内は華やかな装飾と音楽で彩られていた。
アイヴァンは舞踏会には参加せず、裏方に徹するつもりだった。婚約者であるエセルからもエスコートの断りの知らせが届いている。この舞踏会でもアイヴァンの悪評を広めるつもりだろう。
しかし、何故かサディアス王子直々の命令で出席せざるを得なくなってしまった。
アイヴァンはサディアス王子とフリーダの後ろに付き従い、会場に入る。
周囲からはフリーダを妬む声が聞こえてくる。サディアス王子の妃に相応しくないとフリーダを貶める声は、王子の承認欲求を満たしていることだろう。
そもそもサディアス王子はフリーダとの婚約は不満だったのだ。彼はより美しく身分の高い令嬢を妻に迎えたかった。所詮は伯爵令嬢に過ぎないフリーダは自分には相応しくないと心の底から信じていたのだ。そのため、彼はフリーダが非難されても庇うことなく、彼女に公務を押し付けて人前に出さず、周囲に暗い女だと印象付けた。
広間には煌びやかな衣装に身を包んだ貴族たちで賑わいを見せていた。音楽が流れ、歓談の声が響く中、国王が壇上に立つ。
「今宵の鬼燈国との友好を深める催しに、これほど多くの者達が集まってくれたことを大変嬉しく思う。我がヴェリアスタと鬼燈国は歴史的な意義を持ち、今後も強固であり続けるだろう。リンレイ王女殿下、こちらへ」
リンレイ王女が壇上に上がり、国王の隣に立つ。相変わらず顔をベールで隠した装いで、大柄な出で立ちは人目を引いたが、彼女は動じる素振りはない。
「リンレイ王女殿下とその随行団が我が国に滞在された期間、両国の絆がこれまで以上に深まったことを大いに喜ばしく思う。この交流が我がヴェリアスタに多くの恩恵をもたらすことだろう」
国王は一度会場を見渡し、貴族たちの注目を集めた。
「そして、明日、鬼燈国の皆様が無事に帰国されるが、我々の友好の証はこれからも続いていくことをヴェスタリアは強く望んでいる」
国王の言葉が終わると、リンレイ王女は一歩前に出る。
「ヴェリアスタ王国の皆様、心温まる歓迎に深く感謝しております。この滞在を通じて、両国の絆が一層深まったことを実感しております。私たち鬼燈国の使節団も、皆様との交流を大変喜ばしく思っております。明日の帰国まで、どうぞよろしくお願いいたします」
彼女が自らの言葉で話し始めた瞬間、会場内は一瞬で静まり返った。共通語を理解できないと思われていた彼女の流暢な言葉に、貴族たちは驚きを隠せなかった。
静寂に包まれた後、再び大きな拍手が湧き上がった。それから、国王はサディアス王子を称賛した。
「サディアス、今回の親善訪問の準備は見事であった。王女殿下も非常に満足されているようだ」
サディアス王子は堂々と自信に満ちた表情で頷きながら応える。
「ありがとうございます、国王陛下。しかし、この成功は多くの者の協力があってこそのものです。皆の協力に感謝します」
実務には何一つ携わっていないのに、こういう時の解答は完璧だった。
「特にアイヴァン・ソーンヒル伯爵令息の働きは目を見張るものがありました」
この言葉にアイヴァンはギョッとした。サディアス王子がアイヴァンを褒めるなど、これまで絶対に有り得なかったことだからだ。王子の本性を知っているフリーダや側近たちも目を丸くして驚いている。何も知らない貴族たちは慈悲深い王子だと褒め称えた。
アイヴァンは戸惑いながらも、礼を取るために前に出る。場内の視線が一斉にアイヴァンに集まり、彼は深く一礼した。
「このような名誉を賜り、光栄に思います。全てはサディアス殿下の御指導の賜物でございます」
サディアス王子は満足げに頷き、会場内に微笑みを投げかけた。アイヴァンはその笑顔の裏にある意図を見抜けず、不安を感じながらも、何とかその場をやり過ごした。
王子の意図は分からないままだが、恐らくこれが正解なのだろう。無能な部下に花を持たせる有能な上司を気取ったつもりなのかもしれない。




