〈28〉謎の女
キンブルと一緒に地面にへたり込んだままでいると、向こうから誰かが走ってきた。コリンだった。
「あ~ね~ご~っ!」
ふわぁああん、と大泣きするコリンを久々に見た。
「あっ、コリン。置いてってごめんな」
座ったまま笑いかけると、コリンもオーレリアのそばに座り込んだ。
「そこじゃないです! いや、そこもですけど! 危ないことしないでくださいっ!」
「ごめん、つい」
「ついじゃないですよぅ! 姉御に何かあったら、僕、どこにも顔向けできませんけど、こんなオジサンいなくても、僕は全然困らないんですから!」
泣き喚きながら結構ひどいことを言っている。キンブルは耳を塞いでいた。オーレリアはアハハ、と笑っておく。
「可愛い顔が煤だらけじゃないか。まったく、困った子だ」
と、兄もハンカチを取り出してオーレリアの顔を拭いた。
「兄さんに可愛い顔とか言われたくない」
「えっ、反抗期?」
「いや、似たような顔なんだから自画自賛にしか聞こえないし」
「そうかなぁ?」
さっきまでの緊張が嘘のように妙に和んだ。ガルムもやってきて、オーレリアの周りをぐるぐると回っている。
ラルフが気遣うようにオーレリアに声をかけた。
「うちで休んで来いよ。立てるか?」
手を差し伸べてくれたので、オーレリアはその手につかまって立ち上がった。ラルフは、オーレリアが体重をかけたくらいではよろめかなかった。
「ありがとな」
礼を言うと、ラルフは軽くうなずいた。少し、表情が硬い。
そのまま立ち去ろうとしたら、キンブルが身じろぎした。
「あ、あの、だな……」
「うん」
「あ、あり、がとう。それから、申し訳なかった」
とても素直な言葉をくれた。
それを意外だと言ってはいけないだろうか。
オーレリアはクスリと笑う。
「そうだな。悪かったと思ってくれるなら、落ち着いたらちゃんと話してほしいんだけど」
「わかった」
項垂れた様子に嘘はないように見えた。
ジョージはキンブルの家の消火を手伝っていて、家にはアネリしかいなかったけれど、汚れたオーレリアを見るなり湯を沸かして汚れを落としてくれた。
こざっぱりした頃にジョージはラルフとキンブルを連れて戻ってきた。
「暖炉に火を入れて、部屋があたたまったらうたた寝をしてしまったんだ。書類を広げていたから、それが落ちて火がついたのかもしれない……」
キンブルはしょんぼりとして毛髪の薄い頭を下げていた。そんなキンブルを気にしながらジョージが言う。
「でも、発見が早かったから火がついたのはひと部屋だけで全焼しなかったんだよ」
「そりゃよかった」
トンプソン家のリビングが狭いとは言わないが、トンプソン家の三人に加え、オーレリアと兄、コリン、キンブルの計七人が詰めるとさすがに手狭だ。家の中に入れてもらえなかったガルムは外で丸くなっている。
「今更だが、あんたのその顔……コーベットの身内なんだな」
キンブルはオーレリアと兄の顔を見比べていた。ジョージはラルフから事情を聞いたようで、特に驚いてはいなかった。
「この子は僕の妹のオーレリアです。事情があって離れて暮らしていましたが」
兄が答えると、キンブルはうなずいた。
「あんなに邪険に扱ったのに、まさか助けられるとは思ってもみなかった。ワシは一体何をしていたのかと思い起こしたら、本当に自分が嫌になったんだ」
「それがわかったんだったら、あんたまだマトモだよ」
フォローになるのかならないのかわからないことを言うオーレリアだったが、キンブルは大人しかった。
「これまで、アトウッドはコーベット商会とよい関係を築けていた。それなのに、どうして最後まで信じ抜くことができなかったのかと、そこも自問している。最初から裏などなかったとしたら、ワシがしたことはなんだったのかと……」
「キンブルさんにコーベットの裏切りを説いたのは結局誰だったんだ?」
ラルフが問いかけると、キンブルはもう観念したようにうつむいたまま零した。
「ブリジット・ワドル」
その名にいち早く反応したのは兄だった。
「ワドル商会ですね?」
キンブルは地面にめり込むくらい深々とうなずいた。
「兄さん、知ってるんだな?」
「ああ。ワドル商会は今はそれほどの規模ではないけれど、都にも進出してきた伸び盛りの会社だよ。そういえば、イジドアを拠点として起業していたかもしれない」
それはますます怪しい。
「ブリジット嬢は会長の一人娘で、商談をまとめる素晴らしい手腕を持った才媛らしい。僕はまだ会ったことはないけれど、話には聞いている」
「商談をまとめる、なぁ。それって間違いなく美人だろ?」
と、キンブルに振ってやったら、びくぅっと肩を跳ね上げた。間違いない。
美人にデレデレして丸め込まれたと、そういうことだ。
「ああ、思い出した。ワドル商会のブリジットさんな。色っぽいし、あざとい感じの。あれは話してると、自分のこと好きなんじゃないかって誰でも錯覚する」
ラルフも会ったことがあるらしい。アトウッドに挨拶に来たことがあるのだろう。
「あんたも錯覚した?」
オーレリアが突っ込んでみると、ラルフは嫌な顔をした。
「しねぇよ。手を握られたくらいで本気で相手にされるわけねぇし」
「ブリジットさんに手を握られたのかっ? ワシにはそんなこと一度も――っ」
「……キンブルさん、話がややこしくなるので」
ジョージが穏やかに、冷静に突っ込んだ。いい仕事ぶりだ。
「コーベットっていうでっかい船の底に穴を空けてやりたかったってこと? 悪評だけじゃなくて兄さんの誘拐まで仕組んでたらあくどいにもほどがあるけど」
すると、兄は急に黙った。何か考え込んでいる。
「兄さん?」
「いや、もしワドル商会がすべてに関わっているとしたら、あの誘拐になんの意味があるのかなと思って。コーベットの悪評を撒くのはまあ理解できる範疇だ。でも、あんな中途半端に僕を攫って何がしたかった?」
「何って?」
すると、ラルフは居心地が悪そうなキンブルに向けて言った。
「あの『至高の雫』って偽物だったよな」
「あっ、やっ、それは……っ」
その狼狽え方は偽物だと認めたようなものだ。
「それって、偽物の代金として本物と同じ額を受け取るつもりだったのか?」
オーレリアも言ってやると、キンブルは一回り小さくなったように見えた。
「だ、代金は要らない。命まで助けてもらったし、その、悪かった……」
ここへ来てやっと素直な謝罪が聞けた。
そんなやり取りを見ていた兄は難しい表情をしたまま首を傾げている。
「ワドル商会、ワイン、誘拐、ブリジット……」
そこまで言うと、ハッと目を見開いた。
「アーヴァイン!」
「はっ?」
今、はっきりとアーヴァインと言った。
何故そこで軍人である親友の名が出るのだ。
「兄さん、今、なんて?」
オーレリアが問い詰めると、兄は急にとぼけたような顔をして目を逸らした。
「な、何が?」
「アーヴァインって言わなかったか?」
「えっと、そう聞こえたなら、オーレリアがアーヴァインを恋しがっているせいじゃないかな?」
「なっ、何言ってるんだよ!」
カッと赤くなったオーレリアの横で、コリンがとても冷ややかだった。
「僕はちっともアーヴァイン様が恋しくはないですが、僕にもそう聞こえました」
「コ、コリン。ちょっとくらいは恋しがってあげてくれないか?」
「無理です」
親友のフォローをした兄に向ってコリンはにこっと笑っているが、部屋にブリザードが吹いたような気がした。
兄はコホン、と咳ばらいをしてごまかす。
「ちょっと頭を整理する時間がほしいんだ。また後で話すから」
「ふぅん」
兄は一体何に思い当たったのだろう。




