第三話:王子の筋肉は育ち盛り
「……九十八、九十九、百!結構ですわ!」
わたくしの、張りのある声が大広間に響き渡ると同時に、エドワード王子は、ぜえぜえと荒い息をつきながら、その場にへたり込みました。その額には玉の汗が光り、完璧に整えられていたはずの金髪は、今は汗で肌に張り付いています。
ですが、その瞳は、これまでに見たこともないほど、生き生きとした光を宿しておりました。
わたくしは、満足げに頷くと、近くのテーブルから水の入ったグラスを取り、彼の前に差し出しました。
「お疲れ様でした、殿下。まずは水分補給を。筋肉を酷使した後は、経口補水液が最適ですが、今はないので水で我慢なさい」
「は、はあ…ありがとう…」
王子は、震える手でグラスを受け取ると、一気にそれを飲み干しました。
わたくしは、彼の前にしゃがみ込むと、トレーナーとしての厳しい目で、その肉体をチェックし始めます。
「どれ、本日のトレーニングの成果を見せていただきましょう」
わたくしは、まず、彼の太腿を、指でぐっと押しました。
「ほう…短時間で、ここまで大腿四頭筋に張りが出るとは。素晴らしい素質ですわ」
次に、力なく投げ出されていた腕を取り、その上腕二頭筋をむんずと掴みます。
「まだまだ脂肪が多いですが、その奥に、確かな芯の力を感じます。これは、良い筋肉に育ちますわよ」
わたくしの、専門家としての的確な分析に、王子は、疲労困憊のはずなのに、ぱあっと、その顔を輝かせました。それは、これまで彼が令嬢たちに見せてきた、完璧な王子様の笑みとは違う、もっと、純粋な、少年のような笑顔でした。
「本当か、イザベラ嬢!私にも、君のような、強い肉体が…!」
「ええ。正しいトレーニングと、適切な栄養摂取、そして、何よりも、決して諦めない強い意志があれば、可能ですわ。見込みがありますわよ、殿下」
わたくしのその言葉は、彼にとって、どんな愛の囁きよりも、甘く響いたのかもしれません。
王子は、汗まみれの顔のまま、うっとりとした表情で、わたくしを見つめていました。
その頃、大広間の貴族たちは、止まったワルツの音楽も忘れて、ただ、目の前の信じがたい光景について、ひそひそと囁き合っておりました。
「見ましたか、今の…?王子殿下が、あのツェルバルク嬢に、まるで子犬のように…」
「あれが、ツェルバルク家に伝わる、新たな求愛の儀式なのかしら…?」
「まさか…我が国の世継ぎが、筋肉で選ばれる時代が来るとでも…?」
二人の奇妙な関係は、その日の夜会で、最も熱いゴシップとして、瞬く間に王都の社交界を駆け巡ることになったのです。
わたくしは、そんな周囲の混乱には一切気づかず、立ち上がると、王子に最後の助言を授けました。
「よろしいですか、殿下。筋肉のゴールデンタイムは、トレーニング後30分以内。今すぐ、厨房に命じて、高タンパクな食事を摂取なさい。ささみとブロッコリーが最適解ですわ」
そう言い残し、わたくしは、満足感に浸りながら、その場を後にしました。
後に残されたのは、筋肉痛と、今まで感じたことのない恋の予感に打ち震える一人の王子と、そして、価値観が根底から揺さぶられた、大勢の貴族たちだけでした。
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